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夏凪フィルムと初恋サイダー  作者: もりも理幽
サイドストーリー
12/12

汐凪島の、いつもの夏と猫

 じりじり、とアスファルトを焦がすような陽射しが、汐凪島の港に降り注いでいた。けたたましいほどの蝉の声が、むせ返るような熱気と共に、島全体を包み込んでいる。港の片隅にある「浜田商店」の古びた軒先では、白と茶色のぶち猫、タマが、だらりと体を伸ばして昼寝をしていた。時折、ぴくりと耳を動かすのは、近くを飛ぶアブの羽音に反応しているのか、それとも、ただの寝ぼけ癖なのか。


「暑いねぇ、お前も」


 店の中から、しわがれた声が飛んだ。店主の浜田トメ、島では「ハマさん」で通る七十過ぎの老婆だ。年季の入った木のカウンターに肘をつき、大きな団扇うちわをゆっくりと動かしている。店の奥からは、古びた柱時計の、カチ、カチ、という規則正しい音と、亡くなった亭主のために毎日欠かさず焚いている線香のかすかな匂いが漂ってくる。


 ハマさんは、この港で生まれ育ち、嫁に来てからもずっと、この小さな売店を切り盛りしてきた。駄菓子、日用品、釣り餌、それに少しばかりの野菜。島の暮らしに必要なものが、所狭しと並んでいる。訪れる客は、漁師や近所の主婦、そして夏休みで帰省してきた子供たち。ハマさんは、カウンター越しに、この島の営みを、もう五十年以上も眺めてきたのだ。嬉しいことも、悲しいことも、腹立たしいことも、全部ひっくるめて。


「昔も、色々あったさねぇ…」


 ハマさんは、誰に言うともなく呟き、窓の外の、陽炎が揺らめく港に目をやった。数年前のあの夏。島を揺るがせた、あの忌まわしい出来事。あれから、島は少しずつ変わったようでいて、何も変わっていないようでもある。傷跡は、見えないだけで、確かにそこにある。


 カラン、と店の古びたガラス戸が開く音がした。


「こんにちはー!」


 ランドセルを放り出したばかりといった様子の子供たちが、額に汗を浮かべて駆け込んできた。


「ハマさん、サイダー! あと、当たり付きのアイス!」


「あいよ」


 ハマさんは重い腰を上げ、冷蔵ケースから冷えたサイダーの瓶を取り出す。ビー玉が涼しげな音を立てる。


「あんたら、また岬の方で遊んでたのかい? 危ないって、いつも言ってるだろうに」


「だって、あそこ、秘密基地みたいで面白いんだもん!」


 子供たちは無邪気に笑う。彼らにとって、「あの夏」の出来事は、もう遠い昔の話、あるいは、大人たちが口にするよく分からない怖い話、くらいのものなのだろう。


「…そういや、あの崖んとこさ、白い花が咲いてたよ」


「えー、ほんと? 見たかったな」


 子供たちがヒソヒソと話している。ハマさんは「こら、人の噂話するんじゃないよ」と軽く叱りながらも、胸の奥がちくりと痛むのを感じた。白い花。誰かが手向けたのだろうか。それとも、自然に咲いただけなのか。


 子供たちがサイダーを飲み干し、当たりが出なかったアイスの棒を残念そうに眺めながら去っていくと、店にはまた静寂が戻った。柱時計の音と、遠い波の音、そして蝉の声だけが聞こえる。


 昼過ぎ、一台の軽トラックが店の前に停まった。降りてきたのは、相葉海斗だった。あの事件の後、島に残り、役場で働いている青年だ。隣には、ぴったりと寄り添うように、潮見凪の姿があった。

「こんにちは」


 海斗は、以前より少し背筋が伸びたように見えた。だが、表情は硬く、目はどこか虚ろだ。声にも、かつてのような若者らしい張りがない。


「…いらっしゃい」


 ハマさんは、努めて普段通りに応対する。


 海斗は、棚から日用品をいくつか選び、黙ってカウンターに置いた。その間、凪はずっと海斗の腕を取り、離そうとしない。その儚げな横顔には、病的なまでの依存と、そして彼を監視するような鋭さが同居していた。


 ちょうどその時、別の客が入ってきた。本土から釣りに来たらしい若い女性だ。


「すみません、この辺でいい釣り場、ありますか?」


 海斗が、つい、その女性客の方に視線を向けた瞬間、凪の指が、海斗の腕を強く掴むのを、ハマさんは見逃さなかった。海斗は小さく顔をしかめ、すぐに凪の方へ向き直る。


 会計を済ませ、二人は寄り添うように店を出て行った。その姿は、痛々しいほどに歪んで見えた。


「…やれやれ、息が詰まるねぇ」


 ハマさんは、店先のタマに話しかけた。「ああいうのは、見てるこっちまで苦しくなるよ。昔もいたさね、ああやって、互いを縛り付けて、結局はどっちも駄目になっちまうようなのが…」


 タマは、にゃあと短く鳴いて、また寝返りを打った。


 夕方、漁を終えた島崎ケンジが、黙って店に入ってきた。日焼けした顔には、年齢にそぐわない深い疲労の色が刻まれている。


「…餌、いつもの」


 小さな声でそう言うと、ケンジは俯いたまま代金をカウンターに置いた。


「ケンジ、あんたも、たまには祭りに顔出したらどうだい? 気分転換になるかもしれんよ」


 ハマさんは、少しだけお節介な気持ちで声をかけた。


「…いや、俺はいい」


 ケンジはそれだけ言うと、釣り餌を受け取り、足早に店を出て行った。その後ろ姿は、何か重いものを背負っているかのように、小さく見えた。ハマさんは、ため息をついた。海の厳しさは知っている。だが、人の心の脆さ、一度負った傷の深さは、海の比ではないのかもしれない。


 日が傾きかけ、店の軒先に西日が差し込む頃、タマがのっそりと起き上がり、港の方へ散歩に出かけた。

 防波堤の上を、器用に歩いていく。漁師たちが、網の手入れをしている。タマは、そのそばにちょこんと座り込み、おこぼれを待っている。一人の漁師が、魚の切れ端を放ってやると、素早くそれを咥えて、安全な場所で味わい始めた。


 少し離れた場所では、海斗と凪が、夕暮れの海を眺めていた。二人の間には、会話はないように見える。ただ、寄り添って立っているだけだ。タマは、彼らのそばを通り過ぎたが、特に気にする様子もなく、自分の毛づくろいを始めた。


 また少し歩くと、船着き場で、ケンジが一人、黙々と船の網を繕っていた。その集中した横顔は、どこか苦行僧のようにも見えた。タマは、彼の足元をすり抜けて、さらに港の奥へと進んでいった。


 猫の目には、人間の抱える複雑な感情や過去のしがらみなど、何も映らない。ただ、そこにある風景として、人々が存在しているだけだ。その淡々とした視点が、この島の日常を、あるがままに切り取っていく。


 店じまいをしようかと思っていた頃、近所の主婦たちが、買い物ついでに店先に集まってきた。


「聞いたかい? また本土から、見慣れない男が来てるらしいよ」


「ああ、なんか色々嗅ぎまわってるってねぇ。役場にも行ったり、古老のとこ訪ねたり」


「昔のこと、蒸し返すんじゃなかろうかねぇ…せっかく落ち着いてきたってのに」


「でも、シズさんのことだって、本当に事故だったのかねぇ…」


 声がひそめられる。皆、不安と好奇心が入り混じった表情をしている。ハマさんは、黙って店内の片付けをしながら、その会話に耳を傾けていた。また、嵐が来るのかもしれない。そう、ぼんやりと思った。


 やがて、島に短い夏の祭りの季節がやってきた。若者が減り、規模は年々小さくなっているが、それでも島民にとっては大切な行事だ。神社の境内には提灯が吊るされ、子供たちが浴衣姿で走り回る。


 ハマさんは、少し早めに店を閉め、縁側に腰を下ろして、遠くに聞こえる祭りの太鼓の音を聞いていた。隣には、いつものようにタマが丸くなっている。


 夜空には、満月が煌々と輝いていた。


 祭りの賑わいから少し離れた海岸を、海斗と凪が歩いているのが見えた。二人の影が、月明かりの下で長く伸びている。彼らは、何を思いながら、この祭りの夜を過ごしているのだろうか。ケンジの姿は、どこにも見えなかった。


「色々あるけど、また夏が来て、夏が終わるねぇ…タマや」ハマさんは、空を見上げながら静かに呟いた。「人も島も、そうやって生きていくしかないんじゃろう」


 悲しいことも、辛いことも、時間が全てを洗い流してくれるわけではない。傷跡は残るし、記憶も消えない。それでも、日はまた昇り、季節は巡る。海は凪ぎ、また荒れる。その繰り返しの中で、人々は、そして島は、ただ静かに呼吸を続けていくのだ。


 祭りの太鼓の音が、遠くに聞こえる。それは、鎮魂の響きのようでもあり、また、明日へと続く日常の鼓動のようでもあった。ハマさんは、そっと目を閉じた。隣で、タマが小さく喉を鳴らす音が聞こえた。

本編の重さを和らげる、穏やかでノスタルジックな雰囲気の「箸休め」ストーリーを老婆と猫で表現しました。島の日常風景や季節感が豊かに描けたらなぁと。

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