儀式の夜、岬の断崖
夏休み最後の日。夜。
空には月がなく、星だけが氷のかけらのように冷たく、無数に瞬いていた。風は凪ぎ、聞こえるのは断崖に打ち寄せる波の音だけが、不気味なほど大きく断続的に響いている。その夜が、儀式の夜だった。
昼過ぎ、凪の姿が家から消えた。シズたちが数人の島民と共に迎えに来て、有無を言わさず連れて行ったのだ。叔父さんも叔母さんも、憔悴しきった顔で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。彼らもまた、島の因習と圧力の犠牲者だったのかもしれない。「すまない…海斗くん…すまない…」叔父さんはそう繰り返すだけだった。
「凪を、助けに行かないと…!」
俺は走り出そうとした。ユイも、青ざめた顔で俺の隣にいた。その手は固く握りしめられている。だが、家の周りには、見張り役なのだろう、ケンジを含む数人の島の若者が立ちはだかっていた。彼らの目は、異様な興奮と使命感でギラついていた。
「どこへ行く気だ、相葉」
ケンジが、憎々しげに俺を睨みつけていた。その目には、もはや理性のかけらもない、狂信的な光が宿っている。ミサキも、不安そうな、それでいてどこか高揚したような複雑な表情でケンジの隣にいる。
「どけ!凪を、凪を助けに行くんだ!」
俺の声は震えていたが、決意は揺らがなかった。
「邪魔するなら、容赦しない!」
その時、背後から小声で呼ばれた。
「海斗くん、ユイちゃん、こっち!」
見ると、ユイが以前から親しくしていた、あの若い漁師が物陰から手招きしていた。彼は他の島民とは違い、冷静な目をしていた。
「裏の戸が開けてある!儀式の場所は、岬の断崖だ。俺が時間を稼ぐから、急げ!あんなこと、させちゃいけねえ!」彼の声には、強い意志がこもっていた。
俺たちは、漁師の助けを借りて家を抜け出し、闇の中を岬へとひた走った。心臓が激しく脈打ち、息が切れ、足がもつれる。それでも、凪を助けなければという一心で、足を止めなかった。ユイも、必死に俺についてくる。彼女の荒い息遣いと、時折漏れる小さな嗚咽が、すぐ隣で聞こえた。
岬の断崖に着くと、異様な光景が広がっていた。
松明の炎が、断崖の縁をぐるりと囲み、パチパチと音を立てて揺らめいている。松明の煤けた匂いと、潮の匂いが混じり合う。その中央には、白い簡素な装束を纏った凪が、ぐったりとした様子で立たされていた。まるで、これから屠られる子羊のように。隣には、厳かな表情で呪文のようなものを唱えるシズの姿がある。周りには、十数人の島民たちが集まり、狂的な熱気と、ある種の神聖な義務感のようなものに包まれながら、儀式の始まりを待っていた。皆、どこか正気ではない目をしている。低い詠唱の声が、波の音と重なり、不気味なハーモニーを奏でていた。
「凪!」
俺は叫んだ。闇と静寂を切り裂くように。
その声に、凪がゆっくりと顔を上げた。その瞳には、恐怖と、諦めと、そして、俺を見つけたことによる、ほんのわずかな、しかし確かな希望の光が浮かんでいた。
「来たか、邪魔者め!」
シズが、鋭い声で俺たちを睨みつけた。皺だらけの顔が、松明の炎に照らされて鬼のように見える。
「この神聖な儀式を汚すつもりか!神罰が下るぞ!」
島民たちが、敵意を剥き出しにして俺たちを取り囲もうとする。ケンジも、怒りに顔を歪ませて立ちはだかった。「よそ者は失せろ!凪様を汚すな!」
「や、やめろ!凪を、凪を返せ!」
俺は叫び、凪のもとへ駆け寄ろうとした。
「させるか!」
ケンジが俺に掴みかかってくる。もみ合いになる俺たち。ユイが「やめて!」と悲鳴を上げる。
混乱の中、シズが何かを叫び、儀式を強行しようとした。二人の男が凪の両脇を抱え、断崖の縁へと無理やり連れて行こうとする。凪は弱々しく抵抗するが、力なく引きずられていく。その目は、絶望に濡れていた。
「やめろぉぉぉっ!」
俺は、渾身の力でケンジを突き飛ばした。ケンジは体勢を崩し、近くにいたミサキにぶつかって二人とも地面に倒れた。
シズが、驚愕と怒りの表情で俺を見る。島民たちも、一瞬動きを止めた。
その隙に、俺は凪のもとへ走った。そして、震える彼女の手を強く掴んだ。冷たい、汗ばんだ手だった。
「か、海斗、くん…」
凪の声は掠れていた。だが、その瞳は、確かに俺を見つめ返していた。言葉はなかった。だが、視線が絡み合い、一瞬にして互いの覚悟を理解した。凪の瞳の奥に宿る、絶望と、諦めと、そして俺への絶対的な信頼を読み取った。それで十分だった。
この狂気から逃れるには、もう、これしかない。
凪を守る。その一点において、俺たちの意志は一つになった。
次の瞬間、俺は動いていた。
掴みかかってきた別の島民を振り払い、そして――迷わず、儀式を主導するシズの体を、両手で強く押した。
「あっ…!」
短い、空気を裂くような悲鳴と共に、シズの体が断崖から闇へと吸い込まれるように落ちていくのが、スローモーションのように見えた。松明の明かりに一瞬照らされた、驚愕と disbelief に歪んだ老婆の顔が、脳裏に焼き付いた。
静寂。
風の音、潮騒の音だけが、耳に痛いほど響く。
島民たちは、目の前で起こった出来事に、声もなく立ち尽くしていた。松明の炎が、彼らの呆然とした顔を不気味に照らし出す。誰もが、息をすることさえ忘れているかのようだった。
ユイが、口元を押さえ、信じられないものを見る目で、震えながら俺を見ていた。彼女は、全てを目撃してしまったのだ。俺が、人を殺めた瞬間を。その瞳には、恐怖と、絶望と、そして俺への問いかけのような色が浮かんでいた。
俺の手には、いつの間にかカメラが握られていた。シャッターに指はかかっていた。けれど、押す代わりに、俺はカメラを持つ手に力を込め、そっと下ろした。ファインダーを覗くことはなかった。フィルムに焼き付けるべきは、この瞬間ではない。いや、焼き付けてはならないのだ。これは、俺と凪だけの現実にしなければならない。
俺は、凪の顔を見つめた。
凪は、俺の手を強く、強く握り返してきた。その表情には、恐怖も、悲しみもなかった。ただ、深い、深い安堵と、そして、俺と共に奈落へ落ちることを受け入れたかのような、歪んだ、しかし確かな微笑みが浮かんでいた。
夏休みの終わり。儀式の夜。
俺は、自らの意志で、決定的な罪を犯した。
凪と共に生きる未来のために。いや、凪と共に、この島という檻の中で生きていくために。
俺たちは、共犯者になったのだ。
大事な人を守るために手を染める勇気もあるのです