表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

差別とは

作者: みももも

雑記です

 差別は不寛容な世界を生むかもしれないが、差別の排斥が寛容な世界を生むとは限らない。

 きっかけが何かはわからない。ただ、不意にそう思った。


 あいつは○○だから。

 馬鹿だから、肌の色が違うから、言葉のなまりが違うから。

 体型が……チビだから、のっぽだから。デブだから、ガリだから。

 そんな下らない理由で仲間から外す。それは醜いことだと思う。

 だけどそういう考えこそが、時に覇権を握り、だからこそ差別による排斥はなくならない。


 なぜだろう。


 弱者を排斥する根本的な考えは、やはり心の弱さにある。

 人は基本的に、平和に、安全に暮らしたい。

 評価され、賞賛されたい。それこそが、生き残るための正攻法だから。


 潔癖な人間は、優秀な人間は。

 彼らは卑劣な手を必要としない。

 それは遺伝による性格なのか、あるいは親の教育のたまものか。

 同じ集団において、能力に差が出るのはどうしても避けることが出来ないのだろう。


 その差は努力では覆せない。

 あるいは、努力こそが、その差を強調していくのかもしれない。

 努力が苦手で、発想力が豊かな人が。

 勉強は苦手だが行動力のある人が。

 まだ、何が出来るのかもわかっていない人が。


 そういう人間は、ただ生きるだけでは腐り果てていく。

 弱い人間に出来るのは、奴隷のように自我を殺すか。

 あるいは、何らかの方法で優位に立とうと努力をするか。


 そして皮肉なことに、その「何らかの方法」こそ、他者を蹴落とすという手段なのかもしれない。


 いつだって私たちは、自分より弱い存在を探している。

 矛先が誰かを向いている間は、少なくとも自分は安全だ。

 だから目立たないように少しだけ、他人の背中をつま先で押す。

 立ち位置を調整し、重心をコントロールする。

 意図しない様子を演じながら、偶然を装って他人を攻撃する。

 身に覚えがないとはいわせない。

 私にだって……悔しいが、経験はある。


 学生時代のことだ。

 クラスに、乱暴者がいた。

 彼は、何かにつけて物や人に当たる、私から見た「嫌なやつ」だった。

 それは多分、クラスの大半にとっても同じ意見だったのだろう。

 そして当時、私は明らかに弱い人間だった。

 私が生き残るには、その乱暴者が、正義であってはならなかったのだ。

 実は彼は、内心で苦しんでいた? そんなことは知らない。

 実は彼は、捨て猫に餌をやるような優しい人間だった? そんなことは知らない。

 いや、違う。

 そうであってはならないのだ。少なくとも当時の私にとっては。

 私がしたこと? それはすごく簡単だ。単純明快だ。彼を追い詰めればいいだけなのだから。

 彼が何かをするたびに、別に何もしなくてもいい。ただ冷たい視線をそちらに向ける。

 彼が何かに困っているときに、別に何もしなくてもいい。ただ、なにもせずに睨み続ける。

 止めに入ったりとか、先生を呼んだりとかは、もっと上位の人間に任せればいい。

 そうして今にして考えれば、私はいじめに加担していたのだろう。

 別に、だからなんだと言うつもりもないが。


 最近は、学生時代にいじめられていたことをカミングアウトする人が、増えているような気がする。

 だというのに、いじめられた人の数に対して、いじめをしていた人のカミングアウトが少なすぎやしないか?

 なぜか、理由は単純だ。

 まず第一に、いじめた側は、それをいじめだと認識していない。

 そして第二に……いじめられたという事実よりも、いじめたという事実の方が、重い十字架としてのしかかる。

 それは、過去からの攻撃だ。

 当時いじめられながら状況を改善しなかった彼らはきっと、心のどこかで今の状況を望んでいた。

 悪は罰を受けるべき。

 自分が攻撃を受けることで、悪は明確になり、自らは正義を手に入れる。

 彼らが口にすることはあり得ないだろう。

 だけど「そんな思いはなかった」というのは、嘘だ。綺麗事だ。それならば、その考えは、改めた方が良い。


 私も、学生時代にいじめられた経験は、ある。

 というか、カースト上位以外はきっと、何かしらいじめられた経験があるのだろう。

 だから別に特別なこととは思わない。

 それに、常にいじめられていたわけじゃない。

 上にも書いたように、いじめに加担する側だったこともあるし、もっと明確ないじめの主犯だったこともある。

 さすがにそれを詳しく書く勇気はないが。

 それで、そんな私ですら、いじめられている間は「あえて攻撃を受けることで、奴らに罪を背負わせる」という気持ちはあった。

 だからこそ、別にいじめられる状況から脱しようとは、そこまで本気で考えなかった。のかもしれない。



 その上で、じゃあ理想の世の中ってなんなのか。を、少し考えてみたい。

 おそらくだけど、何者も、何者にも差別されない。というのは、無理なのだと思う。

 だって、私には嫌いな人がいる。

 私は別に、肌の色で人を差別するつもりはない。

 だけど、例えばがたいのいい黒人が目の前に現れたら……怖いと感じて身を引いてしまう。

 あとは、小学校時代に少しふくよかな人達からいじめに遭ったことがあるから、生理的にデブが嫌い。

 たばこの臭いがきつい人も嫌いだし、目の前でたばこを吸う人も、道路でたばこを吸って、吸い殻を投げ捨てる人も嫌い。

 そういえば、以前友人に「たばこ吸う人は嫌い」という話をしたら、そいつは「じゃあ、○○さんも嫌いなの?」と、聞いてきた。

 その○○さんは、まあカースト上位にいる人だったから、その人からするとそれで論破したつもりだったのかもしれないけど、私の答えはこうだ。

「…………(無言)」

 内心は、何言ってんだ、こいつ。

 たばこを吸う人が嫌いなのだから、その人も嫌いに決まっているだろう?

 そんなこともわからないのか、こいつは。そう思って呆れていたら、元友人は満足して立ち去っていった。

 まあ、それは良いや。


 で、そう。結局のところ、たぶんそういう差別がなくなることはないんだと思う。

 だって人にとって、他人は、他人でしかないのだから。

 だから多分大事なのは、公私を分ける。ということなのかもしれない。


 フェミ系の人が嫌われるのは、多分それが出来ていないから。

 例えば、男女平等。それは大変良いことだと思う。

 女性だから、という理由で、不利を被ることは、ない方がいい、場合が多い。

 ただそのほとんどは、公共に求めるべき基準だ。

 個人に強制することでは、ない。

 だというのに、私はこう考える。あなたもこう考えるべき。とでも言うように、考えを強制させられる。

 多様性を求めるための活動のはずが、いつの間にか多様性を踏みにじっている。

 もしくは最初から、自分たちが優位に立つための活動だったのかもしれない。それがわかるから、嫌われる。

 学校で、弱いものいじめが起きるのと、原理としては似ているかもしれない。

 違うのは、その優劣が、腕っ節の強さではなく、声の大きさで決まること。


 叫んだところでうるさいだけで、何かが変わることなどないというのに。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ