転換点、歪んだ決意
俺たちが掴んだ断片的な情報は、やがて一つの恐ろしい可能性へと収束していった。シズを筆頭とする島の一部の人々――特に、昔からの島のしきたりを重んじる長老格や、不漁続きで生活が苦しい一部の漁師たち――は、長引く不漁や、島を襲った小さな災害(例えば、崖の一部が崩れたり、井戸水が濁ったりといったこと)を、凪ぎ巫女である凪が「役目」を果たしていないせいだと考え、古来の儀式を強行しようとしているのではないか?そして、その儀式とは、凪の命に関わる危険なものである可能性が高い。
その疑念が確信に変わる出来事が起きた。
凪の心臓の病状が、急激に悪化したのだ。
顔色は青白く、唇は紫色を帯び、呼吸も浅く速い。起き上がることすらままならない日が増えた。シズは毎日凪の様子を見に来ては、薬草を煎じたり、脈を取ったりしていたが、その目は凪の体調を心配するというより、何かを確かめるような、儀式の「時機」を計るような、爬虫類のような冷たい光を帯びていた。
「凪の体は、もう限界に近いのかもしれん」
ある日、シズが叔父さんに告げているのを、俺は聞いてしまった。叔父さんは苦悩の表情で俯き、ただ黙って聞いているだけだった。
「凪ぎ巫女としての力が弱まっている証拠じゃ。このままでは、島に更なる厄災が降りかかるやもしれん。…儀式を、早めるしかない。それが、凪にとっても、島にとっても、唯一の道じゃ」
儀式を早める。その言葉が、俺の全身を凍りつかせた。やはり、彼らは本気なのだ。凪の命を危険に晒してでも、その狂った因習を実行しようとしている。
「そ、そんなこと、させるか!」
俺は咄嗟に障子を開け、叫んでいた。吃音のことなど、頭から消し飛んでいた。アドレナリンが全身を駆け巡る。
「な、凪は、生贄なんかじゃない!」
シズは、俺を虫けらでも見るような冷ややかな目で見据えた。
「よそ者の小僧が、島のことに口を出すでない。これは、この島と、潮見の血筋が永きに渡り背負ってきた宿命じゃ。凪自身も、覚悟はできておる」その声には、揺るぎない確信がこもっていた。過去に、この島が本当に厄災に見舞われ、因習によって救われた(あるいは、そう信じ込まれた)経験があるのかもしれない。彼女にとっては、それが疑いようのない真実であり、絶対的な正義なのだ。
俺は、シズと、それに抗えない島の人々の狂気に、そして凪を救えないかもしれないという無力感に、打ちのめされた。ユイも、この事態を知り、必死に外部に助けを求めようとした。本土の警察や役場に何度も電話したが、「離島の古い言い伝えでしょう?」「家族の問題では?」と真剣に取り合ってもらえない。島の駐在も、「まあまあ、落ち着いて」と宥めるだけで、シズには頭が上がらないようだった。フェリーも、天候不良を理由に欠航が続き、島は完全に孤立していた。まるで巨大な檻に閉じ込められたようだった。
絶望的な状況の中で、俺の心の中に、黒く、硬く、そして熱い感情が芽生え始めていた。
凪を守りたい。凪をこの狂った島から救い出したい。そのためなら、どんな手段を使ってでも――。
それは、純粋な正義感や優しさから来るものではなかった。凪への歪んだ独占欲、シズや島への燃えるような憎しみ、そして、吃音というコンプレックスから解放され、凪にとっての唯一の「ヒーロー」になりたいという、ねじくれた願望。それらがどす黒いマグマのように混ざり合い、俺の中で「凪のためなら、罪を犯しても構わない」という、歪んだ決意を形作っていった。
夏の終わりが近づいていた。蝉の声は弱まり、空の色もどこか寂しげだ。夕暮れの光が、部屋に長い影を落としている。
俺は、縁側で空を見上げていた。手には、あの古いカメラ。フィルムは、もう残り少ない。このカメラで、最後に何を撮るのだろう。あるいは、何も撮らないのだろうか。
隣には、いつの間にか凪が座っていた。病状が悪化しているはずなのに、その表情は不思議と穏やかだった。まるで、嵐の前の静けさのように。
「海斗くん」
凪が、俺の手をそっと握った。その手は、驚くほど冷たく、力がなかった。
「もし、私が、いなくなっても…海斗くんは、私のこと、忘れないでいてくれる?」
「な、何言って…」声が震える。
「ううん。いいの。もし、そうなっても…海斗くんが覚えていてくれたら、私は、それで…幸せだから」
彼女の瞳は潤んでいたが、涙は流れていなかった。
その言葉は、まるで遺言のように聞こえた。俺は、凪の手を強く握り返した。彼女の骨張った指の感触。
「い、いなくならない。絶対に。お、俺が、守るから。どんなことをしてでも」
俺の言葉は、決意の表れだった。けれど、その決意が孕む暗い響きに、俺自身も気づいていた。凪は、俺の目をじっと見つめ返し、そして、小さく、ほんのわずかに頷いたように見えた。その瞳の奥に、絶望と、諦めと、そして俺への絶対的な信頼が複雑に混じり合っているのを、俺は確かに感じ取った。
サイダーの瓶は、もう食卓に上ることはなかった。あの爽やかな甘さは、遠い過去の幻のように感じられた。代わりに、口の中に広がるのは、鉄のような、血のような、不吉な味だけだった。夏の終わりは、破滅への序曲を静かに奏で始めていた。