もし、出会えたら
アイリスは、昨日行った酒場へ向かった。
どうしても飲みたい気分だった。
あの、水色に光るお酒、「蒼き女神」が飲みたかった。あれなら、今のアイリスの気分を晴らしてくれるかもしれないと思った。
昼のはずだが、飲み屋街は他の場所よりも一層夜の雰囲気を醸し出している。
アイリスは、昨日入った店のドアを開けて店内に入った。
「こんにちは……」
カウンターに、見たことのある人物が座っていた。
銀髪に、黒いつの。
「よお」
「…………何してんの?」
アイリスは、ジルから三つ席を開けて座る。
「おいおい。そんな離れんなって。いくら俺でも傷つくわ。隣とは言わんがな、せめて中一つくらいにしとけよ」
「…………」
アイリスは、ジルの言う通り、渋々、席を二つばかり詰めて座り直す。
カウンターの中にいるバーテンダーの青年店主に注文した。
「あの……昨日の……」
「カエルディアでございますね。かしこまりました」
微笑み、小さく頭を下げて水色の髪のバーテンダーは用意を始める。
頬杖をつき、どうしてこいつがいるんだ、と心の中で毒づいた。
ジルは、先に頼んでいた自分の酒を口につけてからアイリスへ言った。
「いくらこの街がいつも暗いとは言ってもよ。今はまだ午前中だぜ? 愛する夫と子を持つ人妻が、なんでこんな時間に二人を放って飲みにくるんだ」
「……うるさいな。ほっといてよ」
アイリスは、ジルとは反対方向へ顔を向けながらぶっきらぼうに言ってやった。
みんな、同じ気持ちを持っていると思ってた。
だから、撤退もやむなしと、後ろ髪を引かれながらも素直に引き下がった。
心の中で、父に謝る。
続いて、まだ生きているかもしれないエリシアに、クリスに。
そして、誓いを立てたニールに、ポーターに、マリアに。
もう、みんなを助けに行けないかもしれない。
本当にごめん、と。
初めから、自分たちはずっとバラバラだったんだ……。
正面から、グラスが押されてくる。
透き通った水色に輝くカクテル。
アイリスは、カエルディアをもう一度見れただけで、幸せな気分になれた。
「ケンカでもしたのか?」
「…………」
「くっくっ。」
「なによ?」
「止められたか? 二人に」
ジルは、グラスの氷をカラカラ言わせながら、正面を向いたまま言った。
アイリスは、カエルディアをグッと煽る。
「……なんで分かんの?」
「俺は一緒に行ってもいいぜ」
「…………」
ジルは、うつむいてフラフラと頭を揺らすアイリスへ言った。
「お前が望むなら。俺は、一緒にいてやる」
「なに勘違いしてんの? あたしはねぇ、あんたなんか──」
立ち上がり、ジルへ抗議しようとするアイリスの前に、ジルも立っていた。
グッと抱き寄せられる。
その仕草は、まるで想像もしていなかった優しさ。
きっと、愛が込められている、と思った。
「ずっと一緒にいる。お前が望むなら、どこへでも行ってやる」
強く抱きしめられるほどに、体が痺れ、思考は狂っていく。
アイリスは、ジルの背中に手を回した。
リュカの顔が、ふと思い浮かぶ。
リュカは、別れ際に、一体どういう顔をしていたのだろう。
──何やってんだ。
愛する夫と子を放って。
こんなところで、別の男と抱き合って。
……もういい。手遅れだ。もう、どうなっても……
ジルの背中へ回した手に、力を入れる。
ジルの胸に、顔を埋めた。
ふと顔を上げる。
顔を上げるとどうなるか、もちろんわかっていた。
自分が誘導したのだ。優しい顔をしたジルは、自分の唇を、アイリスの唇に近づけた。
アイリスは、自分からも近づける。
唇が触れ、擦れ合い、その感触を求め合った。
舌を入れ合った瞬間に、ハッとする。
自分が何をしているのかを正しく認識し、体に電気が走ったようになった。
アイリスは慌てて顔を離し、ジルの体を両手で突き放す。
「…………」
猛烈な後悔の念が体中に走っていく。
アイリスは、何も言えずに目を見開き、ただジルを見つめた。
これが人間であったなら息が切れていただろう。だが、アイリスの体は既に生命活動を行なってはいない。
ジルは、元の席に座った。
グラスを握り、一口飲む。
「……リュカとは、きちんと話をしたのか?」
「…………」
「今すぐに行け。これ以上後悔したくないならな。したいなら、さっきの続きをしろ」
ジルは、悪ガキのような笑顔をアイリスへ向ける。
それから、バーテンダーに向かって言った。
「なあ、俺っていつからこういうキャラになっちゃったわけ? そんな良い人だったかよ」
「ええ。ジルはいつも良い人でしたよ」
アイリスは、突っ立ったまま、ぎゅっと拳を握りしめた。
どうしていいか、わからなかった。
「ここは奢っとく。さっさと行けよ」
「……ごめん」
アイリスは、店を飛び出した。
◾️ ◾️ ◾️
石畳の路地を、アイリスはうつむいて歩いた。
周りは、お祭りでワクワクしているゾンビやネクロマンサーたちでいっぱいだ。
上を向くことができなかった。
自分がひどく汚れた存在のように思えた。もう、大手を振って外を歩くのも嫌だった。
完全に堕ちていた。
キスをされるだけなら、リルルにもされた。だが、今回は全く事情が違った。
リュカを裏切っていた。自分から、ジルを求めた。
体どころか、心で裏切った。
どうしてこんなことになったのだろう、と延々思い詰める。
しかし結論は出なかった。
ジルにはリュカと話をするように言われたが、このままリュカと話す資格など無いように思った。
「…………」
壁に背をつけて、空を見上げる。
円形に見える空はとても明るくて、それでいて遠くて手が届かない。
今の自分にぴったりな気がした。
ふと、遠くに岩石の山が見える。
その上には、神殿のような建物が立っていた。
リュカと、いつか一緒に行こうと話をしたことを思い出す。
両の目尻から、涙が落ちた。
レオの魔法力で再現された、自分の心と連動する、心の写し鏡。
アイリスはその場に崩れ落ちた。
とめどなく涙が流れ、溢れる。
嗚咽が止められなかった。
「大丈夫ですか!?」
誰だかわからないが、見知らぬ通行人のようだった。
すみません、とだけ言って、アイリスはすぐに立った。
助けようとしてくれる優しい他人の好意を断り、また歩き出す。
帰ろうにも、リュカがどこへ行ったのか、レオがどうなったのかもわからない。
放って出てきてしまったのだ。
何より大切なはずだった二人を……。
あの岩石の上の神殿に、行ってみようと思った。
気持ちに整理をつけ、それから、レオを探そう。
あの神殿には、二人で一緒に行ってみたいとアイリスはリュカに言った。
リュカがそれを覚えていてくれたとしても、今、そこにいる訳はない。彼は、レオを探しに行ったはずだ。
ほとんどゼロに近いはずの可能性。だからこそ良かった。全てを諦めるには、ちょうど良かった。
このまま、リュカと元通りになれるような気はしなかった。それは、自分の気持ちの問題だ。
リュカのことは、今現在も大好きだった。
世界中の誰より愛している。その気持ちは、変わっていないと思った。
なのに、あんなふうになってしまった自分が、許せない。仮にリュカが許してくれたとしても、しれっと元に戻ることは、もうできない。
でも……。
もし、あそこにリュカがいたなら。
自分の気持ちを──不甲斐ない自分の気持ちをぶん殴って。
リュカがどんなにアイリスのことを嫌って突き放しても、またやり直せるように、絶対に諦めない。
その代わり、リュカがいなかったなら、リュカの元へは二度と戻らない。
そう心に決めた。
岩石の神殿は、麓から人が多かった。
休日の城下町ほど人はいなかったが、ゾンビの街にこれほどの人がいること自体がすごいことだ、と思った。
ここにいるのはカップルか、もしくは女性同士の団体のみだった。
アイリスは、神殿へと上がる階段に並ぶ。
山といっても、それほど高いわけではない。ちょっとした丘程度のものだ。
階段を登っていくと、すぐに頂上についた。
優美な彫刻を施された大きな門をくぐる。
ドーリア式で造られた神殿は、神を祀っているのを容易に想像させる荘厳な雰囲気だった。
そこは、大勢のカップルや女性たちで賑わっている。
アイリスは、ザッと見渡して帰るつもりだった。景色など、今さら堪能するつもりもない。
どうせ、リュカがここに居る訳はないのだ。むしろ、諦めるためにここへ来たのだから。
奥のほうへ進む途中、女性二人組の囁き声が聞こえた。
「ねえ。あの向こうにいた人、めっちゃカッコよくなかった?」
「マジやばいよね。ゾンビかな? でも、それにしてもカッコイイ」
「きっとゾンビだよ! 人間なんてあんま来ないし。ミナは今シングルじゃん? 声、掛けてみなよ!」
「え〜〜こわっ。絶対フラれちゃうよぉ。てか、彼女居るでしょ」
「居たら一人でこんなとこに来ないって! ほら、早くっ」
声を掛けろと言われている子は、長い金色の髪が美しい、とても可愛い女の子だった。
頭には、猫耳が生えている。彼女が生者かゾンビかは判断がつかなかったが、しばらくすると彼女はポッと瞳を青色に光らせた。
きっと、想いが昂ったのだ。それで増幅した魔素を溢れさせて、瞳の光が変装魔法を貫通したのだろう。つまり、それは彼女がゾンビであることと同時に、その男性への好意の強さを示していた。
彼女たちが視線を向けるその先、一人の男性が柱のところに、向こうを向いて立っていた。
彼の近くにいる女性たちも、彼へとチラチラ視線を向けてザワザワしている。彼氏と一緒に来ている女性ですら、彼を見ずにはいられないようだった。
ゾンビであるにもかかわらず──。
間違いなく、アイリスは鼓動が「とくん」と高鳴る感触を得る。
立ち尽くし、目を見張ったアイリスの視界に映るその彼は、目も覚めるような、赤毛。
「あの、」と勇気を出したその女の子の声で、彼は振り向く。
女の子を見つめる彼の顔は、ずっとアイリスのことを虜にしてきた、愛しい人の顔……。
「あっ、あの。もし良かったら、一緒に夜景を──」
「ちょっとすいませんっ!!」
声は、勝手に出ていた。
慌てて駆け寄り「待った」をかけたアイリスの声に、女の子は目を丸くしていた。
「あのっ。ごめんなさい。その人、あたしの夫なんですっ!!!!」
びっくりした女の子は、「すみませんっ、むしろこっちがすいません、」とペコペコ謝って、友達と一緒に飛ぶように退散していった。
「あれがあの人の妻か」という品定めの目で周囲の群衆から観察される。
その場に残され──というか自分から突っ込んだアイリスは、考え無しに飛び込んだので、この後どうしていいかわからず立ち尽くす。
リュカの目を見て、また逸らして、手をお腹の前でいじった。




