三角の歪みと凪の変貌
夏休みも中盤に差し掛かる頃には、俺と凪、そしてユイの関係性は、張り詰めた糸の上を歩くような、危ういバランスで成り立っていた。ユイの快活さは相変わらずだったが、島の閉鎖的な空気と、凪の内に秘めた影に、彼女も戸惑いを隠せなくなっていた。「なんだか、凪ちゃん、時々すごく遠くにいるみたいに見えるんだよね…」ユイは心配そうに呟いた。
そして、凪の変化は、誰の目にも明らかになっていた。
俺に対する依存心は、日に日に異常な様相を呈し始めていた。俺がユイと笑いながら話していると、後で凪は決まって口を利きたがらなくなり、その冷たい沈黙は俺を罪悪感で苛んだ。俺の持ち物、特にカメラに異常な関心を示し、「これで、私のことも、もっとたくさん撮ってね。ユイさんじゃなくて、私だけを」と囁くこともあった。その声には、甘えと同時に、有無を言わせぬ響きがあった。体調が悪くないはずなのに、急に胸を押さえて苦しそうなふりをし、「海斗くん、そばにいて…苦しい…」と俺の腕を掴むことも増えた。その演技じみた仕草に気づかないふりをしながら、俺は彼女のそばにいるしかなかった。一度だけ、ユイが凪に話しかけた時、凪が一瞬だけ、氷のように冷たい視線をユイに向け、すぐに儚げな笑顔に戻ったのを、俺は見てしまった。背筋がぞくりとした。
「海斗くんは、私のそばにいてくれればいいの」
ある晩、縁側で二人きりになった時、凪が俺の腕にそっと触れながら囁いた。月明かりに照らされたその目は、暗い水面のように光を宿していて、俺は思わず息を飲んだ。それは、純粋な初恋の眼差しではなかった。病的なまでの独占欲と、俺を繋ぎ止めようとする強い執着心が、そこにはあった。
「な、凪…?」
「ユイさんには、海斗くんは必要ない。あの人は、どこでだって生きていける強い人だもん。でも、私には、海斗くんがいないと…だめなの。息もできないくらい、苦しくなるの」
彼女の指が、俺の腕に食い込む。
その言葉は、俺の心の奥底にある、凪を守らなければならないという歪んだ庇護欲を強く刺激した。吃音という劣等感を抱える俺にとって、凪からの絶対的な「必要とされる感覚」は、麻薬のように抗いがたい魅力を持っていた。けれど同時に、その異常な執着に、言いようのない恐怖と息苦しさも感じていた。まるで美しい蔦に絡め取られていくように。
この頃から、俺の吃音は再び悪化し始めていた。凪の歪んだ愛情と、ユイへの後ろめたさ、そして島に漂う不穏な空気。それらが複雑に絡み合い、俺の心を蝕んでいく。特に、凪の独占欲を感じる時や、島の秘密に触れそうになる時、喉が石のように硬直し、「だ、大丈夫だよ」という簡単な言葉すら、全く出てこなくなることが増えた。声にならない叫びが、胸の中で渦巻いていた。
「海斗くん、最近、顔色悪いよ。ちゃんと眠れてる?」
ユイが心配そうに声をかけてくれる。その真っ直ぐな優しさが、逆に俺を苦しめた。ユイは、島の異質さに気づき始めていた。凪の異常なまでの俺への執着にも。けれど、彼女の持つ「正しさ」や「常識」は、この島では通用しないのかもしれない。一人でいる時、ユイがスマートフォンの電波を探して険しい顔をしているのを見かけることが増えた。「圏外…まただ。どうしてここだけこんなに電波悪いのかな」彼女は諦めたように呟いた。この島から外部に助けを求めることの難しさに、彼女は直面し、焦りと無力感を募らせていた。
「ねぇ、海斗くん。凪ちゃんのこと、もっとちゃんと見てあげて」
ある日、ユイが真剣な表情で言った。彼女の目は、俺の心の奥底を見透かそうとしているようだった。
「み、見てる、つもりだけど…」
「ううん、そうじゃなくて。凪ちゃん、すごく不安定だよ。何か、大きな不安を抱えてるみたい。それに、島の人たちの凪ちゃんへの態度も、やっぱりおかしいよ。この前の寄り合いでも、シズさんが凪ちゃんに何か強く言い含めてるの見たんだ。凪ちゃん、泣きそうな顔してた…でも、誰も助けようとしなかった」ユイの声には、無力感と焦り、そして憤りが滲んでいた。「私、何かできることないかな…。このままじゃ、凪ちゃん、壊れちゃうよ」
ユイの言葉は、俺が目を背けていた現実に、改めて向き合わせるものだった。凪の不安定さ。島の因習。シズの言葉。それらは全て繋がっているのではないか?
俺は、凪の部屋で見つけた古びた木箱のことを思い出した。あのお守りや、意味不明な文字が書かれた紙切れ。あれは一体何だったのか。凪は、何を強いられようとしているのか。そして、俺は本当に彼女を守れるのだろうか。
ヤンデレでもいいじゃないか。