忍び寄る影と島の因習
ユイという新しい風が吹き込んだことで、俺たちの夏は彩りを増した。三人で海岸を散歩して綺麗な貝殻を探したり、子供の頃に見つけた秘密の抜け道を探検したり、丘の上にある古い灯台に登って島を一望したり。フィルムは、そんなきらめく瞬間を次々と捉えていった。凪も、以前より外に出る機会が増え、表情が明るくなったように見えた。ユイの前では、俺の吃音もいくらかましになった。「海斗くん、ユイさんといると、話しやすそうだね」と凪に少し寂しそうに言われたこともあったが、全体的には良い変化だと思っていた。ユイは、港で時々見かける若い漁師とも親しく話していて、その屈託のなさが羨ましかった。彼は他の島の男たちとは少し違い、穏やかで、古いしきたりにも疑問を持っているような目をしていた。
けれど、その一方で、島の持つ独特の空気――どこか閉鎖的で、見えないルールに縛られているような感覚、そしてよそ者を見る猜疑的な視線――も、徐々に色濃く感じられるようになっていた。
特に、凪に対する島民たちの視線には、奇妙なものが混じっていた。それは、単なる同情や心配だけではない。畏れのような、あるいは、何かを期待するような、複雑な感情。道ですれ違う老人たちが、凪に向かって意味ありげに頷いたり、中には深々と頭を下げたり、手を合わせたりする者までいた。凪はそれに気づかないふりをしているようだったが、そのたびに彼女の肩が小さくこわばるのを俺は感じていた。
「凪ちゃんってさ、やっぱり島の人たちから特別扱いされてるよね?」
ある日、ユイが小声で俺に尋ねてきた。三人で神社の境内を散策していた時だった。苔むした石段、古びた鳥居、そして奥には鬱蒼とした森が広がっている。空気がひんやりとしていた。
「そ、そうかな…?病気だから、心配されてるだけじゃ…」
「うーん、それだけじゃない気がするんだよね。なんていうか…神聖視されてる、みたいな?この前の祭りの準備の時もさ、凪ちゃんだけ他の女子と違う場所に座らされてたし、触っちゃいけないものみたいに扱われてた」
ユイの観察は鋭かった。俺も薄々感じていた違和感を、彼女ははっきりと言葉にした。凪の家系は、古くからこの島で特別な役割を担ってきたという話を、祖母から聞いたことがあった。詳しいことは分からないが、島の安寧に関わる何かだ、と。「潮見の血筋は、この島にとっては特別なものだからねぇ」祖母はそう言って、どこか遠い目をした。
そんな矢先、俺たちは島の不穏な一面を直接的に垣間見ることになる。
島の高校に通う、漁師の息子だという島崎ケンジ(しまざき けんじ)という男が、何かにつけて俺たちに絡んでくるようになったのだ。特に、俺と凪が一緒にいることに対して、あからさまな敵意を向けてきた。
「おい、本土のもやし野郎。凪に馴れ馴れしくすんじゃねぇぞ」
ケンジは、潮風と太陽で鍛えられた、がっしりとした体格をしている。声も大きく、常に威圧的だ。その態度に、俺は何も言い返せない。吃音が酷くなり、「な、なんだよ…」という言葉すら、喉の奥で石のように固まってしまう。
「ケンジくん、やめてよ。海斗くんは私の従兄だよ」
凪が毅然とした態度で言い返すが、ケンジは鼻で笑った。
「従兄だろうが関係ねぇ。お前は島の人間だ。こいつみたいなよそ者とは違う。…凪は、俺たち島の宝なんだからな。汚されちゃ困るんだよ」
ケンジの言葉には、島特有の排他性が滲み出ていた。そして、凪に対する歪んだ、ほとんど信仰に近いような執着も感じられた。彼は、凪を人間としてではなく、島の象徴か何かのように見ている節があった。
さらに、ケンジに想いを寄せているらしい宮内ミサキ(みやうち みさき)という女子生徒も、陰湿な嫌がらせをしてくるようになった。凪や、特に快活で男子にも人気のあるユイに対する嫉妬心からだろう。すれ違いざまに悪口を囁いたり、ユイの自転車のタイヤの空気を抜いたり、凪の悪口をわざと俺たちに聞こえるように話したり。粘着質で、たちの悪いやり方だった。
「気にすることないよ、海斗くん」
ユイは気丈に振る舞っていたが、明らかに戸惑い、傷ついているのが分かった。一人になった時、彼女がため息をつきながら遠い海を眺めているのを、俺は何度か見かけた。「なんか、この島…変だよ。みんな、何をそんなに恐れてるんだろう」とぽつり呟いたこともあった。よそ者に対する壁の高さを、彼女も痛感し始めているようだった。
そんな不穏な空気の中で、俺は奇妙なものを見かけるようになった。
夜、家の窓から外を眺めていると、神社の森の方で、松明を持った人影が動いているのを何度か見た。まるで、何か秘密の儀式でも行っているかのように。風に乗って、低く厳かな、単調な詠唱のような声が聞こえてくることもあった。それは気味悪く、俺の不安を掻き立てた。
また、凪の部屋で、彼女が隠していた古びた木箱を偶然見つけてしまったことがあった。中には、魚の骨や鳥の羽で作られたような奇妙な形のお守りや、赤黒いインクで読めない文字がびっしりと書かれた紙切れが入っていた。得体のしれない、呪術的な雰囲気が漂っている。凪に尋ねても、「昔からの、おまじないみたいなものだよ。気にしないで」と曖昧に笑うだけで、すぐに箱を俺の手の届かない場所に隠してしまった。その時の彼女の目は、笑っていなかった。
そして、最も不可解だったのは、島の最長老格であり、凪の主治医でもあるシズという老婆の存在だ。シズは、時折凪の様子を見にやってくるのだが、その目はいつも厳しく、凪に対して何かを強いるような、有無を言わせぬ威圧感を漂わせていた。薬草の独特な匂いを身に纏い、その皺だらけの顔には、島の長い歴史と因習そのものが刻まれているかのようだ。凪は、シズの前ではいつも以上に大人しく、従順だった。まるで意思を持たない人形のように、シズの言葉に静かに頷くだけだった。
ある日、シズが凪の家を訪れた際、俺は障子越しに、偶然二人の会話を立ち聞きしてしまった。
「凪や、お前の役目は分かっておろうな。島の安寧は、お前の一族の血にかかっておる。先祖代々受け継がれてきたことじゃ。時期が来れば、覚悟を決めてもらわねばならん」シズの声は、低く、有無を言わせぬ響きを持っていた。
「…はい、シズ様」
凪の声は、感情を押し殺したように平坦だった。その横顔には、諦念とも抵抗ともつかない、複雑な影が落ちていた。
役目?一族の血?時期が来れば?
断片的な言葉が、俺の頭の中で不穏な響きを伴って反芻される。島に伝わるという古くからの因習。厄災除けの人身御供。凪の病と関連付けられた禁忌の儀式――。まさか、そんな非科学的なことが、現代に存在しているというのか?
背筋に冷たいものが走った。まるで冷水を浴びせられたように。
ファインダー越しに見ていたきらめく夏は、いつの間にか翳り始めていた。島の美しい自然の裏側には、根深い因習と、それを取り巻く人々の狂気が潜んでいるのかもしれない。
俺はカメラを構えた。レンズは、凪の部屋で見つけた奇妙なお守り(それは後日、凪がいない隙にこっそり撮ったものだった)に向けられていた。カシャッ。フィルムに焼き付けられたのは、単なる古びた手工芸品ではなかった。それは、この島に渦巻く、暗く、粘りつくような秘密の象徴のように思えた。
初恋サイダーの爽やかな味は、もう遠い記憶になりつつあった。代わりに、喉の奥に、鉄錆のような、不気味な味が広がっていくのを感じていた。
ラムネにするかサイダーにするか迷った結果、語感でサイダーに。