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ハッピーエンドじゃないと出られない教室  作者: ナヤカ
一章 最円桜は願いを口にする
33/145

33話 桜の願い

――協力してほしいことがあるんだけど。


 優がそんなことをお願いしてきたのは、自ら追放されることを願った以来のことだった。


 それは、最円薫をできるだけ長く引き止めておいて欲しいというもの。


 その間で、彼の妹に六組のことを話し、彼が今後遅刻することがないよう協力してもらう……というのが優の作戦。


 なぜ、優があの男に執着するのか最初はわからなかった。


 でも、彼と言葉を交わすたび、その疑問は自然と解けていった。


 彼が起こした事件の真相。

 誰かのために傲慢になれる性格。


 なにより、嘘を言わない誠実さが優を惹きつけたんだろう。


「……痛っ」


 屋上でひとり座り込み、掴まれていた腕を擦ると少し痛みがはしる。


 本気で腕を折るつもりだったんだろうか?


 その時の彼の目を思い返すと、首筋を冷たいものが流れる。


 それは……ある意味では狂気とも取れた。


『私さ、まだ六組に居たいんだ』


 二組に戻す話をしたとき、優から笑顔で言われた言葉。


 そこにはなんの後ろめたさも感じられず、むしろ心から願う切実さがあった。


 理由なんて聞かなくたってわかる。


 優は六組に残りたいわけじゃなく、今の六組に残りたい理由を見出しただけ。


 そのための作戦に、優は「協力して欲しい」とお願いしてきただけ。


 親友である私が聞き入れないわけがなかった。


 それは、優が初めて他人に関わろうとする変化だったから。


 でも、


「意外と茨の道かもね……」


 ポツリと出した言葉は、夕暮れの屋上で静かに霧散した。



 * * *



 殴られた時にも思ったことだが、俺はどうやら、備えというものをことごとく疎かにしているらしい。


 自宅までの道のり。


 それは徒歩十五分程度の短い距離にも関わらず、全力で走り抜けるにはあまりに長い。


 体力の問題だけじゃなく、今の俺には加速するための体感すらゼロに近かった。


 肺の痛みと引き換えにして全速力で走っても、その速度はとてつもなく遅すぎる。


「くッッ……そが!」


 悪態はそんな自分に向けたもの。


 親父に憧れていた頃のように、身体を動かしていたらこんなことにはならなかったはずだ。


 だが、その憧れでは家族一人さえ幸せにはできないのだと悟った俺に、どうしてスタントマンを目指すためだけのトレーニングを続けられただろう?


 たしかに、親父の死は、俺たち家族に莫大な金を与えた。

 それは、親父が価値ある人として認められていたからかもしれない。


 それでも……生きた先にある幸せには到底及ばない。


 その道を踏み外した代償はあまりにも高くついた。


 それを理解してしまった俺が、幼い頃から抱いていた英雄を捨てたことに今も後悔はない。


 即ち、きっとこれは避けては通れない事だったのかもしれない。


「はぁ……はぁ……」


 ようやく着いた自宅マンション。その道中に万願寺の姿はなかった。


 急いでセキュリティロックを解除し、エレベーターであがる。


 見慣れた建物内を駆け、自室のドアを開けて居間に入ると、


「……最円くん」


 そこには万願寺と、


「お、お兄ちゃん……」


 今にも泣き出しそうな顔をする桜が立っていた。


「……はぁ……はぁ」


 見れば、万願寺は複雑な表情で俺を見ていて、焦ることも慌てることすらしないその態度から、来るのが遅かったのだと判断する。


「話したのか?」


 呼吸をすることに必死な肺を落ち着かせるため、空気を無理やり飲み込んで問いかけると、やはり、彼女は小さく頷いた。


 桜は立ち尽くしたまま唖然としていた。


 目は見開き、ダラリと下がった腕の先では、手のひらが何かに怯えるように縮こまり服をギュッと握りしめている。


「あ……あっ」


 何か言おうと口を開き、出てくるのは意味もない音だけ。


「ご、ごめんなさい」


 それが言葉という形を成して吐かれたときには、丸い瞳からポロポロと涙が溢れていた。


 普通なら、万願寺に対して怒りを向けるべきだったのかもしれない。


 何も知らないくせに、頼んでもいないのに、くだらないお節介で桜を不用意に傷つけた。


 そのことに短絡的な怒りをぶつけて良かったのかもしれない。


「……おぇ」


 だが、そんな暇すら与えずに桜がその場で嘔吐してしまった。


「桜ちゃん!?」

「いい。俺がするから」


 驚いて駆け寄ろうとした万願寺を止めて、嘔吐する桜を抱きしめる。

 そのまま背中を擦ってやると、温かいものが制服を伝って汚した。


「ぅあっ……」

「良いから全部吐け」


 最初は抵抗していた桜だったが、そう言葉をかけると我慢していた物を一気に嘔吐し始める。


 別に、こんなことは初めてじゃなかった。


「万願寺、悪いが浴室に行って温かいシャワーの準備を頼む」


「う、うん。わかった」


 その後、吐き終えた桜を抱いて椅子に座らせてやる。


 泣き腫らした目は赤くなっていた。


「桜。万願寺が何を言ったのか知らないが、俺にとって桜は人生の全てをつぎ込んだって惜しくない存在だ。桜は俺にとってそれほどに価値がある」


 言ってみてから、ふと思う。


 それは、奇しくも価値残りシステムと同じかもしれない、と。


 自分にとって価値ある者に一票を投じる。それは、ある種投資にも似ていた。


 俺が桜のために金を惜しまないのは、桜が価値ある人間だからだ。

 遅刻してでも朝の時間を大事にしたいと思うのも、桜が価値ある人間だから。


 価値ある者に自分の財産を注ぎ込むことに、なにもおかしなことはない。

 

「俺に罪悪感なんて覚える必要はない。感謝する必要すらない。俺は既に桜からたくさんのものを貰ってる。ただ、それを返してるだけだ」


 伝わったかはわからなかったが、伝わらなくても良いと思った。


 その気持ちを桜に押し付けるつもりはなかったから。


 そうしていると、万願寺が戻ってくる。俺は再び桜を抱きかかえると、浴室へと向かった。


「着替えさせるんだよね? 私やるよ」


 万願寺の申し出に一瞬戸惑ったが、やるべきことがまだあったため任せることにする。


「着替持ってくる」


 桜の新しい服の用意と病院へ連絡。万願寺が桜を着替えさせている間に居間の掃除。それから自分も着替えて病院までのタクシーを呼ぶ。


「私もいく」


「いや、念の為病院に行くだけだから」


 付いてくると言った万願寺を断ったのだが、罪悪感でもあるのか彼女は頑なに意見を変えようとはしなかった。


 結局、万願寺も乗せて病院に行くことになった。

 そして、病院で下された診断結果は一時的なストレスによるもの。


 処置は、点滴を打つだけで済んだ。


「――ごめん」


 待合室にいるとき万願寺がそう言ったが、彼女への怒りはとっくに冷めていた。


 というより、彼女を責める事自体が間違っている。


 俺は彼女が勝手に起こしたお節介を咎めることはできない。


 それは、俺自身が掲げた事を否定することになるからだ。


「いつかは、こうなってたんだろうな」


 だから、謝る必要はないのだと遠回しに告げる。


「先生にも言われた。元を辿れば追放された俺が悪いって」


「そんなこと……」


「あぁ。俺も自分が悪いだなんて思ってない。ずる賢く人脈をつくる時間も、好成績を取るための時間も、俺は桜に費やしたからな? そのことに後悔はないんだ」


 チラリと見れば、行き場を失った万願寺はうつむいていた。


「話してしまったものは仕方ない。だが、それでも俺は、今の生活を変えるつもりもない」


 人は「たかが家を早く出るくらい……」とのたまうだろう。

 誰もが「簡単な話じゃないの?」と首を傾げるかもしれない。


 だが、俺にとってそれは簡単な話じゃない。


 当たり前のように思っていたことが、ほんの些細なことで壊れてしまうことを俺は知っている。


 そして、それ以上の最悪・・にならなくて良かったと心から思う。


「桜が無理できるような奴じゃなくて良かった。これくらいの事で済んで良かった」


 よくある学校での酸鼻さんびなニュースをテレビで見るたびに俺はゾッとした。


 そこに流れている事件が、もしも桜だったらと考えてしまうからだ。


「お前は自分がやりたいことをやっただけだ。だから、俺も俺がやりたいようにやる」


 返答はなかった。だが、返ってそれは助かった。


 それ以上何かを言われたところで、俺の意志が変わることなどないのだから。


 静かな時間だけが流れ、やがて看護師から名前を呼ばれる。


 それに従うと、病室から点滴を終えた桜がでてきた。


「気分はどうだ?」


 聞くと、桜は「いひひっ」と笑う。それが作り笑いなのかどうかはわからないが、少なくともいつもの桜だった。


「帰ろう」


 そう言って手を引こうとしたら、桜の表情は途端に曇り、その場を動こうとしない。


「どうした……?」


「あ、あのね? あのね?」


 顔をあげた桜は、何度も何度も「あのね」と唱えた。


 必死に口を動かして、まるで訴えかけるように何度も何度も。


 そのうちに、桜の瞳にはまた涙が滲んできて、せっかく綺麗にしたのに再びポロポロと泣き出す。


「桜、もういいんだ。帰ろう」


 それが見てられなくて抱きしめると、胸の中で小さく「違う」と桜は言った。


「あ、あのね。お、お兄ちゃんにね? はやくね、学校にね、行ってほしい……」


 泣いているからか、息と言葉を詰まらせながらそう言う桜。

 

「……桜。俺は好きでやってるから、お前が気にすることはないんだ」


「ちっ、違う。桜ね、大丈夫だよ? お兄ちゃんがやってくれてることね? 全部わかるから」


 涙だけじゃなく、鼻からも液体をだしながら、それでも必死に口を動かして桜は声を絞りだした。


「朝ね? 居なくても大丈夫だよ? お兄ちゃんがやってくれてることね、全部わかるから」


 やがて、桜は何度もしゃくり上げながら、


「桜ね? お兄ちゃんが幸せじゃないと嫌なんだよ?」


 最後にそう言ったのだ。



 * * *



 桜が……感情を表に出したところを初めて見た。


 いや、そういったことはこれまでにもあったのかもしれない。


 だが、切に何かを願い、言葉として形にすることはなかった。

 そこには常に、作られた笑いが添えられていた。


 病院内だからだろうか。


 雑音が遠くなり、白ばかりの背景に物物の輪郭が溶けていく。


 もしかしたら、俺の耳や目がどうかなってしまったのかもしれない。


 なのに、


「お兄ちゃんが、幸せじゃないと嫌だよ!」


 目の前で泣き喚く桜だけは、明瞭に存在している。


 ……ああ。


 俺は、桜の幸せを願っていた。


 それを「罪滅ぼし」と呼ぶのはあまりにも汚く思えた。


 償いのために尽くしているわけじゃない。

 罪悪感による義務でもない。


 俺が桜を好きだから、やっていること。


 だから……そこに見返りを求めるはずもなかった。


「……桜」


 呟いた声は思っていたよりも濡れていて、せきを切ったように訳のわからない感情が溢れ出してくる。


 俺にとって報われるとは、やはり桜が幸せになること。


 桜にとっての幸せは桜にしかわからない。


 だが、そんなことは誰でも言える戯言だ。


 誰が見ても、俺が見ても、世界中の人々が納得して祝福するような幸せでなければ、真の幸せとは呼べない。


 主観的なハッピーエンドなんぞクソ喰らえだ。


 それで家族一人幸せにできないのなら、英雄ですら片腹痛い。


 俺はそうはなりたくない。


 瞳から涙が流れそうになって顔を歪める。


 しかし、涙は巧みに意図をかわして、許可もしていないのに頬を伝った。


 桜の癇癪かんしゃくは大きくなって、止めることすらできなくなった。


 だから、せめてそれが早くおさまるよう、強く抱きしめてやることしかできなかった。


 その日、桜は一つの願いを口にした。


 桜の兄である俺が、それを聞き入れないわけにはいかないだろう。



「――またな」



 帰りのタクシーで万願寺を家まで送ると、彼女は静かに微笑んだだけだった。


 いつ泣いたのかその目は赤く腫れ、それを隠すような笑み。


 まぁ、俺も人のことは言えず、夜の薄暗さに乗じて簡単な言葉だけで別れを済ませる。


 隣では桜が寝ていた。いろいろあって疲れたのだろう。


 バタンと扉が閉まり、運転手が「出しますね」と声を発する。

 直後、開いた窓から「またね」と声がして、振り返ったときにはすでに動き出していた窓の外。


 まるで言い逃げのような挨拶に、してやられたような敗北感を覚える。


 ……いや、そうじゃないんだろう。


 結局、万願寺がやろうとしたことが叶ってしまったからこそ、そう思うのかもしれない。


 明日から俺は、遅刻しないよう登校することになった。


 それは、他でもない桜の願いだから。


 だが、そうは言っても万願寺のお節介に屈したことは紛れもない事実。


 だからきっと、負けたような感覚に陥ったのだろう。

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