未熟者の召喚師
「そういえば――」
その日は悠里ちゃんのこんな一言から始まった。
「活動って具体的には何するわけ?」
「そうですね…。目的はメダルの回収…っと、これは以前お話ししてますね」
慶太くんが手元のノートパソコンから顔を上げた。その視線の先で悠里ちゃんが首肯く。今日の拠点には私たち三人しか居ないのか、いつもとは違って静かだ。慶太くんは作業の合間にお茶を用意してくれるけれど、それ以外には殆どテーブルを離れず、悠里ちゃんは雑多に本が入れられた本棚からたまたま抜き取った本に目を落としていてソファーから動かない。ちらりと見えた本のタイトルは「毒草に学ぶ薬学」――多分、葉流ちゃんが読んでいた――だった。規則正しく響くキーボードを叩く音に、時折ページを捲る音が交じる。私も所在なくテーブルで料理雑誌を開いていた。そんな最中、思い出したように彼女が言ったのだ。
「メダルを集めるにもその所在が不明なので、普段は情報収集をしています。で、それと僕らの運営資金調達を兼ねて一般の調査依頼なんかも受けてるんですよ」
「なるほど。それで今日は煩い二人が居ないわけか」
「そういうことです。因みに、葉流さんの努力もあって、メダルの総数が七枚ということだけは分かっています」
慶太くんが言い切ると同時に奥の扉がバァンと派手な音を立てて開いた。
「それ以外はなーんも分かってないけどね」
「葉流さん、ドアの開閉はお静かに」
「あはは。ごめんごめん!」
慣れ半分、呆れ半分で彼が言う。それを受け流して葉流ちゃんが私と悠里ちゃんを手招きした。
「葉流ちゃん、居たんだね」
「ちょっと集中したくて資料室の方にいたからね。ところで、お二人さん、暇ならお使い頼まれてくれない?因みに、拒否権はないから」
「それって強制…」
私が続けて言葉を紡ぐ前に葉流ちゃんがにこりと笑う。ただ、その目は全く笑っていない。
「玲ちゃん?何か問題が?」
「何でもありません!」
有無を言わさぬ雰囲気に思わず首を横に振る私を見て、悠里ちゃんも読んでいた本を静かに閉じた。私が椅子から立ち上がってソファーの悠里ちゃんと並んだのを確認すると、彼女は葉流ちゃんに先を促す。
「で、使いの内容は?」
「隣町の図書館まで資料探しに行ってほしいのよ。解読中の古文書で新しい記載があったんだけど、手元にあると思ってた資料が無くてね」
はいこれ、と手渡されたメモには辞書のタイトルと思われるものがざっと三冊分書かれている。大した重さでも無いだろうし、こんなことに二人で行かなくても良さそうな気がした。
「この量なら私一人でも何とかなるよ」
「玲、一人で行かないほうがいい」
それを止めたのは悠里ちゃんだった。
「まだ力に目覚めきってないんだから単独行動はしばらく避けるんだね」
先日のことを思い出した私は僅かに身を竦める。
「はーい…」
「とは言え、ボクは地理に疎いから一人じゃ行けないし、玲には付き合ってもらうよ」
「じゃあ、二人ともよろしくね」
葉流ちゃんと慶太くんに見送られて私たちは拠点を出た。このお使いが私と悠里ちゃんの縁を更に深くするなんて、この時は想像もしていなかった。
***
「さて、ただのお使いじゃ玲の勉強にならないからな。この機会に幾つか召喚術についても教えておこうと思う」
拠点を出てすぐのところで悠里ちゃんが立ち止まった。
「まず、ボクたち召喚師が喚び出すのは大きく分けて二種類で悪魔か精霊と呼ばれる存在だ。精霊は特殊な条件下でなければ生まれないから基本的には悪魔を喚ぶことになる」
落ちていた適当な枝を拾い上げると、悠里ちゃんが地面に何かを書き記していく。見れば、アッシュくんのデフォルメされた似顔絵と炎の模様の棍、それから見たことの無い翼のついたドラゴンだった。
「悠里ちゃん、絵上手いね!」
「…今、そういう話をしてるんじゃないんだけど」
僅かな呆れを声音に含ませて、彼女が溜息を吐く。ただ、ほんの少し嬉しそうに笑っていた。
「悪魔は完全な異世界の存在で意思疎通が可能なやつとそうじゃないやつがいるんだ」
悠里ちゃんがアッシュくんとドラゴンを指す。
「意思疎通可能なのはアッシュみたいな人型とハクビみたいに生き物の形をとる幻獣型だけで、こっちは言葉のやり取り可能だけど召喚に応じてくれるかも相手と自分の力量次第。魔力や経験が物を言うし、それがあっても強いモノを喚ぼうと思えばリスクがある」
次に棍を指して彼女は続ける。
「こっちのコールディみたいな物質型には明確な意思はない。こちらの魔力が足りてさえいれば喚び出せるから試しに喚ぶならこっちかな」
「うんうん」
首肯く私を悠里ちゃんはちらりと見ると何も言わずに、先程の絵の下に矢印を引いてまた何かを書く。円の中に四角や丸が幾つかと見たことの無い記号だ。
「召喚は魔導円を介して行うんだ。魔導円が異世界とこちらの世界の仲介になる扉だと思えばいい。模様が喚び出すモノのイメージを表していて特定の現象…例えば炎や氷を扱うのに長けたモノを示している。で、記号の方はより具体的な情報なんだけど…表形文字と表音文字を組み合わせて使うんだ。こちらは指定しようと思えば喚び出す相手の名前まで指定できる。ただしその分コスト(魔力)が必要になるけどね」
さらに下に矢印を引くとそこに首飾りを描いた。
「で、召喚は魔導円を基点にしているから、これが壊れると召喚自体がキャンセルされる。召喚師は魔導円を守りながら闘う必要があるわけだけど、戦闘中にこんなもの書いてらんないからな。喚び出した相手と召喚契約を結ぶときにはこの魔導円をこちらの世界の物に宿しておく必要がある。召喚媒介簡易魔導円とかいうけど…もっと簡単に媒体って呼んでる人がほとんどだね」
「うんうん。…それってそのペンダントみたいな?」
私に問われると悠里ちゃんは水晶の輝くペンダントを持ち上げた。
「そうだね。これがコールディの媒体。で、こっちがハクビのだ」
彼女が左側の髪を耳に掛けるとそこには銀の耳飾りが揺れた。そこでふと悠里ちゃんがそれ以外の装身具を着けていないことに気付いた。
「アッシュくんの媒体は?」
この質問に、彼女の表情がほんの少し曇った。
「アッシュは…まぁ、そのうちね…」
この時、悠里ちゃんは明らかにその答えを避けていた。それが何故なのか知ったときに、私はこの質問をしたことを後悔することになる。
「それより、万が一、喚び出した相手がまずいものだった場合にはすぐに魔導円を壊すこと。それを徹底しておけば、最悪死ぬことは少ないから」
「わかった!……多分」
半ば無理矢理話を逸らした悠里ちゃんに気付かない振りをして、私は笑った。それに彼女が安堵の様子を見せたことも含めて。
「多分、ね…。さっきから薄々思ってはいたけど、玲って勉強苦手?」
図星を当てられて思わず視線が泳いだ。正直、なんとか文字の辺りから全くわからなかったなんて言ったら悠里ちゃんはどんな顔をするか…。
うん、誤魔化そう!そう判断した私はもうひとつの疑問を思い出した。
「えへへ…。ところで、ハクビって何?」
悠里ちゃんはこちらの意図に気付いてか、僅かに目を細めたけれど、小さくため息をついて答えた。
「あぁ…そういえば皆の前で喚んだことは無かったね。ボクの契約してる悪魔なんだ。折角だし、実演を兼ねて図書館まで連れていってもらおうか」
ふわり、悠里ちゃんの周りに風が舞う。
「召喚には魔力が必要だ。この風がその魔力で、召喚師が異世界に干渉するとき、媒体に封じた魔導円を描くのに使う」
左手を前に翳すと銀のピアスが白く輝いて彼女の前に白い光を放つ魔導円が現れる。よく見れば、先日見た赤い魔導円とは違う模様だ。
「これが召喚待機の状態。ここで召喚をやめることもできるけど、魔導円を描いて消費した魔力は戻ってこない。あと、喚び出すときに呪文を省略したり短縮化出来るんだけど、それをやると消費魔力が大きくなる。ゆっくり召喚できるならいいけど、戦闘中じゃそういう訳にはいかないことが多い。だから喚び出すならその後の状況諸々を考えたほうがいいね」
「うーん…考えること多いんだね…」
「まぁ、後は慣れだね。やってる間にそのうちわかるさ。ボクは普段なら面倒だからあまりやらないんだけど、今回は正規の呪文使うからよく見てな」
集中を取り戻すように一呼吸置くと、悠里ちゃんは言葉を紡ぐ。
「現世の命運に抗う力を彼方より求む。汝、我が輔となり、共に歩むもの。我が真名と契約に従い常世より来たれ。ハクビ、召喚!」
魔導円の中心に渦を巻くように魔力の風と光の粒が集まっていく。それが一気に弾けて、光が一つの形を作る。蝙蝠のような翼に長い尾が揺れ、頭には小さな角が二本生えている。現れたのは純白に輝く小さなドラゴンだった。きゅう、と一声鳴くとその子は一直線に悠里ちゃんの元へ駆け寄った。身体を擦り寄せて甘える様はまるで仔犬だ。悪魔だなんて言うので怖い生き物を想像していた私は思わず溢す。
「可愛い…」
声に気付いたのかドラゴンの真っ黒な丸い瞳が不思議そうに私を見た。悠里ちゃんから離れ、こちらに歩み寄るその子にしゃがんでゆっくりと手を伸ばす。
「あ、その子は――」
悠里ちゃんが言い切る前にドラゴンと私の距離がゼロになった。鼻先がほんの少し手に触れる。一瞬驚いたように首を竦めたその子は、そのあとまたゆっくりと私の手に擦り寄った。ひんやりした鱗の感触が真新しい。
「…ハクビ、いいの?」
悠里ちゃんが問うとドラゴンはくぅと鳴いて彼女の元へ戻っていった。機嫌良さそうに足元に座るその子を見て悠里ちゃんが僅かに笑みを浮かべる。
「この子に気に入られるとはね…実力は兎も角、センスはあるんじゃない?」
「どういうこと?」
「ハクビは人見知りが酷いんだ。初対面の人間で噛まれなかったのはあんたが初めてだね」
「それって、悠里ちゃんも含めて?」
「…玲は意外と遠慮の無い聞き方するな。まぁ、ボクも含むよ」
若干不貞腐れた、もしくは不機嫌そうな様子で悠里ちゃんは答えた。あまり見せることの無い年相応のその表情が面白くて思わず吹き出せば、彼女はますます不機嫌そうになった。
「言っとくけど、ボクが噛まれたのはハクビの気が立ってたからだし、噛まれるのを承知で手出ししたんだからな」
「契約ってやっぱり大変なの?」
「いや、ハクビは特別。まぁ、普通従えられないモノは喚ばないしね。さ、そろそろ行こうか。ハクビ、よろしく」
悠里ちゃんに名前を呼ばれると、ドラゴンは伸びをするように首を持ち上げ、その身体を巨大化させた。全長五十センチほどだったハクビちゃんはあっという間に五メートル近い大きさになった。
「ハクビちゃんすごい!大きい!」
「ハクビは封印を司る悪魔で、自分の能力の調節が上手いからね。本来のサイズはこっちなんだよ」
悠里ちゃんはドラゴンの背中にふわり、飛び乗るとこちらに手を差し出した。
「ほら、行くよ」
「うん!」
その手を取って背に乗ると、ハクビちゃんは大きく翼を広げ飛び立った。初めての空の旅は速度と高さによる恐怖との闘いだと、私はすぐに知ることになる。
***
「…玲、大丈夫?」
「うん、何とか…。だいぶ慣れた!…気がするよ」
隣町までは長い時間ではなかったけれど、着くまでほとんど悠里ちゃんにしがみつくような状態だった。ハクビちゃんはとてもゆっくり飛んでくれたそうだけど、それでも私にはとても速く感じたのだった。町の少し手前で地上に降りたときは地に足がついた状態をとても嬉しく思った。
「さてと…」
悠里ちゃんが地図を取り出す。いつの間に受け取ったのか、隅の方に葉流ちゃんのサインが見えた。暫くそれを眺めたあと、不意に悠里ちゃんが顔を上げた。
「玲、これ。」
「これ?」
悠里ちゃんから地図を受けとる。見れば、ほとんど一直線の道が図書館まで続いているだけの、何の変哲もない地図だ。
「この地図、どうかしたの?」
「……。」
何も言わず、空の彼方を見つめる悠里ちゃん。その様子で何となく察することは…。
「もしかして、地図が読めなかったの?」
「……。」
黙ったまま、彼女は空から視線を地面に移す。その頬が僅かに赤い。
「キミの想像出来ないくらい田舎育ちなんだよ。そういう細々した図面はよくわからない。」
「何か意外だね。」
いつものクールさからは想像しづらい弱点だ。そう考えるとなんだか面白くて、私はつい笑ってしまう。彼女は一瞬むっとした表情を浮かべたけれど、すぐに溜息をついて背を向けた。
「行くよ。」
「あ、待って、道こっち!」
そんなこんなで私たちは図書館を目指した。図書館は町の中心部に位置する大きな建物だ。本館と分館の二つがある。本館はタイル張りでお洒落な見た目で新しい本が殆どだ。分館はそれとは対照的に、その蔵書は半分以上骨董品のような物らしい。日常的に読む本を目指してくる人よりも学者が使うような資料館だ。今回私たちが探す本も分館にあるようだった。
「広いね…悠里ちゃん、迷わないでね。」
「うるさい。とは言え、これは骨が折れそうだね。手分けして探そうか。」
「じゃあ、入り口で落ち合おうね!」
「わかった。じゃあ、後で。」
行動決定後、悠里ちゃんは迷い無い足取りで去っていった。ただ、広い図書館で彼女が目的の書架まで辿り着けるのかは心配だ。そんなことを考えても仕方ないと、私も資料探しに行くために向きを変える。
―――。
「え…?」
何か、聞こえた気がした。
――こちらへ…きて。
今度ははっきりと、すぐ傍の部屋から囁くような、誘うような声がした。標識には閲覧禁止の文字が並んでいたけれど、声に誘われるまま、私はその扉を開いてしまった。暗い室内は古い本の匂いがして、棚にはどれも沢山の本が並べられている。ふと目にした背表紙には何処の国の言葉とも知れない文字が踊っていた。よくよく見れば、この書架にはどの本にも同じ文字が示されているようだった。
「あれ…?これって…」
見覚えのある文字だ。でも、どこで見たのかが思い出せない。考え込んでいるとぱたんと、背後で音がした。何処から落ちたのか、通路の真ん中に一冊だけ本が落ちている。題は無く、白い表紙だ。不思議に思いながらそのままにも出来なかった私は本棚に戻そうとそれを手にした。
触れた瞬間、異変に気付く。
「あれ…」
本が淡く青い光を放っている。まずいかな、と思ったときにはすでに遅かった。本を中心に魔方陣が広がる。その時になって漸く思い出した。そう、あの文字は悠里ちゃんが見せてくれた召喚術のと同じ――。
瞬間、光が弾けた。
「きゃあ!」
それに驚いて思わず尻餅を付く。そんな私に構わず、部屋を埋め尽くさん勢いで広がった光が徐々にひとつの形を作っていく。現れたのは物語や絵画で描かれる天使と見間違うばかりの青年だ。というか、見た目は天使そのものだった。金色の長い髪を一つに結い、その背中からは一対の白い梟のような翼が見える。はっきりとした顔立ちの中でも特に目立つのは青い瞳だ。その澄んだ深い青がこちらを見た。
「やぁ、お若い蒼氷の召喚師さん。封印を解いてくれてありがとう」
「封印…?」
「あれ?もしかしてよく解ってない感じ?」
彼は優しそうな笑みを浮かべて私に手を差し伸べた。思わずそれを取れば、彼はやはり優しく私を立たせてくれた。
「俺、さっきまでその本に封じられてたんだよ。いやー、参ったね、本当。油断してた訳じゃなかったんだけど、相手が強くてさ。その封印術を君が破ってくれたんだ。本当に感謝するね!」
軽い調子で語る彼が人ではないのはわかっていたけれど、封じられるほど良くないものには思えなかった。
「えーっと…あなた、もしかして悪魔?」
「そうだよ。」
何でもないことのようにその悪魔は頷いた。まるでこちらを警戒させないような様子がかえって恐ろしく思える。
「しかも、こんなに可愛い子が助けてくれるなんてさ。これはもう運命を感じずにはいられないよね!」
軽いというかチャラい…。
「契約が解消になる前に仕えていた春日ちゃんも可愛かったんだけど、君もかなり…」
勢いのままに話し続けていた彼はそこでふと気付いたと言うように、私のことをじっと見て不思議そうに首を捻る。
「というか、君は…」
何かを言いかけた彼が突然黙る。その表情が先程までの雰囲気を打ち消すように真剣さを帯びた。
「――近いな。残念だけど、楽しいお喋りはここまでにしよう。」
こちらへ向き直ると、彼は続ける。
「申し遅れたけど、俺はトランスペラ。君は?」
「玲、だけど…。」
「じゃあ、玲。今言ったように、俺と前の主との契約は既に切れてるんだ。だから遠慮無く使ってくれて構わない。」
「使うって…?」
「俺と契約しよう。」
トランスペラくんが私の手を取って微笑む。悠里ちゃんの話を思い出したのはその時だ。
――悪魔は完全な異界の存在だ。
――強い物を喚ぼうと思えばリスクがある。
目の前の青年はいかにも優しそうに見えるけれど、真意はわからない。それが少しでも知りたかった。
「急に、なんで?」
「近くに嫌な気配が来てる。契約したいのは君が俺の知り合いに似ているってのが主な理由だけど…そうだね。簡単に言えば、君が気になったからかな。」
彼は茶目っ気たっぷりにウィンクして再度私に問う。
「どうする?」
これは悪魔との契約。もしも危険なモノとの契約であればリスクでもあるけれど――。
「…うん。お願い、トランスペラくん!」
あの日、私は覚悟を決めた。悪夢のような現実に抗うために、皆を守れるように、そのための力を得るために出来ることをすると。その覚悟を見透かしたように、その悪魔は笑っている。
「それじゃ、俺を封じる媒体を出してくれる?」
「媒体…」
トランスペラくんが出てきた本をちらりと見る。
「その本――」
「――は勘弁してくれるかな?」
「だよね…。」
となると思い当たるものは一つしかなかった。ポケットから銀色に鈍く輝く鍵を取り出す。
「これ、おばあちゃんに貰ったお守りなんだけど…だめかな?」
「その鍵は…なるほどね。いいよ、それにしよう。」
やはり何か気になることがあったのか、彼は納得したように頷いた。
「封印の呪文はわかる?」
「わかんないです…。」
「じゃあ、俺の後に続けて。」
私は鍵を手に、彼の前に立った。目の前の悪魔は優しく微笑みながら口を開く。その声に導かれるように、私は言葉を紡いだ。
「現世と常世の境を我が物とする――」
彼の足元に浮かび上がった魔導円が、握り締めた鍵が、淡く青く輝く。
「――我が望みのままに、汝、如何なる時も我が声に応じ、如何なる場も我が力となれ――」
ふわり、魔力の風が舞う中で、声が不思議に反響する。笑う悪魔を前にしても、最後の一節を|詠<<うた>>うことに迷いは無かった。
「――この真名を以て契約を為す!トランスペラ、召喚!」
***
「玲っ!」
トランスペラくんの影が水面のように揺らめいて消えるのとほぼ同時に、悠里ちゃんが部屋に飛び込んできた。焦った様な声を上げた彼女は私の顔を見ると僅かに落ち着きを取り戻したようで、小さく息を吐いた。
「悠里ちゃん?」
「近くでかなり強い悪魔の反応があった。君を一人にしたボクの判断ミスだ…無事で良かったよ。」
その様子から悠里ちゃんがだいぶ私を気に掛けてくれた事がわかる。彼女はアッシュくんも喚び出して私を探してくれたらしい。戻ってきたアッシュくんも私を見ると僅かに目元を緩めていた。それだけに二人には申し訳なさを感じる。
「あのね、悠里ちゃん…」
「ん?」
「えーっと…その、強い悪魔の反応なんだけどね…」
言いづらそうにする私を見て悠里ちゃんが顔を顰める。
「何かあったの?」
彼女の問いに小さく首肯く。
「実はね…悪魔と契約しちゃったんだけど…」
「――詳しく教えてくれる?」
別れてからのことを話す。悠里ちゃんは黙って私の話を聞き終えるとそのまま考え込んでしまった。暫くそのままで時間が過ぎた。
「トランスペラか…。」
漸く一言だけ呟いた彼女は床に落ちたままだった本を拾い上げた。白い表紙を見つめるその手には心なしか力が入っているように見えた。聞くべきではないかもしれないと思うのに反して、私は口を開いた。
「ねぇ、もしかして、トランスペラくんを知ってるの?」
「…あぁ、知ってる。まさか此処にいるとは思わなかったけどね。」
悠里ちゃんはこちらを見ること無く、感情を窺わせないように淡々と続ける。
「あいつをこの本に封じたのはボクの…大切だった人だよ。」
「大切、だった…?」
「…この話は後にしよう。とりあえず、葉流の使いを済ませないとな。」
彼女が背を向けて歩き出したことで、これ以上聞くことは出来なかった。ちらりと見えた悠里ちゃんの横顔は何かを迷う様だった。
***
「さて、状況としてはあまり良くないみたいだな」
ゆらり、陽炎の様にアッシュが現れた。
玲と拠点に戻ると葉流に資料を渡して外に出た。二人が何か言いたそうにしていたことには気付いていたが考えを纏める時間が欲しかった。本当は選べる選択肢など殆ど無いことにも気付きながら。
「あいつが居るとなれば、玲や他の連中をこっちの事情に巻き込むことになるぞ。どうするつもりだ?」
飽くまでも冷静な声を掛けてくるアッシュが今だけは少し恨めしい。とは言え、留まることを決めた以上その答えを出すべきはボクだ。
「…穏便には済まないだろうね。でも、放置はできない。それに、黙っていてもトランスペラが居るならいずれ玲には知れることだよ。」
ボクも冷静を装う。内心の不安はこいつにはバレているだろう。それでも、弱さを示すことは状況が許さない。何より、こいつには出来る限りそれを見せたくなかった。
「知れるなら早い方がいい。」
「だろうな。」
「悪いけど、あんたにも付き合ってもらうよ。」
「あぁ。」
短く了解を示して、アッシュは静かに消えた。迷いを捨て去るように、ボクは息を吐き出した。




