煤けたフィルムの匂い
そのフィルムは、もう現像に出すことはないだろう。
古いカメラの奥、湿った暗がりで眠るそれは、夏の光も、海の青さも、少女たちの笑顔も、二度と外の世界に見せることはない。時折、ふとした瞬間に、あの夏の記憶と共に、薬品と埃が混じったような、煤けたフィルムの匂いが鼻腔を掠めることがある。それは、罪の匂いだ。そして、取り返しのつかない選択の匂いでもある。
俺、相葉海斗の手元には、あの夏から持ち続けている古いフィルムカメラがある。重たくて、不器用で、シャッター音だけはやけに大きい、時代遅れの代物、PETRI FT EE。でも、それは俺にとって、声にならない言葉を写し取る唯一の手段だった。吃音という檻に閉じ込められた俺が、世界と繋がるための、細く頼りない糸だった。
あの夏、汐凪島で、俺はそのカメラのファインダー越しに二人の少女を見た。
一人は、潮見凪。病を抱え、ガラス細工のように儚く、けれど強い意志を目に宿した従妹。俺と同じ檻の中にいるような、共鳴にも似た繋がりを感じた相手。
もう一人は、日高ユイ(ひだか ゆい)。太陽みたいに明るく、俺の吃音をものともせずに真っ直ぐに向き合ってくれた転校生。彼女といると、檻の格子が少しだけ緩むような気がした。
フィルムには、きらめく夏の断片が焼き付けられていったはずだった。弾けるサイダーの泡みたいに、甘酸っぱくて、どこか切ない、初恋の記憶が。
けれど、フィルムが捉えたのは、それだけじゃなかった。
島の濃密な空気。潜む因習の影。閉ざされた世界で静かに育まれる狂気。そして、俺自身の心の奥底に眠っていた、歪んだ衝動。
ファインダー越しの世界は、いつしか歪み、色褪せ、そして決定的な瞬間を焼き付けてしまった。シャッターを切る代わりに、俺は別の選択をした。逃げることもできた。目を逸らすこともできた。だが、俺は選んだ。自らの意志で、あの結末を。
だから、このフィルムは現像できない。
これは、俺と凪だけの秘密。罪悪感と、歪んだ安堵感と、互いを縛り続ける共犯の証。
汐凪島という檻の中で、俺たちは今も息をしている。
あの夏、弾ける泡と共に消えたはずの初恋サイダーの味は、もう思い出せない。ただ、喉の奥に、苦い後味だけがいつまでも残っている。
これは、そんな夏の話だ。
純粋さが歪み、初恋が狂気に染まり、少年が自らの手で未来を閉ざした、忘れられない夏の記録。
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