10年目の愛
「ここで、何してるの」
何を言っていいか全くわからない。
いつも自然に話していたはずのリュカに、今、どうやって声を掛ければいいか、アイリスは見失っていた。
その結果、一声目に出したのはこのセリフだ。
いかんせん、まだまともに目を見ることができない。
アイリスは、視線をあっちこっちに飛ばしながら言った。
リュカは微笑んで言う。
「ああ。アイリスが、ここに来たいって言ってたから。どんなところか、見ておこうかと思ってさ」
「……そう」
自分で決めたことだ。
ここにリュカがいたら、どうするか。
そのためには、まず、自分がやったことを正直に全て話さなければならない。
心も体もリュカを裏切った自分が許しを乞うなら──そして、負い目を感じることなく、雲ひとつない空のように晴れた心でまたリュカを愛するには、それが最低条件だと思ったからだ。
酒場で酔ったアイリスがジルに引っ付いた、と言っていた時のリュカの様子が思い浮かぶ。
ひどく傷ついていた。
今度は、心も動いている。
これで終わりにされ、永遠に受け入れられないかもしれない。
それどころか、引っ付くだけであの様子なら、まさかリュカが死を選んだりしないだろうかと思い至り、心臓が爆発しそうになる。
唇をキュッと結び、気持ちを作り、しかし目はリュカには合わさずに口を開いた。
「リュカ。話があるの」
「ん」
アイリスは、リュカの横に並ぶ。
神殿の柱と柱の間に二人で並んで同じ方向を向き、午前中の夜景を眺める。
リュカは、いつものように優しい顔。
そんなリュカに、ひどい事実を突きつけなければならない。針のついた縄で心を縛られたら、きっとこんな感じだろうと思った。
「あたし、あの後、昨日行った酒場に行ったんだ。そこで、お酒を飲もうと思って。
……そこには、ジルがいた。
あたしたちは、大切な人たちの命を背負ってる。絶対に、逃げるわけにはいかないはずだった。……なのに。自分の信じた道と、リュカたちが示した道が違って、あたし……」
思わず言葉に詰まった。
──泣くな!
泣くな、泣くな、泣くなっっ!!
泣くなんて卑怯だ。
耐えろバカっ
アイリスは、少し間をとって心を落ち着ける。
「もういい、全部どうでもいい、どうなってもいい、って。
……あたしを慰めようとしてくれたジルを、あたしは受け入れた。
ジルに抱きしめられて、抱きしめ返した。
彼の胸に、体を預けた。
……それで、」
声が震える。
体の痺れが最高潮に達していた。
それは快楽とは似ても似つかない、もう逃げ出したいほどの、苦痛に塗れた痺れ。
「……彼とキスした。リルルの時みたいじゃなくて。あたしからも、キスしたの」
うつむきながら口にした言葉はかすれ、弱々しかった。
リュカは何も言わなかった。
顔を微妙にリュカへと向けて様子をうかがったが、リュカは真正面を向いたままだったと思う。
許してもらえないかもしれないと思った。
それが現実感を帯びると、金縛りに遭ったかのようになった。
覚悟をしていたつもりだったが、全くできていなかった。
動けず、ただまっすぐ正面だけを凝視し審判の時を待つしかないアイリスを、リュカはそっと抱きしめる。
おでこに優しくキスし、それから頬にキスし、唇にキスをした。
唇のキスは、しょっぱかった。リュカは、知らぬ間にアイリスの頬を流れ落ちていた涙に、キスをしていたから。
リュカは、いつもと変わらぬ優しい表情を浮かべて言う。
「俺は、アイリスのことを最後まで護り抜く。アイリスがどんな選択をしようとも、だ」
「……うん」
許されたのだろうか。
まだ自分で自分が許せないまま、リュカの愛に抱かれてどうしていいかわからず立ち尽くす。
安心感で、涙か溢れた。
下を向き、リュカの胸に顔を埋め、肩を振るわせて泣いてしまった。
こんな立場の自分が泣くなんて卑怯だとは思ったが、到底止められそうにない。
リュカは、強く、強く抱きしめてくれた。
◾️ ◾️ ◾️
アイリスは、すぐには動けそうになかった。
リュカは、神殿の外にある石の段差に二人で腰掛けて休憩しようと言った。夜景を見ながら気持ちが落ち着くのを待った。
ようやく話せるようになってきたので、アイリスは、リュカときちんと向かい合う気持ちを作る。
ジルの言うことに従うのは、なんとなくリュカを裏切っている気持ちになってしまうが、今、やらなければならないことは、ジルの言うことに従うことに他ならなかった。
すなわち、リュカとよく話す、ということだ。
「……あのね。あたし、ちゃんとリュカと話もせずに、勝手に思い詰めて、こんなことになって。……本当にごめんなさい」
隣に座ってアイリスの肩を抱くリュカは、自分の頬をアイリスの頬へくっつける。
たったそれだけの所作で、アイリスは、自分の心にポッと明かりが灯ったのに気付く。
それはどんどん大きくなり、全身に伝播し、フワフワして、痺れて。
正直、もうイってしまいそうだ。ジルに抱きしめられても、キスをしても、ここまでの感覚にはならなかった。
不覚にも心が動いてしまったアイリスは、リュカとジルに歴然とした差があるという、確たる証拠が欲しかった。
ゾンビだからこそ明確だった。こんなふうに証明できて、心底嬉しかったのだ。なんなら、大勢の人がいるこの場でもいいから、今すぐにでも失神するほどイかせて欲しかった。
だからか、アイリスは少しだけ心に余裕ができた気がした。
リュカの気持ちを聞く勇気が湧いた。
「……リュカ。もう一度教えて欲しい。もし、あたしが、自分が剣になって二度と戻れなくてもリルルを倒したい、って言ったら、リュカはどうするの?」
リュカは、ちゃんとアイリスに向き合ってくれた。
優しい顔はそのままに、微笑みを抑えて自分の気持ちを静かに伝える。
「リルルを倒して、それから俺も死ぬよ」
「…………っっ!!」
そんなことは考えもしなかった。
アイリスは目を見張って慌てた。
リュカの両肩をガシッと掴んで首を横に振り、必死で大声を出す。
「ダメっ!! そんなことしちゃ──」
「ええ? 自分は良くて、俺はダメなの?」
「……っ。でもっ。でも……レオは? レオには、せめてあたしかリュカのどちらかは必要だよ!」
「もちろん、レオを一人にはしないさ。レオのことをちゃんと見てくれる嫁を探してからだな」
アイリスは、口を開けたままポカンとする。
なんだかおかしくなってしまって、不意に笑いが込み上げる。
「……ふっ。なら、一生かかるかもね」
「ふふっ。あいつには言わないよ。言ったらあいつ、一生結婚しないかもしれないからな。レオに伴侶ができれば、俺はこの命を終え、お前の元へ行くことにしようかと思う」
「どうして? 終える意味があるの?」
リュカは、空を見上げた。
「俺たちは、もう、すでに死んでいる。俺たちの人生は、もう終わったんだ。なのに、まだ生かされている。俺は、感謝しきれないくらいに神に感謝しているよ。この命は、レオを護り、そしてアルテリアをリルルから取り戻すために与えられた命なんだ。だから、仮にアイリスの命が剣になることで失われるとして、それを理由にリルル討伐を諦めるべきなのか、今の俺にはわからないけど──」
アイリスは、リュカの気持ちがよくわかった。わかるからこそ、アイリスはリュカとレオの選択に混乱したのだ。
自分たちの人生は、もう終わっている。
魔法が切れれば塵となって消える、ただの精神体だ。
まだ生きているアルテリアの民のために、今、自分たちが成すべきこと。
「だが、レオの気持ちだけが可哀想だ。たった十歳のレオに、二度も親を失う悲しみを味わわせることになる。俺は今、あいつの気持ちを一番に大事にしたいと思っている。だが、同時に、アイリスの気持ちも同じように大事にしたい」
昔、副団長アクセルに襲われた一件で、リュカが言ったことが思い浮かんだ。
リュカは、いつも、アイリスのことを一番に考えてくれた。
自分の考えより、アイリスの考えを尊重してくれた。
そして、そのリュカは今、アイリスの考えを尊重すると同時に、レオのことを第一に考えてあげたいと言っている。
──自分の気持ちばかり、考えちゃってたのかな。
レオの気持ち。それを、考えていなかった。
あたし、昔から、結局は何も変わってなかったのかな……。
「アルテリアを救わなければならないと思っているのは俺だって同じだよ、アイリス。だから、たとえば、今回はアルテリアの生存者救出作戦だけを実行してもいいかもしれない。本当にアイリスを剣にしてまでリルルを倒さなければならないかどうかは、その後に考えてもいいと思うんだ」
「……うん。そうだね。そんなこと、考えつきもしなかったよ」
──初めから、ちゃんと話をするべきだった。
もっと、冷静に考えるべきだった。
独りよがりに思い詰めて、お酒に溺れようとして、勝手にジルの胸に甘えて自分の心を癒そうと……。
思い出せば思い出すほど、自分のことが嫌いになる。チクチクとしたトゲが、体の内で暴れ回る。
だが、これは自分への罰だ。
もう二度と、絶対にリュカを裏切らない。
そう固く心に誓った。
「それに、そうしたら、アイリスが『やっぱり生きたい!』って思っても、引き返せるしな」
リュカまでもが、まるで悪ガキのような憎めない笑顔をする。
いや、むしろリュカこそが、アイリスをいじめるときにはいつもこんな顔をした。
アイリスは、「そんなことないですよぅ!」とほっぺたを膨らませる。
へへ、と笑うリュカに、自分も笑顔になった。
「……ありがとう、リュカ。あたし──あたし、すごく幸せだよ」
全身全霊の愛を込めて、リュカへ抱きつく。
キスをした瞬間に、電撃に打たれたように絶頂へと達した。
少し遠くにいた人たちが気づいたようだ。わあ、と歓声が上がったのが聞こえた。
でも、そんなことは構わない。
意識を飛ばしていく痺れで体を震わせながら、それでも必死にリュカへとしがみつき、アイリスは好きな気持ちを全力でリュカへぶつけた。




