18.5話 きっと誰にも【万願寺視点】
お風呂からあがったあとなのに、最円くんに握られた手の体温が、まだ微かに残っている気がした。
もちろんそんなのはあり得なくて、気持ちの悪い妄想に過ぎないとわかってる。
人混みが苦手で通った暗い裏道。
そこで男二人にしつこく付きまとわれた恐怖。
相手に諦めさせようと必死で宗教勧誘しても彼らは飄々としていて、逃げることすらできずに立ち尽くした。
……前から、由利に言われてはいたのだ。「あまり人がいないところ通ったら危ないよ」って。
それでも私は人混みが苦手だ。
というか、たぶん……人が苦手なのかな?
人は平気で嘘を吐く。まるで、それが呼吸法だとでも言うみたいに嘘を吐く。
それが一人ならまだ良かった。
でも、人がたくさん集まるとその嘘は義務みたいな圧に変わる。「みんなそうだから」「みんなやってるから」、そんな理由を平気で言って、みんな義務を果たし始める。
その変化についていけずに取り残されたとき、私は彼らにどうしようもない嫌悪感を抱いた。
彼じゃなく、彼ら。
それはフェロモンとでもいうのか、ひとりだと何も感じないのに、人は群れると汗とは違う変な臭いを発する気がした。
たぶん、それも妄想なんだろう。
それでも、いつしか私はその臭いに耐えきれなくなって距離を置いた。
そして、そうやって距離を置いたら、人にすら嫌悪感を抱くようになっていた。
私は人を気持ち悪いと感じてしまう。
そして、そんな感情を抱いてしまう私はきっと、生まれてくるべきじゃなかったんだと思う。
それが普通だから。みんなやってることだから。
それが、この世界における呼吸法だから――。
だから、そんな出来損ないの私に天罰がくだったのかと思った。
目の前で逃げ道を塞ぐ男二人に、嫌悪感以上の恐怖が湧き上がった。
そんな弱さを看過されてしまったら、もうどうしようもなくなる気がして、私はただ震えを抑えることしかできなかった。
――ピッ。
そんな時に聞こえた電子音。見れば、そこにいたのはスマホをこちらに向けるクラスメイトの男の子。
彼は生意気な態度で彼らを挑発して、あっという間に倒してしまう。
――万願寺!
そうして名前を呼ばれた瞬間、私はまるで、水面から顔をだしたときみたいな……肺に新鮮な空気が入ってきた衝撃に駆られたんだ。
たぶん、それも私がつくりだした妄想にすぎない。
それでも、その妄想だけはこれまでと違った。
途端に視界が広くなって、お祭りを彩る喧騒に鮮やかな色がついたように視えた。
手をひかれて走る息苦しさも、強く引っ張る彼の手も、すべてが愛すべき現実であるように思えた。
もちろん、妄想。
それをそのまま話したりなんかしたら、きっとひかれるだろう。
私がこの世界で感じてきたものは、これまで出会ったどの人たちにも当てはまっていなかったから。
だから、それを話すことなんかできなくて、それでも衝撃は抑えられなくて、私は彼にお礼を言うタイミングすらも失ってしまう。
それでも、彼は私に問い詰めたりなんかしなかった。
それどころか、彼は自分や妹の事を話し始めた。
怒りたいことはあったはずなのに、疑問に思うこととかあったはずなのに、彼はそれをせずに自分のことを話し始めた。
もしかしたら、私が何も話したくないことを察していたのかもしれない。だって、何も聞いてこないのは逆に不自然だったから。
それがありがたくて、つい甘えてしまった。
「はぁ……」
ため息と同時に全身の力を抜いてベッドにダイヴ。
ボフッと布団に顔が沈んで息が苦しくなってきて、首を横に向けてプハッと呼吸。
「最円くんは……なんで追放されちゃったんだろ?」
理由は本人から聞いてはいたけど、それでも彼が追放されるような人間には見えなかった。
むしろ……。
気になりだしたら、そればかりが頭の中を渦巻く。
そんな疑問とともに、自分を助けてくれた彼が評価されていない事実に、また息が苦しくなってくる。
「なにか、できないかな……」
呟いたあとで、ふと思いだした。
それは、最円くんが遅刻常習犯だという事実。
彼がなぜ評価されなかったのかはわからない。でも、今評価されていない原因を取り除くことはできるかもしれない。
そんな考えに至った私はベッドから跳ね起きた。
それは何でもないような思いつきだったはずなのに、まるで新発明をしたかのようなドキドキに胸を高鳴らせている。
やがてその思いつきは頭の中で、現実化するための様々なアイデアを出し始めた。
たぶん、助けてくれたお礼をしたかったんだと思う。
そして、この世界で自分にもできることが見つかったような気がして、興奮したんだと思う。
この高揚すらも、きっと誰にも共感なんてしてもらえなくて、妄想で片付けるしかないんだろう。
それでも、私はやりたいと思った。
その日、私は初めて呼吸の仕方を覚えられたような気がしたんだ。




