ファインダー越しの少女たち
汐凪島での生活は、穏やかに始まった。朝は様々な鳥の声で目覚め、昼は縁側で宿題をしたり、凪と他愛ない話をしたりして過ごす。東京の学校での息苦しさとは無縁の世界。吃音を気にする必要のない、凪との静かな時間。それは、俺にとって何よりの救いだった。
凪は、病弱さとは裏腹に、芯の強い少女だった。読書が好きで、部屋にはたくさんの本が並んでいる。時折、窓の外を眺めながら、遠い世界に思いを馳せているような、寂しげな表情を見せることがあった。
「海斗くんは、東京に帰りたい?」
ある日、凪がぽつりと尋ねた。縁側に座る俺の隣で、彼女は膝を抱えていた。
「べ、別に…。こ、ここも、嫌いじゃない」
「ふふ、そっか。私は、ずっとここにいるんだろうな」その言葉には、諦めと、ほんの少しの反発が混じっているように聞こえた。「でも、海斗くんがこうして夏に来てくれるなら、それも悪くないかな」付け加えられた言葉に、俺は何も言えず、ただ黙って頷いた。彼女の抱える運命の重さを、俺はまだ本当の意味では理解していなかった。
そんな凪との時間に、変化が訪れたのは数日後のことだった。
島の小さな商店に、母さんから頼まれた醤油を買いに行った帰り道。じりじりと照りつける太陽から逃れるように、防波堤の影に腰掛けて、買ってきたラムネを開けようとした時だった。
「ねぇ、君、もしかして相葉くん?」
弾けるような、快活な声に振り返ると、ショートカットの活発そうな少女が立っていた。白いTシャツにデニムのショートパンツ。日に焼けた小麦色の肌が健康的で、大きな瞳が好奇心いっぱいに俺を見ている。見慣れない顔だ。
「あ、あの…き、君は…」
まただ。初対面の相手だと、どうしても最初の音が滑らかに出ない。焦れば焦るほど、喉が締め付けられる。額に汗が滲む。
「あはは、ごめん、急に。私、日高ユイ。最近、こっちに引っ越してきたんだ。よろしくね!」
少女――ユイは、俺の吃音を全く気にする様子もなく、太陽のような笑顔を向けた。
「…あ、相葉、海斗。よ、よろしく」
やっとのことで名前を告げると、ユイは「海斗くんか!潮見のおばさんから聞いてたよ!東京から来てるって!」と嬉しそうに言った。
「もしかして、本土から来てるの?夏休みだけ?」
「う、うん。毎年…」
「へぇー!いいなぁ、こんな綺麗な島が故郷なんて。私、海を見るの初めてでさ、毎日感動してるんだ!空気も美味しいし!」
ユイは、本当に太陽みたいだった。その屈託のない明るさが、俺の心の壁を少しずつ溶かしていく。彼女は、俺が吃音であることを、まるで髪の色や背の高さと同じような、ただの個性として捉えているようだった。それは、俺にとって初めての経験だった。
「そ、そうだ。ら、ラムネ、飲む?」
ポケットを探ると、もう一本、未開封のラムネがあった。
「え、いいの?やったー!喉渇いてたんだ!」
ビー玉を押し込むのに少し手こずりながら、二人で防波堤に並んでラムネを飲んだ。シュワシュワと弾ける炭酸の刺激と、懐かしい甘い香り。夏の味がした。ユイは、島の暮らしのこと、学校のこと、海のこと、次から次へといろんな話をしてくれた。俺は、相変わらず詰まりながらも、彼女の明るいペースに乗せられて、少しずつ言葉を返すことができた。彼女と話していると、不思議と呼吸が楽になる気がした。
その時、ふと、膝の上に置いていたカメラを構えた。ファインダー越しに見るユイは、夏の光を浴びてキラキラと輝いていた。思わずシャッターを切る。カシャッ、という少し重たい、けれど心地よいメカニカルな音が響いた。
「わ、撮ったなー!今の、変な顔してなかった?」
ユイは悪戯っぽく笑って、ピースサインをした。
「へ、下手だから、き、期待しないで」
「いいよ、記念だし!ね、今度、凪ちゃんも一緒に遊ばない?潮見さんのところの。たまに港で会うんだけど、すごく綺麗な子だよね」
ユイの口から凪の名前が出たことに、少し驚いた。どうやら、二人は既に顔見知りらしい。
「う、うん。凪も、喜ぶと思う」
その言葉は、半分本当で、半分は確信がなかった。凪は、俺以外の人と積極的に関わろうとしない。ユイのような明るいタイプは、もしかしたら苦手かもしれない。それでも、ユイと一緒にいると、何か新しいことが始まるような、そんな予感がした。
その予感は、数日後に現実のものとなる。
凪の家の縁側で、俺と凪、そしてユイの三人が、ラムネではなく、瓶のサイダーを飲んでいた。凪は最初こそ少し緊張し、視線を伏せがちだったが、ユイの分け隔てない明るさに、次第に警戒心を解き、小さな笑顔を見せるようになっていた。
「凪ちゃん、肌白いねー!モデルさんみたい!羨ましい!」
「ユイさんこそ、元気いっぱいで、見てるとこっちまで楽しくなる。太陽みたい」
「えへへ、そう?凪ちゃんは、なんかこう、守ってあげたくなる感じ!ガラス細工みたいで」
ユイの無邪気な言葉に、凪の表情がふっと曇ったのを、俺は見逃さなかった。守られるだけの存在。それは、凪が一番意識し、そして反発している部分かもしれない。彼女の指が、持っていたサイダーの瓶をきつく握りしめた。
「…別に、守ってもらわなくても、大丈夫だよ」
凪の声は、少しだけ硬かった。空気が一瞬、張り詰める。
「あ、ご、ごめん!そういう意味じゃなくて…!綺麗だなって言いたかっただけで…」
慌てて謝るユイ。気まずい沈黙が流れる。
俺は咄嗟にカメラを構えた。この場の空気を変えたかった。
「ほ、ほら、二人とも、わ、笑って。せっかくだから」
ファインダーの中の二人は、まだ少しぎこちない笑顔だったけれど、それでも夏の強い日差しの中で瑞々しく輝いていた。カシャッ。シャッター音が、蝉の声に混じって夏の空気に吸い込まれていく。
この時の俺は、まだ知らなかった。
この穏やかな夏の風景に、すでに小さな亀裂が入り始めていたことを。
そして、このフィルムに焼き付けられた笑顔が、やがて訪れる狂気の序章に過ぎないということを。
初恋サイダーの甘酸っぱい味は、まだ確かにそこにあった。けれど、その泡の向こう側には、苦い後味が静かに忍び寄っていたのだ。
爽やか路線では終わりませぬ(にっこり)