緋と蒼
「今、いいかな?」
そう言って悠里ちゃんは私を外に連れ出した。夕暮れ近い空と木々から延びる影が揺らめく中、彼女は無言で歩いていく。その後を追いながら、私は言葉を迷っていた。結局話しかける言葉を見つけ出せないまま、彼女が足を止めた。
「玲。ボクは目的があってこれまで旅をしてきた。また旅立つときまで、キミ達に力を貸すつもりではいるけれど…」
その背後にいつの間にかアッシュくんが立っている。こちらに顔を向けず彼女の後ろにある様が、付き従う影のように見えた。
「これからの話次第だ。出自も知らなかったキミを巻き込むのは正直申し訳ないと思う。でも、今、はっきりさせておきたいんだ。トランスペラを喚んで。」
いつもより冷たい声音で悠里ちゃんは告げた。
「ボクのこと、話すよ。」
「…うん。」
その様子に嫌とは言えなかった。彼女は何かを圧し殺すようにしていたから。
「現世の命運に抗う力を彼方より求む。汝、我が輔となり、共に歩むもの。我が真名と契約に従い常世より来たれ。トランスペラ、召喚!」
現れたトランスペラくんは私に笑いかけると背を向けて身構えた。その正面に立つ悠里ちゃん達を冷たく見据えて。
「やぁ、玲。ゆっくり話したいところだけど、邪魔者を消してからが良さそうだね。」
「待って、トランスペラくん!」
「図書館では上手いことやりすごせたけど、あれは油断できない相手だから。」
話を聞く様子のない彼の袖を引いて、私は精一杯訴える。
「違うの!悠里ちゃんは――」
「なんであれの名を?…もしかして、知り合い?」
「友達なの。」
「――なるほど。何も知らない玲を懐柔したわけね。」
ますます剣呑さを顕にする彼はそれでも私の言葉に首肯く。
「いいよ。玲が納得できるように教えてあげる。あれは君が付き合うに値しない相手だって。」
構えこそ解いたものの、トランスペラくんは私を庇う様に前に立ったまま話始めた。
「蒼氷の民と緋炎の民の対立は知っているかい?」
「あんまり…」
「だろうね。知っていれば、あれを友とは呼べないだろうから。」
トランスペラくんの言葉を悠里ちゃんは否定も肯定もせずに聞いている。
「そもそも、蒼氷と緋炎は一つの召喚師一族だった。その中で氷の力が強いものと炎の力が強いものとが段々とより集まって二つが別れるに至ったんだ。それまでも度々衝突していた二つの一族だけど、その決定的な原因になったのはそこにいる悠里とアッシュなのさ。」
その言葉で、初めて悠里ちゃんが表情を変えた。ほんの少し苦しそうに眼を伏した彼女は何を思っていたのか。
「通常、悪魔を安定して定着させられるのはこの世界の生命が宿らない物質だけ。その原理ははっきりわかっていて異世界とこの世界との物質構成が違うからだ。次元を特定する上で物質構成の違いを目印にしているから、これが交じり合わない事が召喚を安定させる条件なんだよ。人と悪魔を構成する要素は本来全く異なる。ところが、ひとつだけ共通するものがあるんだ。魔力の根源である魂の構成要素には殆ど違いがない。人を媒体として召喚すれば、悪魔と人との魂が区別出来なくなるから何が起こるかわからないってのが定説だったのさ。」
「どういうこと?」
「簡単に言えば、召喚しても安定して定着しないってこと。悪魔が消え去るか、人の魂が死ぬかはその時々だけど、兎に角酷い結果にしかならない。皆解っていたから誰もやらなかったんだよ。だけど、今から二十年程前、緋炎の悪魔研究者が「人を媒体とした悪魔召喚」の新しい手法を提案した。勿論、リスクがあることを理解した上でね。蒼氷の民はそれに反対していた一族だ。制止を聞かず実験に乗り出した緋炎を彼らは許さず、結果として二つの一族は争いを激化させていった。実験は幾度と無く失敗を繰り返したけど、十六年前にたった一例だけ、ある研究者が成功させたんだ。自分の娘と炎の化身と呼ばれる上位悪魔を材料にしてね。なぁ、アッシュ?」
話を振られたアッシュくんは僅かに苦い顔をして、それでもトランスペラくんの言葉を止めることはない。
「悠里は「緋炎の悪魔」と呼ばれる実験体だ。それを媒体としてアッシュが召喚された。幼くして人一倍強い魔力を得た代わりに、そのせいで存在そのものが不安定な魔力の塊みたいなもので、いつ暴走するとも知れない危険性を含んでるんだよ。」
「悠里ちゃんが、実験体…?」
思わず彼女に視線が向く。私の視線を、悠里ちゃんは覚悟を決めた様に真正面から受け止めた。
「全部本当のことだよ。ボク自身はアッシュの召喚主じゃないし、ボクの意思でこいつを喚ぶことも出来ない。旅の目的の一つはこの身を何とかすることだ。」
彼女の深紅の瞳が揺れた。それは迷いというより不安だったのだろう。
「それともう一つ、ボクはこの戦争を止めたい。緋炎と蒼氷の争いでもう誰かを犠牲にしたくはないんだ。」
ぽつりと、呟くように、噛み締めるように、彼女はそう溢した。そんな悠里ちゃんにトランスペラくんは冷たく告げる。
「だから自分を犠牲にしようって?なら、俺が根源を絶ってあげるよ!」
「トランスペラくん!」
「いいかい、玲。これはキミの為でもあるんだよ。それと一緒に居れば必ず蒼氷や緋炎に眼をつけられる。キミが何故一族から離れたのかは知らないけれどそれなりの理由があったはずだ。自分からリスクを抱えるのはあまり利口とは言えないね。」
「それなら利口じゃなくていい!悠里ちゃんに嫌なことしないで!」
「残念だけど、そういうわけにもいかないね。前回はあれの仲間に邪魔されてしまったけれど、前の主の最後の頼みだ。あれを消し去ってそれを叶えるのが俺の務めなんだよ。」
再び身構えたトランスペラくんは次の瞬間に冷気を残して霧散したように消えてしまった。
「やっぱりやるしかないのか――」
その霞み越しに、悠里ちゃんはほんの一瞬だけ見せた悲しそうな顔を横に振った。
「アッシュ!」
「気化したあいつを捉えるのは無理だ!」
「玲を巻き添えには出来ない!何とかしろ!コールディ、来い!」
「くそっ、オレから離れるな!」
舌打ちをしつつアッシュくんが緋色の大刀を構え、悠里ちゃんが棍を握る手に力を込める。背を合わせる二人を前にしても、どうしたらいいのかわからず私は動けなかった。それでも事態は進んでいく。私の望まない、悪い方向へと。
一瞬にして二人を囲うように細く鋭い氷の刃が並ぶ。即座にその場を離脱した二人に対して、上空に姿を現したトランスペラくんが追撃を謀る。
「氷河より出づる太古の魔物よ、従え、我が意の侭に敵を討て、凍迅の忌子<<フローズナー>>」
上空に浮かび上がったのは凍り付いた様に全身に霜が張った鮫だ。大きく開けた口内に並ぶ鋭い牙がアッシュくんに襲い掛かる。大刀でそれを受け流す彼の背後から再度トランスペラくんは氷の刃を放とうとしている。
「焔の祝詞に神楽の響き、仇なすものから其の身を護れ、護り羽衣!」
アッシュくんの背後に迫ったそれを悠里ちゃんの魔術が蒸発させた。蜃気楼の様に揺らめく焔の護りが彼とその相対する氷の鮫との攻防を邪魔させまいとする。
「悠里!オレに構うな!」
口ではそう言いつつ、彼に余裕があるようには見えない。そして、悠里ちゃんにも。魔術を維持するためなのか、それまでアッシュくんと付かず離れずの距離を保っていた彼女の足が完全に止まった。それを見てとったトランスペラくんは薄く、冷たく微笑む。
「全ての者よ、この世を統べる悠久を知れ、氷縛!」
「逃げろ、悠里!」
アッシュくんの叫びに反応するより速く、地中から現れた氷の枷が悠里ちゃんの片足を捉えた。その場から動けなくなった彼女を即座に氷の刃が襲う。思わず叫ぶ。
「悠里ちゃん!」
「――っ!」
敢えて後ろに倒れることで彼女は被害を最小限にした。それでも避けきれなかった数ヵ所から赤い血が滲む。一瞬それに気をとられたアッシュくんの肩口に鮫が食らい付く。悠里ちゃんが襲われたことで焔の護りも解除されてしまったのか、鮫の拘束をなかなか振りほどけそうにない。悠里ちゃんは棍を自分を縛る氷の枷に思いきり振り下ろした。が、それはびくともしない。
「無駄だよ。それはそこの若造を捕らえるために考えたんだから、その程度では壊せないさ。」
トランスペラくんはゆっくり地上に舞い降りると視線の先の悠里ちゃんに笑いかける。
「玲を狙わないなんて意外と甘いんだね。でも、その甘さがお前を殺すんだ」
その言葉を聞いて寒気を覚えた。彼は本気で悠里ちゃんを殺す。
「トランスペラくん、やめて!」
「さようなら、緋炎の悪魔」
やっと出せた私の声を無視して、彼は悠里ちゃんに掌を向けた。そこに冷気を込めた魔力が集まるのが直感で解った。
「波動の龍、我が言霊に従い全てを飲み込め――」
その呪文を私は知っている。悠里ちゃんが私を助けてくれた最初の――
「だめ!止めて!」
身体が自然と動いた。
「来るな、玲!」
悠里ちゃんのいつになく厳しい声が飛ぶ。それでも私は足を止めない。
「氷の波動!」
呪文が完成して冷気を纏った龍が現れる。牙を剥いて悠里ちゃんに襲い掛かるそれと彼女との間に、私は飛び出した。
「止めなさい!トランスペラ!」
私の叫びに何かが応じた。自分の内側から反響するような感覚が私を包む。その直後、目前に迫っていた氷の龍が痺れた様に動きを止めた。そのまま、龍は何かを押さえ込むような仕草をすると、次の瞬間には大爆発した。その光に、音に、思わず眼を瞑る。
「――春日ちゃん…?」
音が止んで、恐る恐る眼を開けると、正面に驚いた顔のトランスペラくんが見えた。その表情が即座に険しく変化する。
「玲!危ないじゃないか!」
「トランスペラくんこそ!なんで話を聞いてくれないの!」
「聞くも何も検討の余地なんかないんだよ?!」
「そんなことない!」
私の言葉に彼は溜息をついて困ったように問う。
「それは人間と、友人と言うにはあまりにも歪だよ。…そんなに緋炎の悪魔が大切なのかい?」
「大切だよ。だからそんな言い方しないで。」
私ははっきりと告げる。
「トランスペラくんの言うように、悠里ちゃんにはどうにも出来ない事情があるんだと思う。でも、悠里ちゃんは私を助けてくれたし、心配だってしてくれた。まだよく知らないことも多いけど、悪い人じゃないことは解ってるよ。あなたはそういう悠里ちゃんを知らなすぎる!」
トランスペラくんの蒼い瞳が私を見つめている。
「…今を逃せば仕留めるのは難しくなる。本当にいいんだね?」
「うん。悠里ちゃんは友達だから。」
その瞳が考え込むように閉じられた。次にそれを開いた時、彼は諦めたような笑みを浮かべて呟く。
「俺も甘いんだね。主には逆らえないか。」
トランスペラくんが二回、手を叩くと、先程まであった魔術の気配が消えたのがわかった。見ればアッシュくんは鮫から解放されていて、悠里ちゃんも枷から放たれていた。
「解ってくれるの?」
「納得はしてないけどね。」
飽くまでも、彼は自分の信念に従って、その冷たい瞳を悠里ちゃんに向けた。
「主の希望だから今回は見逃すよ。でも、お前が彼女に仇なすならその時こそ容赦しないからね。」
トランスペラくんは一方的に彼女にそう告げた。それから人差し指を自分の唇に当ててもう一度私に笑いかけた。
「俺は玲の味方だよ。それだけ忘れないでね。」
また喚んでよ、とウィンクを投げると彼は霞のように消えた。収束しそうな事態にまずは安堵を覚える。
「悠里、大丈夫か?」
その声で振り返れば、座り込んだままの悠里ちゃんの傷の具合をアッシュくんが確かめているところだった。陰が差していてその表情を見ることは叶わなかったけれど、彼女は黙ったまま小さく頷いた。それを確認するとアッシュくんは溜息をついて立ち上がる。
「オレは一度休む。」
よく見れば、彼自身も鮫との戦いで傷ついていた。肩から腕を伝うように赤い血が落ちている。トランスペラくんを止められなかったことで申し訳なさを覚えた私はおずおずと声をかける。
「えっと…大丈夫…?」
「ああ。それほど深くはない。悪魔は人より頑丈だから寝ていればそのうち治る。」
彼はそれほど気にした様子もなくそう答えた後で、ちらと悠里ちゃんを見た。
「…こいつを頼む。」
そう言い残してアッシュくんは陽炎のように消えた。相変わらず俯いたままの彼女を残して。
傷が心配になった私はアッシュくんに代わって悠里ちゃんに触れようとした。
「悠里ちゃん、大丈夫?」
「――何で。」
「えっ…?」
その手を思わず止めた。
「ボクは来るなって言ったんだ。何で来た。」
「何で…って言われても…」
はっきりと理由を答える事が出来ない。というより、あの時は彼女が危ないという危機感から身体が勝手に動いた。
「下手を打つ事態ならキミは死んでいた!」
言い澱む私に彼女は言葉を叩き付けた。それは余りにも感情任せな様子で彼女らしくは無かった。
「悠里ちゃんだって――」
「ボクの事なんかどうでもいい!」
「どうでもいいなんてそんなこと――」
「ないって?キミ、本当に何も解ってないんだな。」
漸く顔を上げた彼女は自嘲するように笑った。そうやって笑う彼女が酷く不快だった。
「ボクは緋炎の悪魔であの人たちの実験体<<おもちゃ>>としての価値しか無かった。あの場所に留まればまた誰かを巻き込みかねないから旅に出たんだ。それなのにボクはまた、誰かを傷付けることしか…」
勢いのままに続けていた悠里ちゃんが一瞬口をつぐむ。
「――ボクには誰かに庇われる価値なんか無い。ボクはボクの事なんかどうなったって構わないんだよ。」
我慢の限界だ。気が付くと私は彼女の頬を思いきり張っていた。その吐き捨てるような言葉を否定したかっただけ。悠里ちゃんは一瞬だけ驚いた顔をして私を見たけれど、その視線はすぐに逸らされてしまった。
「…何、すんだよ。」
「悠里ちゃんこそ、何も解ってない!」
悠里ちゃんは誰かと関わることにとても臆病だ。
「力と向き合って、覚悟を決めて付き合うしかないって、言ったのは悠里ちゃんじゃないの!」
だから彼女は気付いていない。私たちが味方だってことに。私が一緒に居たいと思っていることに。
「それに、今はもう、私たちの仲間としての、私の友達としての価値があるでしょ!」
「友達…?」
「そうだよ。悠里ちゃんは大切な友達。」
「――あんたは…」
何かを言いかけた彼女は、やはり口をつぐみ俯いた。その口許が何かを呟いたように見えた。小さすぎて聞き取れなかったそれを気にする前に、彼女が噴き出す。
「そう言ってくれたのはキミが二人目だ。」
何が可笑しいのか、悠里ちゃんはくるくると笑う。一頻り笑った後で、突然笑いだした彼女をぽかんとして眺めていた私を見た。それから、何かを懐かしむように彼女は微笑んだ。
「玲、ありがとう。お陰で思い出した。」
「何を思い出したの?」
「秘密。」
そう言って彼女は夕闇の月が輝き始めた空を見上げた。どこか遠くを懐かしむように。
――燈矢、あんたは許してくれる?
玲の言葉に、かつての友人を思い出す。久しく考えないようにしていた彼のことをこんなときに引き出す自分を嫌だという気持ちは何故か無かった。それどころか、何だか可笑しくなって笑ってしまう。
「玲、ありがとう。お陰で思い出した。」
素直な気持ちなど、久方振りに吐き出した気がする。
「何を思い出したの?」
「秘密。」
不思議そうな顔で問い掛ける彼女にそう答えて、ボクは空を見上げた。いつかの日にも彼と見た空がこんな満月だったと思って。ボクの横では玲が何故かそわそわしている。
「…悠里ちゃん、ごめんね。痛かった?」
トランスペラに付けられた傷のことか、先程のことか、兎に角彼女は心配そうだった。
「気にしなくていいよ。それより、そろそろ戻ろうか。」
申し訳なさそうにボクを見ていた玲に笑いかけて立ち上がる。ボクの様子に安心したのか、彼女も立ち上がった。
二人並んで帰る道はもう暗くなり始めいて、拠点に戻る頃には夜と言っても差し支えないくらいになっているだろう。ボク達は遅くなったことと傷を貰ったこと、その他諸々の件で揃って葉流に怒られることになる。が、それも今ばかりは楽しみだと、この時は考えていた。
銃声が鳴り響く。視界に写る赤と地に伏した彼にボクは呼吸を止めた。
「燈矢!」
抱き起こした彼はそれでも笑みを浮かべていた。
「あはは…ミスった、な…」
「笑い事じゃない!喋らないで!」
懸命に押さえる傷口から溢れる滴がボクを焦らせる。
「――何で、私を庇ったりしたんだ。」
思わず出た言葉に、彼はいつもより荒い呼吸でいつも通り返す。
「だって、友達だから…行って、悠里。」
「ふざけるな!置いて行けるわけないだろ!」
「僕は平気だから…行って。」
彼が眼を閉じる。相変わらず、笑みを浮かべて。
「燈矢!駄目だ!眼を開けろ!」
その瞬間、彼の全身から力が抜け落ちたのが解った。
「燈矢!」
――そこで目が覚めた。
自分の鼓動が、呼吸が速い。それまで見ていた光景が夢であるとすぐに解った。それでも身体を起こしたのは周りを見て確認せずにはいられなかったからだ。
部屋の中、ボクはソファーで眠っていたことを思い出す。拠点に帰還したあと、葉流の治療と小言を貰い、今日は遅いからとそのまま玲の個室に泊まったのだ。同じ部屋のベッドを見れば、玲が静かな寝息を立てていた。その向こうの窓に夜明け前の明るい月が見えた。
「…燈矢。」
彼の名を呟いたことを僅かに悔やむ。頭を振ってソファーから降りた。すぐには寝付けそうに無かった。
拠点の外に出れば、行く宛もないはずなのに自然と足が進み出す。ほんの少し冷たい風が肌を撫でる感覚に現実を憶えた。足の向くまま、たまたま辿り着いた大きな木の根元に腰を降ろした。顔を上げれば明るい月がボクを見下ろしている。あの頃は彼に連れ出されてよくこんな夜を過ごしていた。
「どうした、悠里?こんな時間に散歩か?」
その声は唐突にボクの頭上から降ってきた。
「――居たのか、アッシュ。」
「言っておくが、オレが居たところにお前が来たんだぞ。」
心外とばかりにあいつはそう言った。ちらと見れば、太い枝に座り木の幹に背を預けたアッシュは欠伸を噛み殺していた。此処に降りてくる気は無さそうだ。
「悪い夢でも見たか。顔色が良くないな。」
その割に、あいつはボクをよく見ていた。嫌味なことに察しもいいのか。応えないボクにあいつは何も言わない。
不意に口笛が聞こえた。緩やかに流れる切ない旋律は思い出の中の物と寸分違わない。ただ、聴きたくはなかった。
「やめてくれる?」
音が止まってから一拍空いて、今度は溜息が降る。
「なんだ。折角元気付けてやろうと思ったのに。」
その声音は非難するというより、諦めているように聞こえた。
「その曲は…。」
燈矢がよく歌っていたものだ。その歌が好きだった。
「嫌いか?」
「そうじゃないけど…。」
歯切れ悪く言葉に詰まるボクにあいつはそれ以上何も言わなかった。悪魔らしからぬその行動に、寂しいのだとは言えなかった。流れる雲が月を隠す。陰が作り出す不思議な夜の光景を眺めていると余計なことを考えずに済む気がした。
「悠里。」
それなのに、あいつは敢えて言葉にしたんだろう。
「お前にはまだ人との関わりが必要だ。」
それがボクの触れられたくない事だと解っていても。
「あいつらと上手くやろうとする必要はない。でも、覚悟を決めろ。今、逃げるな。」
だから、ボクを追い詰めるように、一方では励ますように、あいつは言葉を放つ。それを受けて、ボクは迷いながらも、結局、気持ちを吐き出す場にあいつを選んだ。
「…玲が、ボクを友達だと。」
「不安なんだな。」
「…また、失うような真似をしたくはない。」
暫くの沈黙の後、あいつはいつもより優しい声音で告げる。
「守ればいい。今度こそ、お前の力で。」
抱いた膝に顔を埋める。子供染みた行動をすることも、この時ばかりは気にならなかった。
「――ボクには荷が重いよ。」
「大丈夫だ。」
普通なら聴こえないような呟きに、はっきりとした答えが返る。草を踏みしめる音で顔を上げると、あいつはいつの間にかボクの正面に立っていた。雲が切れる。
「オレが一緒に背負ってやる。」
その悪魔は不思議な輝きを放つ瞳をほんの少し細め、その口許に笑みを象った。
「頼れ、悠里。」
月を背にして、あいつはボクに手を差し出した。かつての友の、その代わりをしようとするように。甘えを許さないボクの相棒は、それでもボクを支えようとした。
「――うん。」
精一杯応えようと、ただ素直にそう思った。
「ボクも覚悟を決める。」
その手を支えに立ち上がった。
「力を貸して、アッシュ。」
「ああ。」
月明かりの中、ボクはあいつに笑顔を向ける。夜の散歩、その最中で、あの頃のボクとは違う姿で。




