35話 正義の手段
「はぁ? いきなりなに言ってるわけ……?」
京ヶ峰の高圧的な態度に、容疑者である女子生徒は大げさなリアクションで返す。
それは怒っているというより、「意味がわからない」とでも言うような困惑。
「書いた覚えくらいあるでしょう?」
それから京ヶ峰は、机の上に一冊のノートを追加で置く。
「これ、私が出したノート……」
「その紙に書かれた暴言とあなたの筆跡は、とても酷似しているのよ」
「……」
「どこがどう似てるのかまで教えてあげましょうか?」
優しく丁寧な口調。だが、彼女が今していることを考えれば悪魔にすら見えてくる。
「そ、そんなの! 学校内を探せば筆跡が似てる人なんていくらでも――」
「いるでしょうね? だから、全校生徒のノートを調べたの」
「全校……生徒?」
告げた真実に彼女は愕然。
それはそうだろう。全校生徒のノートを一つずつ調べるなんてのは並の所業じゃない。それを京ヶ峰は当初、俺と二人だけでやろうとしていたのだからトチ狂っている。
だが、京ヶ峰はやり遂げた。
そして、そんな努力の消去法によって浮かび上がった結論を、今や彼女に叩きつけている。
女子生徒の目は、見るからに泳いでいた。
その様子は、「自分が犯人だ」と自白しているようでもあった。
だから、俺はてっきり彼女の独白が始まるのだと思っていた。
それを書いた理由を話し出すのだろうと思っていた。
もちろん、どんな理由があったにせよ、人を傷つけていいはずがない。
そんな分かりきった正義が京ヶ峰に在ったからこそ、これから粛清が始まると思ったのだ。
「――あのさ。すこし、良いかな?」
だが、目に見えた結末は、二人の間に割り込んだ一人の男子生徒によって阻止されてしまう。
「この筆跡を調べたのって専門家なのかい?」
その瞬間、俺はそいつが誰なのかを直感的に理解した。
それは、河川敷で絡んできた悪漢の一人と似ていたからだ。
「……あなたは?」
邪魔をされ、怪訝そうに聞いた京ヶ峰の質問に、彼は柔らかな笑みを浮かべた。
チラリと見えた高校生らしくない片耳ピアスは、何故か彼の柔和な雰囲気とマッチしていて、それはもはや、彼らしさと言い表して遜色ない。
「自己紹介がまだだったよね。僕は財前宗介。一応、このクラスのリーダーなんだ」
彼を『爽やかなイケメン』という言葉で形容するには、どこか魅惑的な要素があった。
いや、二人の間に入ってきた時点で、彼が純粋な疑問の解明だけを目的としているわけじゃないのは一目瞭然。
だからこそ、その行動の裏にある意図が怪しく見えてしまう。
「……そう。さっきの質問だけれど、答えはノーよ。調べたのは専門家ではないわ」
「そうなんだ?」
変わらぬ笑みと爽やかな声。そこから弾きだされる彼の感情には、なんの悪意も感じられない。
「じゃあ、それって君の探偵ごっこなんだ?」
彼はなおもそう言って笑った。その言葉に秘められた残酷さが、一体どれほどのものかも素知らぬ愛嬌で。
その瞬間、俺は何かが崩れる音を聞いた気がした。
たぶん幻聴。
だが、彼の一言によって、この場を支配していた空気が変わったことを誰もが感じたはず。
探偵ごっこ。
そう言い表したことで、京ヶ峰の高圧的な態度は幼稚で未熟なものへと変わり、努力によって導き出された証拠は暇人のお遊びへと変わった。
「探偵ごっこじゃないわ」
「でも、君は筆跡鑑定を専門家に頼んだわけじゃないんだよね? なら、そう言われても仕方ないと思うんだけど」
「全校生徒のノートを全て調べたうえで、彼女の筆跡が最も近いと判断したのだけれど?」
「それは君だけの推理じゃないのかい? そもそも誰かが彼女の筆跡を真似たとは考えなかった?」
「なぜそんなことをする必要があるのかしら」
「僕に言われても。ただ、全校生徒のノートを全て調べたとしても、君が犯人を断定できる立場じゃないのは理解できるよね」
「……」
もはや、それを書いた犯人がその女子生徒であるかどうかなんてのは取るに足らない些事。
取るに足らない真実など、究明する価値すらない。
まるで、そんな結論が漂う雰囲気の中で、彼は机に置かれた紙を京ヶ峰へと差しだす。
「悪いんだけどさ、僕らは君たちの探偵ごっこに付き合っている暇はないんだ。大人しく元のクラスに戻ってくれないかな?」
控えめで申し訳無さそうな笑みから告げられた鋭利な刃。それに京ヶ峰は言葉を失う。
京ヶ峰だけじゃない。一緒にいる万願寺とてそれは同様。ただ、彼女の場合は財前ではなく、京ヶ峰を見つめている。
きっと、誰もが財前を見ていただろう。その中で、俺と万願寺だけが、立ち尽くす京ヶ峰を見ていた。
京ヶ峰は、少しうつむいて放心していた。
「そんな言い方ッ……!」
だから、堪えきれなくなった万願寺が京ヶ峰へと駆けて、だらりと下がった彼女の腕へと触れる。
「その筆跡を突き止めるために、うちらがどれだけ頑張ったか知りもしないくせに!」
それにハッと我に返った京ヶ峰は、目の前の財前を見据え直す。
「ごめんね? でも、それって相談箱に入ってたものなんだよね? 書いた人をわざわざ特定する必要あるかい?」
それでも彼は、人当たりの良い雰囲気を崩すことなくそう言った。
「確かに書かれてある内容は酷いけどさ、これってただの愚痴みたいなものじゃないかな? こういうことってどこにでもあるから、いちいち構わないほうがいいよ」
そして、彼は助言を付け加えたのだ。
そこには「君たちのため」という意図が滲んでいて、あたかも優しく差し伸べた親切にすら思える。
もし、それを受け入れなければ、彼女たちは「差し伸べた手を振り払った不届き者」に見えてしまうだろう。
「それでも……私は深く傷ついたわ。無視することなんてできない」
顔をあげた京ヶ峰の反論。寄り添う万願寺もそれに頷く。
だが、
「じゃあ、これを他のクラスリーダーにも見せて注意喚起するように言っておくよ」
それはするりと躱されてしまう。
「それなら、君たちがここで犯人探しするよりもずっと効果があると思うんだ。どうかな?」
なおも浮かべられる柔らかな笑み。そして、より効果があると思える提案。
もちろん、京ヶ峰がしたかったのはそういうことではない。
しかし、彼が言った提案の前では、京ヶ峰の粛清はあまりに悪手に思えてしまう。
まぁ、改めて考え直さずとも、これは最初から悪手ではあった。
泥臭くやり遂げた筆跡鑑定が、ただの高校生による独善であることも初めからわかっていたこと。
だが、それを理解してなお、俺たちは進み続けたのだ。
何故か。
「――ちょっといいか?」
やはり、そこに書かれてあった事を容認できなかったからだ。
たとえ、『価値なし』と呼ばれる六組に所属していたとしても、それは退学を望まれるほどの悪じゃない。
自分とは違う誰かからの評価を得られなかっただけだ。
それをまるで、排除すべきもののように言われるのは違う。
そして、それを俺たち自身が肯定すべきじゃない。
「……なんだい?」
財前は、手を挙げた俺に視線をよこした。それはやはり柔らかな視線。
おそらく彼も、俺たちをぞんざいに扱いたいわけじゃないのだろう。
クラスリーダーとして、この場を収めたいだけ。
クラス内で問題が起こるのは面倒だから。
その前に穏便に済ませようと考えているだけだ。
なら、犯人特定はせず、今後そんな誹謗中傷を書かれないようにし、且つ、彼の提案よりも効果のある事をここでやってしまうしかない。
「確かに、筆跡鑑定は俺たちだけでやったものだから証拠能力に欠ける。そこに書かれてある内容がスルーすべき些細なことであることも否定はしない」
だから、俺も努めて柔らかな視線と口調で説明する。
説明しながら、この渦中の中心へと歩みを進めた。
たとえ彼の言うとおりに注意喚起をしたもらったところで、俺たちに対する認識が変わるわけじゃない。
むしろその逆。
撤退すればなめられるだろう。
そして、その心根はさらなる悲劇を生むはずだ。
そのことを俺は思い知らされた。
――お兄ちゃん……もう、喧嘩しないで。
それは、意識を朦朧とさせたまま口にした桜の悲痛な懇願。
――じゃないと……仕返ししてくるから。
終わったと思っていた事は、俺の知らないところで卑劣な復讐を生んでいた。
確かに、俺が喧嘩をしていなければ、桜が復讐に晒されることはなかっただろう。
暴力による解決に頼らなければ、桜が傷つくことはなかったに違いない。
だから、桜は必死で俺を止めようとした。
だが、それは間違い。
「クラスリーダーであるお前が注意喚起をしたほうが効果はあるだろうな。だから……その中に俺からの伝言を一つ付け加えてくれないか?」
笑顔のまま提案を受け入れたことに、財前は幾分か安堵した様子だった。
「ありがとう。それで、何を付け加えればいいのかな?」
それに俺は笑顔のまま軽く拳を握る。
「伏せろよ?」
そんな動きと言動が理解できなかったのか、財前は笑顔のまま疑問符。
喧嘩をしなければ悲劇を防げたなんてのは、可能性の一つでしかない。
そもそも俺が喧嘩をしたのは、桜が掲げた正義を成すための手段だったから。
そして、その正義によって救われた奴はいた。
桜の行動は何一つ間違えていなかった。
間違えたのは俺のほう。
俺は――たかが喧嘩だと、手加減をしすぎていたのだ。
その場でゆるく弾んだステップ。
直後、前へと踏み出した片足。
拳は照準を合わせるように固定砲台。
全身の弛んだ筋肉が弓引くように張り詰めた瞬間、
「なッッ!?」
俺は目の前の窓ガラスに向かって、思い切り拳をねじ込んだ。
「きゃああああ!」
直前に気づいた周囲の女子生徒が悲鳴をあげ、カシャーンという甲高い音が教室内に響き渡る。
誰もが目を瞑ってその場で屈み、割れるガラスの被害から身を守った。
それは財前も同じで、目を瞑ったまま視界を腕で覆う。
やがて、辺りに静けさが戻り、彼はゆっくり腕を下ろす。
「……」
数秒ぶりの彼の顔には、もはや爽やかな笑みはなし。
そして、目を見開いたまま俺を凝視していた。
そんな彼に、俺はやはり笑顔で告げる。
「人を傷つけるつもりがあるのなら、それ相応の覚悟を持てよ? って」
「……」
腕を滴る真っ赤な血。
教室には、その血がポタポタと床に落ちる音だけが聞こえていた。
俺は、相手が復讐する気も起きないほど徹底的にやらなければならなかった。
それをしたらどうなるのかを、教えなければならなかった。
相手はまだ、いろんなことを理解した大人じゃなかったのだから、改心なんて期待するべきじゃなかったのだ。
書くまでもないことですが念の為。
※良い子じゃなくても真似しないでください。




