夜明け
どのくらい時間が経っただろうか。
いや、たいして時間など経ってはいないだろう。
気の遠くなるような長い時間、アイリスはリビングでゴードンと一緒に待っていたような気がした。
副団長アクセルの実力は、ポーターとリュカを合わせてもどうにもならないように思えた。
その上、あの数のイストリア兵なのだ。
「お父さん。やっぱり、リュカを迎えに行くべきだと思う。リュカと一緒に、この部屋の窓から飛んで、外へ脱出しないと。それからすぐに塞がれた地下通路の外側を解放しないと、お母さんが!」
ゴードンは、しばらく目をそこらじゅうに飛ばしていたが、やがて意を結したようにアイリスを見る。
「……そうだな。わかった。リュカを呼びに行こう」
「うん!」
力強く返事をし、玄関へ向かおうとする。
その時、バタン、と玄関扉を閉める大きな音がした。
誰かが来たのだ。
アイリスは体を固くしたが、すぐにそれは安心へと変わる。
「リュカ!」
「アイリス、奥へ」
リュカは素早く動いて窓へと一直線に駆けた。
窓から外を確認するリュカの背中を見て、アイリスは叫んだ。
「リュカ! 背中がっ、」
「ああ、斬られた。あいつに勝つのは、今の俺では無理だ」
「ポーターは、どうしたんだ!?」
「…………大臣。今は、それより、」
リュカの背中は、斜めに斬り傷が入り、大量に血が溢れ、流れ出ていた。
どう考えても、このままだと危ない。
パニックになりそうだった。早まる呼吸を必死で整え、アイリスは断じて得意ではない回復の白魔法を詠唱しようとする。
玄関からまた扉を開ける大きな音がした。
「時間がない! 早くっ」
リュカは、ゴードンとアイリスを両脇で抱えた。
そのまま、迷うことなく窓枠を跨ぐ。
アイリスは、目をつむった。
内臓が浮く感覚とともに、風の音と風圧がどんどん強くなっていく。
きっと、あの一階の屋根の上に一直線に向かっているんだろうなと思った。
ダアン!
と、大きな音と衝撃。
腕で抱かれた部分に、吐きそうなほどの圧迫感が腹に。同時に、足に激痛が走った。
目を開くと屋根の上だった。どうやら、なんとか着地に成功したらしい。その拍子に足を強打したようだった。
しかし、そんなことより──
「リュカ! 無事──」
アイリスが声を上げた時、リュカは横向きに、丸まって倒れていた。
大声で叫び、体を揺すり、呼びかける。
しかし反応は無かった。少し離れたところにゴードンも倒れていたが、うう、と呻き声が聞こえている。
リュカは着地の衝撃に耐えられなかったのだろうか。それとも背中の傷が?
アイリスは這ってリュカへと近寄り、体に手を当てて詠唱を始める。
「煌々ときらめく魔力の光よ、傷を癒し痛みを消し去り、命の営みを蘇らせよ──治癒!」
回復魔法は苦手だったが、そんなことを言っている場合ではなかった。
このままではリュカが死んでしまうのだ。必死に、夢中で魔法力を込めた。
詠唱が終わると、リュカが倒れている屋根に青い光の魔法陣が描かれていく。
魔素オーラが蒸気のように立ち昇り、リュカの体を包んでいく。
と───
ダアン、と大きな音がした。
上から何かが降ってきたのだ。
どこで音がしたのか、と見回すまでもなく──
すぐに、音の原因はわかった。
振り向いたところに、アクセルが立っていたのだ。
「これで終わりだ、お嬢様。回復は無駄だ。今……お前たちは死ぬ」
アクセルの声は静かだった。
目も、さっきまでのように怒りに満ちてはいない。
悲しみとも言える感情を浮かばせ、これから奪う命に祈りを捧げているかのような顔だった。
月明かりを背にしたアクセルの黒い影。
その影が、両腕を高く振りかざす。
両腕の先にある一本の剣は、まるで月を突き刺したかのようだった。
きっと、これが人生で最後の景色だろう。
アイリスは、それを眺めながら、下唇を噛んだ。
──悔しい。
あたしのせいでこんなことになってしまった。
愛する人も、家族も、全て死なせることになった。
でも、自分の気持ちに、素直になっただけなんだ。
ひどい仕打ちだ。
神様……
もし、あなたが本当にいるのなら。一つだけ、願いを叶えてほしい。
今度生まれ変わることができたら、もう一度、お父さんと、お母さんと、リュカと──……
アイリスは、目を閉じた。
ガッ、と固い音がする。
アクセルの攻撃の音だろうか。
しかし自分には何も当たってはいない。
アイリスは不思議に思い、恐る恐る目を開けた。
月を背にした影は、歪な形をしていた。
それは、二人の人間が織りなす影。
夜明けが始まり、うっすらと明るみを帯びた空が、そのうちの一人が装着する真紅のプレートアーマーの色をはっきりと浮かび上がらせた。
「これで終わりだね。アクセル」
「かはっ……カイルぁ……」
聖騎士団長・カイルの一突きが、アクセルの胸を貫通して城の壁に突き刺さっていた。
剣を抜かれ、アクセルはその場に正座するかのように崩れる。
「……さよなら」
カイルは、ほとんど音のしない斬撃を放つ。
アクセルの上半身は、水平に、鎧ごといくつかに分断された。
「よく頑張った。もう大丈夫だ」
カイルはアイリスへ言うと、リュカへ寄り添ってひざまずく。
体を揺すり、名前を呼んだ。
リュカは、やがてうっすらと目を開けた。
「大丈夫かい?」
「……団長。ありがとうございます」
「彼女の回復魔法が効いてるね。もう大丈夫そうだ。どちらかを背負って、ここから降りれるか? ……まあ、『どちらか』って言っても彼女に決まっているだろうけど」
「もちろんです」
カイルは、アイリスとゴードンに回復魔法を掛ける。
金色に輝く魔法陣の光に照らされ、キーンと響くような足の痛みと、ズシンと圧迫されていたお腹の痛みが抜けていく。
立てるようになった頃、ゴードンもまた、意識を取り戻していた。
リュカはアイリスを抱き上げ、一階の屋根から地面へと飛び降りた。ゴードンのことは、カイルが抱いて降りた。
陽の光で明るくなってきた城下町の路地を、聖騎士が何人か走り寄ってくる。
アイリスとリュカは体をこわばらせて警戒したが、すぐに彼らが何者かわかった。
彼らが装着する白銀のプレートアーマーは、縁の部分が赤色に塗られていたからだ。
全ての兵の中から精鋭を集めて作られた聖騎士団。
その聖騎士の中でも、選りすぐった精鋭だけで構成される特騎隊「影」。
常に王の影となり、何が起こっても君主を護り抜く特級戦士たちだ。
「団長。王は仰せの通り身を隠され、『影』の本隊と、アレクシア様率いる特級魔術師団『ルナ』が護衛しております。城は如何いたしましょう」
「僕だけで大丈夫だ、君たちは王を頼む。城門を斬って開城し、一挙制圧してくる」
「承知しました」
アイリスは、カイルへ、すがるように叫んだ。
「団長! お母さんが、まだ中に」
「場所はわかりますか?」
「地下通路です。通路の外側を塞いだって、アクセルが」
「……そうですか。あなたは、ここに居てください」
「行きます。行かせてください」
「……いいんだね?」
「団長。私も行く。いや、行かなければならないんだ」
「承知しました。ならば大臣は私の後ろに居てください。お前たち、八名ほどついてきてくれ。大臣とアイリス嬢の護衛が二名、地下通路の外側開放が一名、残り五名で城内の制圧だ」
いいのか、とカイルに問い掛けられ、胸が締め付けられた。
しかし、行かないという選択肢はなかった。
城へ向かいかけたカイルを、リュカが再度引き止める。
「団長。アルフォード家の自宅の前に、……ポーター聖騎士長が。彼のことも、弔う必要があります」
カイルは少しの間だけ目を閉じ、やがて悲しそうに微笑んだ。
「そうか。わかった。……お前たち、聞いたな。ポーターの弔いだ。イストリアの兵は一人残らず皆殺しにしろ」
「承知しました」
城門を閉鎖する檻のような格子を豆腐のように叩き斬り、カイルは城の内部へと侵入する。
ブツブツと何かを呟いたかと思うと、カイルの足元に金色の魔法陣が現れ、カイルの剣は炎で包まれた。
魔法剣であることは疑いようもない。
が、すぐに剣は氷に覆われる。
アイリスが驚いていると、氷は消えて渦巻く風を纏い始め、直後にまた切り替わって闇のオーラで覆われた。
多重魔法剣。
魔法剣は通常、付加された魔法によってそれぞれの属性による攻撃力も上乗せされる強力な剣技だが、多重魔法剣はいくつかの魔法を同時に付加する。
その中でも、今、カイルが使っているのは、属性が次々と切り替わり、常に異なる属性で攻撃が行われるタイプの魔法剣だった。
文献で読んだことはあったが、目の当たりにするのは初めてだった。ヒーロー好きな子供たちが剣術ごっこをするときに口にするだけの、伝説の中にあるだけの魔法剣なのだ。
カイルの斬撃を受けたイストリア兵は、その一撃で何人もがバタバタと倒れた。
アンブラは二人がゴードンに付き、五人はロイヤルアークを制圧しながら上階へと向かっていく。
アイリスたちは、猛烈な勢いで敵を減らすカイルの後に続き、ロイヤルアークから脇の通路を進んだ。
やがて、石像が横にずらされて現れたのだろう階段に辿りつく。
階段を降り、弱い魔法灯の光でごく薄っすらとしか見えない暗い通路に入ると、カイルは光の魔法を使ってあたりを照らしながら通路を進んだ。
通路には、敵兵は一人もいなかった。
通路を進むと脇道への分岐がいくつかあったので、その脇道に何があるのかアイリスは尋ねた。
カイルによると、ここでしばらく過ごすことも想定されているので、ある程度の生活ができるようになっているとのことだった。
通路の先、塞がれた城外の入口を開けて入ってきたアンブラの騎士と鉢合わせる。
どうやら、その騎士はマリアとニールを見なかったらしい。
カイルは、脇道にあった生活空間の通路を探すことにしたようだ。
脇道を探し始め、一つ目の通路の先にあった部屋を覗いたカイルは立ち止まった。
カイルは、しばらく目を閉じ、うつむいていた。
やがて目を開け、顔をアイリスのほうへ向けて覚悟を促す。
「もう一度聞くね。本当に、いいのかい?」
涙が溢れた。
下唇を噛んで、必死に堪えようとした。
頷くことは、できなかった。
リュカが、アイリスを抱く。
リュカに支えられながら震える足を動かし、その部屋に入った。
そこは、通路と同じ石造りの、狭い台所のような場所だった。
奥の壁際で、床に座り込むようにして、ニールとマリアがいる。
ニールは、マリアを覆うように抱いていた。
ニールの背中から二人まとめて串刺していた剣を、カイルは引き抜く。
カイルは屈み、ニールとマリアへいたわるように声を掛けた。
「二人とも、最後までよく頑張った。さあ、陽のあたるところへ出よう」
カイルとアンブラの騎士は二人を抱きかかえ、全員で城外へと出た。




