21B話 感情のブレーカーを落とす【万願寺視点】
「――アベック登校させるために教えたわけじゃないぞ? 万願寺」
教室に入り、与那国先生からそう言われた瞬間、私は他人に対する感情のブレーカーを落とした。
こうすることで、私は精神的に無敵になれた。
罵倒されても何を言われても、私の心には響かない。
それどころか、先生の説教はまるで他人事のように聞こえてくる。
反省してないわけじゃない。最円くんと一緒に遅刻してきたことは悪いことだと理解している。
それでも、私がそうしたかったんだ。
彼の居間に置かれた本棚。そこに並べられてあった大量の問題集。それをすべて解くのに、桜ちゃんはどれほどの時間を使ったんだろう? そして、その時間すべてが、桜ちゃんがたった一人で過ごしてきた時間の証でもあるんだろう。
桜ちゃんの事情は、最円くんから聞いたことしか知らない。
その一瞬一瞬を一緒に過ごしてきたわけじゃないから。
ただ、あの膨大な問題集を見て、「偉いね」で済ませられるほど私は器用になんてなれない。
それを一冊一冊丁寧に並べている最円くんを知って、「遅刻しないことを優先するべき」なんて言えない。
それは、私が企んだ意図とかけ離れていることくらい気づいてた。
そして、私が企んだ意図なんて、彼らが大切にしている関係に比べればあまりに矮小で醜いことにも気づいてしまった。
だから、私は怒られることを覚悟した。
それでも、私はそうするべきだと思ったんだ。
「反省してないな?」
そんな私の態度に気づいたのか、先生が鋭い口調で言った。
それでも私には響かない。
私はいつからか、こうして感情のブレーカーを手動で落とすことができるようになった。
状態的には、精神医学上禁忌とされたロボトミー手術と似てる気がする。
凶暴な性格や不安定な情緒を無理やり大人しくさせるために行われた、脳の一部を物理的に切除する禁忌の医術。
それをどこかの本で読んだときに、なんとなく自分みたいだなと感じた。もちろん、そんな手術を受けた経験なんてない。
ただ、仕組み的にはきっと一緒なんだろうなと思う。
私は、他人に対してネガティブにならないよう興味や関心といった感情のブレーカーを手動で落とすことができる。
落とした瞬間、私以外の人間に対する興味が途端に失われる。
主観において、私は私だけの存在しか感じられない。
だから、存在感ゼロの有象無象から何を言われても何も感じない。
先生がうちに対して「反省してない」と言ったのは、きっと私が自信満々に見えるからなんだろうな?
でも、それは自信があるわけじゃなくて、主観において自分の存在しかないから、自信があるように見えるだけの話。
「聞いているのか?」
「はい」
聞いてはいる。けど、興味がないから頭に入ってこないだけの話。
私は無理やり意識を改造することで、傷つくことのない無敵の精神を手に入れた。
これによって私は怒ることがなくなったし悲しむこともなくなった。
けど、……同時に嬉しくなることもなくなった気がする。
感情は喜怒哀楽というけど、たぶんすべてセットになっていたんだと思う。
感情のブレーカーを落とすなんて、できるようになっちゃいけないことだった。
私が心を守るために手に入れた手段は……私自身の人間性を下げるものだったんだ。
だから、私がその手段を実行するとき、自分が如何に人として欠いた存在なのかを痛感する。
結局、先生の説教は私に諦めを伴って終わった。
そんな先生に私は申し訳なくなる。
ごめんなさい。先生は熱心に言ってくれたのに。
「大丈夫か? かなり先生怒ってたが」
心配してくれたのか、先生が教室を出ていったあとで最円くんが話しかけてくれた。
それに私は「平気だ」と笑うしかない。本当に平気だったから。
「すごいよね。誰かのためにあんなに怒れるなんてさ。きっと私には無理だ」
そして、私は自分の異常性にも笑うしかない。
それでも心配そうに見てくる最円くんは、人として眩しく映る。
そんな彼のために、私はできる事をしてあげたいと思う。
そのためなら、私は自分の人間性を落としても構わないとも思った。
この考え方すらきっと悪いことなんだろう。
それでも、今の私は喜びのほうが勝っていた。
そんなことを本気で思えるような人と出会えたこと自体に感動していたから。
「あんなに怒らせて悪いことしちゃった。先生大丈夫かな」
私は、それを異常だと自覚してなお、手放せずにいる。




