汐凪島の夏風
東京の排気ガスとアスファルトの匂いから逃れるように、フェリーの甲板で潮風を受けていた。肌にまとわりつく湿気と、船体の錆びた鉄の匂いが混じり合う。視界の先には、深い緑に覆われた島影が、蜃気楼のように揺れながらゆっくりと近づいてくる。汐凪島。母さんの故郷であり、俺にとっては毎年夏休みに訪れる、一種の避難場所だ。
「か、海斗、もうすぐ着くぞ」
隣に立つ父さんの声に、俺はこくりと頷くだけだった。言葉を発するのが億劫だった。いや、怖いのだ。特に、新しい環境や初対面の人々の前では、喉が鉛のように重くなり、「あ」とか「き」とか、特定の音がどうしても滑らかに出てこない。高校二年の夏休み。友人たちは部活や受験勉強、あるいは彼女とのデートに明け暮れているというのに、俺は重度の吃音というハンデから逃げるように、この島へやってきた。
「…う、うん」
やっとのことで絞り出した声は、自分でも情けないほど掠れていた。父さんは何も言わず、俺の肩を軽く叩いた。その無言の励ましが、逆に俺の劣等感を刺激する。分かっている。父さんも母さんも、俺の吃音を心配してくれている。でも、その優しさが、時として俺を余計に孤独にさせるのだ。
フェリーが港に着くと、むわりとした熱気と、凝縮されたような磯の匂い、そして微かな魚の内臓の匂いが俺たちを迎えた。迎えに来ていたのは、母さんの弟である叔父さんと、その娘、つまり俺の従妹にあたる潮見凪だった。
「よぉ、海斗。大きくなったな」
日に焼けた顔で人の良さそうに笑う叔父さんの隣で、凪は静かに立っていた。白いワンピースが、彼女の細い体を一層儚げに見せている。色素の薄い髪が潮風に揺れ、大きな瞳がじっと俺を見つめていた。その眼差しには、どこか凪いだ海の深さが宿っており、吸い込まれそうになる。
「な、凪。ひ、久しぶり」
案の定、最初の言葉が詰まる。喉の奥で音が引っかかる感覚。凪は小さく微笑んだ。その笑顔は昔と変わらない。けれど、その奥に潜む影は、年々濃くなっている気がした。彼女は生まれつき心臓に病を抱えていて、激しい運動はもちろん、日常生活でも多くの制限があった。
「海斗くんも、元気そうでよかった」
凪の声は、囁くように小さく、けれど不思議と俺の耳にはっきりと届いた。彼女の前だと、少しだけ、喉の鉛が軽くなるような気がした。凪もまた、病という見えない檻の中にいる。その共通点が、俺たちの間に言葉にならない繋がりを生んでいるのかもしれない。
叔父さんの軽トラックの荷台に揺られ、俺たちは島の中央にある家へと向かった。舗装されていない凸凹道。エンジンの唸り。鬱蒼と茂る木々の濃い緑の匂い。時折視界が開け、見える海の、目が覚めるような青さ。東京とは全く違う、濃密な時間が、ここではゆっくりと、しかし確実に流れている。
家に着くと、祖母が出迎えてくれた。そして、古い押し入れから、革のケースに入ったカメラを取り出してきた。
「海斗、これ、おじいちゃんの形見だけど、使ってみるかい?フィルムなら、まだ少し残ってるはずだよ」
それは、ずっしりと重い、銀色のフィルムカメラだった。PETRI FT EE。古いけれど、丁寧に手入れされているようだ。手に取ると、ひんやりとした金属の感触が伝わる。レンズを覗くと、世界が少し違って見える。ファインダーという四角い枠に切り取られた景色は、まるで別の物語のワンシーンのようだ。
「あ、ありがとう、ばあちゃん。つ、使ってみる」
吃りながらも、俺はカメラを受け取った。これが、あの夏の始まりだった。このカメラが、俺の「声」になるかもしれない。そんな予感が、胸の奥で小さく芽生えていた。
PETRIいいですよね。父が大事にしていたカメラでした。