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缶の珈琲

作者: 塩ソルト塩

「大澤、手伝って!」

・・・はい。

「大澤、こっち来て!」

は、はい。

「大澤、一緒にやろ!」

は・・・はーい!


みたいなことを数回繰り返しただけで、僕はもう十分に彼女のことが大好きだった。しかし当然ながら、彼女の好きな人は僕じゃなかった。


彼女は毎日のように、頭が良くて歌の上手いアイツとカラオケに行っていた。僕はアイツのようになりたくて、毎日机に向かって英語の勉強を頑張っていた。英文の音読をしているだけで、僕があいつよりカッコ悪いのが良く分かった。おそらく今、彼女とアイツは抱きしめ合っているんだろうと思いながら、僕は近所の池の周りを走っていた。おそらく彼女とアイツが口づけを交わしているであろう夜、無力感に襲われて勉強どころじゃなくなった夜には、僕は缶の珈琲を飲んだ。

缶の珈琲は、無力な人の味方だ。

僕はこの、珈琲にあるまじき、隠れ家みたいな甘さが大好きだった。インスタには映えるスタバの写真やらイイ珈琲店の写真やらがしばしば挙がっていたが、多分この味はまだバレていないんだと確信していた。泣けるほど美味しいってよく言ってるけど、実際に泣いたことはないんだろ、畜生。と思いながら、缶珈琲の一本分は泣いてやった。


ある日、僕らの学年は林間学校に出かけた。三泊四日、協調性を養う系のやつが、僕の高校の方針とマッチしていた。その時も、彼女とアイツを入れた六人班が眩しくやっていた。奴ら一軍は炊き出し一つとっても遺憾なくやってのけて、協調性たっぷりな写真を何十枚でも撮った。

こういうアクティブ系のやつ、そういえばアイツらの独壇場だったじゃないか。と思った僕のカレーは、底が焦げたのに野菜が硬くて泣きそうだった。焦がすと皿洗いも億劫になって、こべりついた焦げ茶色と、たわしを持って赤くなった指先がやるせなくて辛かった。



溜息をついたハイキングの道中で、誰かが足を滑らせた。容赦なく沼臭い、ひどい匂いの底なし沼だった。


「うわ、ご愁傷様だ」と俯瞰する人間と、

「俺じゃなくてよかった」と安堵する人間がいた。


臭い土のぬかるみに落ちて、誰かの身体が沈んでいった。顔と髪に物凄い量の泥がついて、誰だか分からないくらいだった。浅くて臭い沼で暴れる、僕にお似合いな展開だ。しかし、それは僕ではなかった。


「この沼って一メートルくらいしかないんだろ?」

「何バチャバチャやってんだ?早く抜けだしゃいいのに」誰かが言った。


(違う、アレは違う)

僕の脳を何かがよぎった。


───背丈よりはるかに低いぬかるみに、喉を締めあげられるような感覚。


はたから見れば「落ち着けよ」って一言で済まされるようなことで、本人からすると溺れるほど苦しいようなことが、稀にあるんだ。抜け出そうともがくほどに沈んで行って、足掻くほどに滑稽に見えて、痛い涙がじわじわ滲んでくるんだ。激しい焦燥一つだけで、人間その気になれば死ねるんだ。


ぶはっ。・・・と、その人が苦しそうに息をする瞬間が見えた。


(アレは知ってる)


と、思ってしまったら最後。僕は駆け出して、今まで出したこともないような大声で


「───焦らないで!!」


と言いながら。なりふり構う暇があったのに、構わず思い切り飛び込んだ。



前転で受け身を取って、横殴りになった身体を立て直した。僕はサッカーとかバスケみたいな球技はてんでダメだけど、運動神経だけは悪くなかったりした。沼に沈まないように面で着地したから、一瞬にして泥まみれになってしまうのだけれど。



「大澤、急に何やってんだ!?」



『何やってんだ』、こっちの台詞だ・・・!お前たちはずっと近くで見てたくせ、なんでなんにもしてやらなかったんだ。なんで棒立ちしてられるんだ!目の前で、誰かが苦しんでるんだぞ!!

・・・と、声を荒げる勇気なんてなかった。それに、当の自分が正しいことをしている確信なんかなかった。僕の努力は、何故かいつもちょっとだけズレていた。無力な僕はいつも、正しい方に努力することすらままならないのだった。


結局、無いんだろ、『僕にしかできないこと』。分かってるよ、畜生。

ただそれでも、これだけ分かるんだ。一束の(わら)でいい、溺れる人間には何か(すが)るモノが必要なんだ。一人孤独な夜の静けさに、缶のタブを開ける音が必要だったんだ、畜生・・・!!



「・・・おお、さわ?」


・・・!!


溺れていたのは、偶然にも彼女だった。僕は一瞬戸惑うが、

(それどころじゃない)

すぐに持ち直した。



「へいき?」


「ううん・・・」


「分かった、引っ張り上げるね。」



僕は泥のついていなかった手で、彼女の手をしっかり掴んだ。



ほしほしほしほしほし



宿舎のシャワー室を借して頂いた、後。

・・・僕は、教員に叱られた。

ただの『共倒れ』は救出とは違うんだぞ、著しく思慮に欠ける!!だそうだ。

本人が助けを求めたタイミングで、誰か上の人が掴めるものを落としてやれば済んだ話だった!!と、校長に怒られた教頭が、怒っていた。なんでもない瑣事を大事にした僕は、イタい『勘違いオタク』だった。

それはそうだ。と、思った。楽しい林間学校に、「学年集会」とかいう、誰も得しない行事が割り込まれてしまったんだ、僕のせいで。クラスの皆と、別クラスの皆が長いお説教を食らう羽目になった。一足先に釈放された僕は待機ということで、だだっ広いロビーに戻った。ガラス張りのピロティから山際の木々が見えていて、強く雨が降っているのが分かった。暗い土がぬかるんで濡れていた。

その景色を、ただただ眺めていたんだ。

珍しくその長い髪を下した、彼女が。



「ねぇ大澤、ちょっと聞いてよ」



いつものように素通りしようと思った僕は、ここで彼女に引き止められた。



「え、フラれたの・・・!?」


「うん。『冷めた』って、さっきラインで。」



彼女はアイツにフラれたと言った。通りで漂っていたんだ、平素の僕と同じような哀愁が。僕は少し遠くの自販機に目をやった。何か飲むかと聞くと、彼女は「じゃぁ『あっぷるみかん』がいい」と言った。温かくて嘘みたいに甘い、果汁が10パーセント未満の小さなペットボトルだ。僕は冷たい缶の珈琲の中から、「甘さ控えめ」とある微糖のものを選んで買った。



「へー、大澤ってコーヒーとか飲むんだ・・・ってか私、スタバでもアイスコーヒーって飲んだことないや。美味し?冷たいの」



彼女はあっぷるみかんを飲みながら言った。僕は「スタバのアイスコーヒーならきっと美味しいと思うけど、どうだろ」と答えた。

彼女に分かってもらいたい気持ちと、彼女にこそ秘めていたい気持ちが重なる。そこで、こう続けた。



「缶の珈琲は、無力な人の味方だから。」



僕の本心だった。彼女は「なにそれ」と控えめに笑った。分からないものを馬鹿にする感じはなく、かと言って同情気味に分かった風な顔をするでもなく、ただ自分と違うことを、何の優劣もつけずに認めてくれる感じだ。僕は彼女の、この笑い方が好きだった。

やっぱり、分かってもらえなくていいんだ。僕の本心は。僕はそう思って、彼女に踏み込むようなことはしてこなかった。踏み込むのが怖かったっていうのもあるけど、一歩引いたところから楽しそうな彼女を見るだけで、僕は十分だった。

しかしこの時は、彼女の方から侵入してきた。



「私にも飲ませて。」



彼女は「ん」と手を差し出している。僕は少し遠くの自販機を振り向いてから、持っていた缶珈琲を手渡した。彼女は飲み口に唇をつけて、グイと缶を持ち上げた。それから、窓の外を向いて、しばらく僕の方には向きなおらなかった。



「あ、はは。思ってたよりあまいね。・・・あま、あますぎ」


「じゃ、じゃあ返してよ、僕が飲むんだから。」


「やだ。」



だだっ広いピロティに、雨の音が続いた。彼女の髪は乾いているが、いつもよりしっとりして見える。



「・・・ねぇ、大澤?」


「うん」


「私、どうしてフラれちゃったのかな・・・?」



胸が締まった。泣きながら笑った彼女が痛々しくて、僕は正直打ちのめされた。彼女が抱えていそうな感情に物凄く心当たりがあって、僕は滅茶苦茶しんどかった。


今すぐに抱きしめたい気持ちと、抱きしめられない気持ちが重なって、僕は上を向いた。



(嗚呼、キツいな、これ。)



分かった、恋なんてするもんじゃないんだ。好きな人が誰か別の人を好きで、それでモヤモヤするんだろ、理性的じゃない、冗談じゃない。純粋に彼女の幸せを願う気持ちが『愛』で、チューしたいとか独占したいとか、アイツより僕を見てほしいとかが混ざるのが『恋』なら、やっぱり恋はするものじゃない。


(・・・ん?)


あれ、普通に劣化版だね、恋って。恋の方がピークが高いって?熱しやすく冷めやすいんだろ、そいつは『熱容量』が少ないからだ。物理でやったろ、比熱を考えろ、比熱を。


僕は悟った。恋してる彼女は相当可愛いと思うけど、ようは性的な視野か。コレは情欲の類だったか。



「あ・・・っはは、あは、そっかそっか」



───缶珈琲の方が好きだ。


やめた。



「・・・おお、さわ?」


「ごめん、ちょっと考え事。・・・本当、どうしてフラれちゃったんだろう。・・・こんなに可愛いのに。」


「・・・!?あ、れ、大澤、そんな感じだったっけ・・・?」


「ん?あ。あー、確かに。なんだかおかしいな、今の俺。」



驚く彼女を見て、少し驚いた。確かに思い返せば、自分はこんなセリフ吐くタイプじゃなかったような気もする。しかし、なんだかどうでもよくなっていた。予想だにしなかったタイミングで、急激に揺るがない『自我』が確立した感覚があった。



「それじゃ()、もう行くね。」



ふとしたことで、一人称で見える景色が変わることがある。それはいい夢を見たか、あるいは、悪い夢が覚めたのか。何がさて、俺はさっさとその場をあとにした。



それから一年が経って、俺はどうしてか遺憾なく頭が良くなっていて、噂の難関大学にスルッと受かったりして、オシャレな友達に服を選んでもらったりして

・・・とやっているうちに、彼女に『愛の告白』をされて、当然のように、振った。



彼女のこと?未だに好きだ。俺みたいなのにも優しく、対等に接してくれる。彼女に笑いかけられると胸が躍って、ドキドキするんだ。こう、向上心が湧いてくる。この笑顔に相応しい漢に成るんだ!って想いが胸を熱くして、何か努力したくなるんだ。正しい努力の方向なんか、未だに分からないが。どうやって生きればいいか全く分からないのに、「どう生きても大丈夫」って感覚が先行する。


きっと俺は生きていくんだろう。なぁんにもせずに、なぁんにも動かない病気みたいな魂を固めて、心の『可動域』の部分だけを激しく震わせて、それをこれ見よがしに見せて回って。そういやいつの間にか周りに順応するのが上手になっているから、きっと上手くやっていける。彼女の顔を思い出しながら、ラブコメの漫画でも描いてみようか。需要に合わせた恋愛成分をふんだんに使って、媒体の使用者の年齢層に合わせてドロドロしたスパイスを混ぜて、舌の肥えた動物たちを喜ばせ・・・



・・・缶珈琲の味が、分からなくなっていた。

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