39話 桜は一歩を踏みだす
それは、寝返りを打とうとしたときなのかもしれない。
寝苦しさに違和感を覚えて目が覚めると、まだ暗闇が支配する深夜だった。
「……お、お兄ちゃん」
そんな闇夜のなか、温かな布団の奥でうごめいた声。
スルスルとした見覚えのない肌触りに気がついて目を凝らせば、腕の中にすっぽりと収まる桜がいた。
「えっ」
一瞬で頭が真っ白になったものの、冷静に寝る前を思い出そうとする。
だが、いくら愛する妹とはいえ間違いを犯した記憶はなく、俺も桜も服を纏っていることに気づいて安堵。
「お、起きなかったから……その……」
そして、桜のその一言で、こっそり忍び込んできたことを理解して再び安堵した。
「なんだ。怖くなったのか?」
胸をなでおろしながら、頭がまだ回っていない“寝ぼけ”に乗じて、腕の中の柔らかな少女の体を抱きしめた。
ほのかな熱と微かに甘い湿気に心地よさを感じる。
「違うの。……その、話したいことがあって」
おずおずと腕のなかの少女は言った。その口調から、話したいことが並々ならない覚悟と不安に苛まれていることを察して、安心できるように抱きしめる腕の力を少しだけ強くした。
「話さないと……眠れなくて……」
声は震えて布団にこもり、そうやって洩れだした感情が驚いて逃げてしまわぬようジッと堪えて待つ。
「あ、あのね? 桜ね? 将来、映画にでたいの」
やがてその話は、苦しそうな声とともに、こっそりと布団のなかに生み落とされた。
「わかった。女優になりたいってことだよな?」
なるべく柔らかな声で返すと、無言で桜はもぞもぞと動き、綺麗に整った顔を布団からだす。
「怒らないの?」
間近に迫る桜の顔。闇の中でも輝きを宿す青い瞳が不安に揺れていた。その不安を否定するためだけに小さく首を振る。
「なんで怒るんだよ」
「その……お、お父さんとか、お母さんと同じ仕事だから……」
「関係ない。桜がやりたいんだろ?」
「……う、うん」
自信のない小さな頷き。
実は、桜が映画の演技を見ているという言葉を聞いたときからなんとなく予想はしていた。
「なら、目指そう。場所は日本なのか? それとも向こう?」
「……向こう」
「英語は覚えてるか?」
「聞くのはわかるけど、話すのは自信ない」
「まぁ、思い出すだろ。もともと母国語は向こうなんだし」
それから、もう話は終わったとばかりに、そっと桜を抱き寄せた。
「母さんに連絡取ってみる」
「うん」
「それと、親父の実家にも一度行くことになる」
「……んっ」
「いろいろあるだろうが、絶対大丈夫だから」
「……ッ」
最後の桜の頷きは、あまりにもか細くて動きだけしかわからなかった。
だからもう、俺は何かを言うのをやめた。
実際問題、桜が口にしたことが実現するのかは分からない。要は、ハリウッド女優になりたいということだ。
それがどれほど難しいことなのかは、俺にだってわかる。
ただ、それ以上に……桜が、桜自身の将来を見据えているという事実がとてつもなく嬉しかった。
桜の思い描く未来には、桜が生きているのだという事実が苦しいほどに嬉しかった。
閉じたまぶたの隙間から熱い涙が溢れた。
それが伝染してしまったのか、腕のなかの桜も声を殺して泣いていた。
俺たちは、とても長い夜を旅してきたような気がする。
守りたいものを守るため、お互いに間違えた手段を取った。
それは大事なものを取りこぼしたが、考えることすらおぞましい最悪だけは回避した。
やがて泣き疲れたのか、規則的な寝息が腕のなかから聞こえてくる。
それを乱さないよう、俺もそっと眠りについた。
桜が話そうと思ったキッカケはおそらく、京ヶ峰との会話かもしれない。
いや、もしかしたら万願寺との会話にあったのかもしれない。
それ以外にもいくつか考えられるが……、一つハッキリしているのは、家に他人を呼ぶようになった後だろう、ということ。
俺は、認めざるを得なかった。
胡兆の言い分は間違えてなかったのだ、と。
だから、彼女には感謝しなければならない。
と同時に……彼女には、問わなければならないことも一つあった。




