28話 筆跡鑑定
「別に期待なんかしちゃいなかったが……犯人捜しかよ」
思わず洩れた愚痴に、目の前にいる京ヶ峰は吹き出すように笑った。
「あら。期待って、何を期待していたのかしら? もしかしてデートか何かだとでも思ったの? だとしたら、ごめんなさい。あなたの気持ちには応えられないわ」
「黙れ」
放課後、京ヶ峰が俺を誘った理由は、生徒会に宛てられた六組への誹謗中傷の犯人を捜すためだった。
手がかりとなる全校生徒のノートを職員室へと取りに行き、その一部を持ってやってきたのは近くにある喫茶店。
「というか、なんで俺だけなんだ」
「問題解決部が発足されていたなら、活動を名目に皆の力を借りれたけれど、そうではないから」
「それ、答えになってないぞ?」
「あなたは問題解決部を発足したがっていたから、やる気があると見込んだのよ」
「それで拍手したわけじゃなかったんだがなぁ」
卓の上に積まれた膨大なノートたち。それでも、全て持ってくるのは無理だったため、ここにあるのはほんの一部。
そして、彼女は一枚の紙を俺に差し出してくる。それは、書かれていた文章を拡大したもの。その文字一つ一つの特徴的な部分を横に書きだしてあった。
「私なりに文字の分析をしておいたから、ノートから同じ特徴の文字を見つけて」
「これどれくらいかかるんだ?」
「どれほどかかっても必ず犯人を見つけだすわ」
「まじかよ……」
彼女の執念に絶望。
とはいえ、やらなければ帰してもらえなさそうであるため、なくなく一冊目のノートを手に取る。
それは、ノート一冊をくまなく見て文字を照合していく大変な作業。
始めた数分でわかった。
あっ……これめちゃくちゃ時間かかるやつだ。
それでも、筆跡鑑定は間違い探しみたいで面白い部分もあり、黙々と作業に没頭していく。聞こえるのは紙をめくる音と、喉を潤すために頼んだ飲み物のコップを、卓にコトリと置く音だけ。
俺と京ヶ峰は、ひたすら誰かが書いた文字だけを何度も何度も見ていた。
「――そういえば」
それは、ふと京ヶ峰が呟いた話の切り出し。
「あのとき、私が出ていった理由は聞かないのね」
内容はたぶん、予算折衝のことだろう。
「聞いたほうが良かったか?」
彼女は見ず、文字だけを見ながら聞き返す。
彼女も俺を見ることはない。
「いいえ。ただ……お礼は言いたかったの」
「お礼?」
「ええ。「負けても良い」なんて言ってくれたの……最円くんが初めてだったから。ありがとう」
「……」
目の前にいるのが京ヶ峰なのか疑わしくなってチラリと視線を向ける。
だが、そこにいるのは確かに京ヶ峰本人。
「まるで……勝つことしか許されないような世界で生きてきたんだな」
「兄が優秀だったから。私と違って」
その返答には、言葉の意味とは裏腹に卑屈さは感じられなかった。淡々と、それがさも真実であるかのごとく説明された。
「特待で大学に入ったって言ってたな? 凄い兄ちゃんだ」
「そうね。誰にでもできることじゃないわ」
「今は何してるんだ?」
筆跡鑑定をしながら行われる世間話は、そこでリズムが途切れる。
彼女は、その質問に答えようとしなかった。
やがて、随分と長いこと黙っていた京ヶ峰は、コップの中の氷がカランと音をたてた辺りで重い口を開く。
「引きこもりよ」
きっと、それが俺じゃなく別の誰かだったなら反応に困っていたかもしれない。
いや、実際には、予想外の返答に一瞬の戸惑いはあった。
だが、俺には桜がいる。
俺なんかよりもずっと優秀でありながら、学校に行くことをやめ、社会と呼ばれる世界から断絶した妹がいた。
だから、その戸惑いは、俺が自覚するよりも先に冷めた。
「そうか。また昔みたいに暮らせるといいな」
途切れた会話が続けられることはなく、中途半端なまま終わった。
それを無理やり再開させようとは、俺も彼女も思わなかったに違いない。
その後も黙々と作業をしたが、進捗はノート数冊分しか進まず、午後六時を過ぎた時点で終わることにした。
「明日も頼めるかしら?」
喫茶店を出ると辺りはすでに暗くなっていて、照らされる店の明かりのなかで京ヶ峰はそう言った。
「毎日やるのか?」
「そのつもりよ」
「……わかった」
渋々感満載で承諾する。ため息だけはなんとか我慢した。
「それじゃ」
だが、そんなことは気にもとめずに微笑む京ヶ峰。まるで、嫌がる俺をみて楽しんでいるようですらあった。
「……あぁ」
そうして背を向けた彼女は、堂々と人混みの中へと紛れていく。
やはり、その姿にはどこにも卑屈さや劣等感は感じられなかった。
それを強さだと言うのなら、やはり京ヶ峰は強いのだろう。
ただ、それは「強く在ろう」としているだけなのかもしれない。
俺は、そういう人間を知っている。
悲しむ家族を見たくなくて、失われた英雄に成り代わろうとした人間を知っている。
その虚像が、確かに誰かを救っていたことも……。
後悔なんて腐るほどあった。
それでも、俺なんかでは到底成し遂げることのできない奇跡のような英雄譚があったことも事実。
だから……、俺はその偉業を褒め称えるだけしかできなかったのだ。
 




