18話 桜の体力づくり
ダブルデートを翌日に控えた土曜の夕方。それは、唐突に桜から切り出されたお願いだった。
「お、お兄ちゃん……外を走ってきて良い?」
「走る……? 外を?」
見れば、桜は中学生になったとき購入した学校のジャージに身を包んでいる。
残念ながら、桜は入学してすぐに不登校になってしまったためそのジャージを着る機会がなかったのだが、こんな所でその姿を拝むことになるとは思いもしなかった。
「その……体力、つけたくて」
桜なりに今後を考えての事だろう。無論ダメなんて言うはずはない。
「ま、待ってろ! 俺も着替えてくるから!!」
ただ、死ぬほど心配なだけだ。
だから、急いで俺も運動ができる服に着替えようとして、
「そ、その……ひとりで走りたくて……」
「え?」
遠回しに断られてしまった。
「ち、違うの! その、お兄ちゃんと走りたくないとかじゃなくて……ひとりでちゃんと走りたいから……い、イヒヒッ」
誤魔化すような作り笑い。その後で不安になったのか、一瞬悲しそうな顔をして、それでも口元は引きつったように歪ませたまま。
だから、そんな桜が安心できるよう、俺もできる限りの笑顔で返してやる。
「わかった。行っておいで」
「う、うん!」
……こっそり後を付ければいいか。
そう、心のなかで手段を変更しながら。
◆◆◆
これはもちろん自慢なのだが、桜は足が速い。
短距離走で周囲に敵う同級生はおらず、長距離ですら息を乱すことなく颯爽と駆け抜ける。
歳上であるはずの俺ですら競争で桜に勝ったことはない。
ただ、それは桜が不登校になる前までの話。
「――はぁ……はぁ……」
ずっと家に引きこもっていた桜の体力はいまや衰え、マンションから数百メートルしか離れていない信号待ちで、膝に手を付き息を整えている。
その息遣いは俺の脳内で勝手に再生され、遠くから見ているだけで胸が苦しくなった。
がんばれ。
その気持ちを声に出して伝えたかったが、ひっそりと呑み込んでしまうことしかできない。
やがて、桜は街中を抜けて河川敷のジョギングコースへと向かう。
そのコースは河川敷沿いで続いていて、昔に胡兆を助けたのも、つい先日財前率いるガラの悪い男たちに絡まれたのも、そして俺と桜が学校からの帰り道で通ったのもこの河川敷沿い。
景色がほぼ変わらないから、その時々の記憶がよみがえり、いつかの桜の姿と被って見える。
そんな光景を思い出していると、不意に目から涙が溢れた。
そのせいで、桜の走る後ろ姿が滲む。
それはもしかしたら、これまで家に引きこもっていた桜がこうして外に出たことへの嬉しさなのかもしれない。
桜は不登校になってから、胡兆が遊びに行こうと誘うまで「外に出たい」と言うことはなかったし、俺も無理やり外に連れ出そうとはしなかった。
むしろ、桜は居るだけで目立ってしまうから外になんて出したくなかったほど。
事実、桜とすれ違った人は物珍しそうに振り返った。
それだけはあの頃と何も変わらない。
だからこそ、余計にその頃の記憶と被って見えてしまうのかもしれない。
「……」
だが、なぜこんなにもつらい気持ちだけが残るのだろう?
俺は、自分が涙を流す理由を疑問視してしまう。
これは嬉しいことのはずなのに。
これは喜ぶべきことのはずなのに。
これは……ハッピーエンドに続くものだと信じているのに。
なのに、息も絶え絶えで走る桜を見るのがあまりにもつらい。
そんな事を考えていたら、この涙は高尚なものではないのかもしれない……と思いはじめた。
いつかの桜の栄光を比べて見てしまっているから、今の桜を見るのが辛くなっているのかもしれない、と。
人は、かつて尊敬や好意を寄せていた者が廃れた姿になることをひどく嫌がる。
それは、一度でも自分が認めた価値を否定したくないからだ。
だから、ある者たちはそれを考えなくて済むように離れていき、ある者たちは栄光を取り戻せるよう声を大にして応援の声をあげた。
たぶん、どちらが正しいとか悪いとかはないんだろう。
ただ、そういった手段があるというだけ。
俺は今の桜を見続けるのが辛いし、今すぐにでも駆け寄って「休もう」だとか「頑張れ」だとか、走る以外の方法で体力をつくる方法を提案してやりたい。
それはきっと、この河川敷を走る桜を見たくないから。
だが、それらはきっと重要ではなくて、今すべきことは……桜がやる気になってくれたことに喜ぶことなのだろう。
それでも。
「……くそっ」
胸の内からこみ上げる黒い感情が収まることはない。
桜が「女優になりたい」と言ったときはあんなにも嬉しかったのに。
桜が語った将来を、ただ純粋に応援してあげたいのに。
ワガママにも、河川敷を走る今の桜を見るのがとてもつらい。
きっと「体力をつけたい」と言ったのはフォーカスするべき点ではない。尊重すべきは「ひとりで」と言った点。
そこを頭の中で整理してから涙を拭い、自分がなんと浅ましいかを自覚する。
もし、一緒に走ってさえいたらこんな気持ちにはならなかったかもしれない。
だからこそ、何もできずこうして見守る事しかできない自分にすら嫌悪してしまうのだろう。
「はぁ……はぁ……」
夕暮れの河川敷沿いを、桜は鈍りきった体を懸命に動かして走る。
その数十メートル後ろを、俺は苦しくなる痛みに耐えながら無言で付いていった。
これからも桜はこの道を走るのだろうか……?
それを俺は見守り続けることができるだろうか……?
やめてしまおう。桜が無事に戻ってくるのをマンションでただ待っていればいいじゃないか。
そんな考えに至って足が止まる。
だが、すぐに思い直して再び走りだした。
それは嫌悪よりも心配のほうが勝ったから。
そして、かつての桜を壊した原因は、自分にもあるのだと理解していたから。
歩を進めさせたのは罪悪感。
だが、その理由を俺は「ハッピーエンドのためだ」と言い聞かせ、それ以外の考えをすべて消し去る。
残ったものが答えならば、それが答えで良いだろう。
行動するのに理由なんていらない。
それでも……行動するのに理由が必要であるのならば、都合の良い理由をつくってしまえばいい。
ハッピーエンドにご都合主義はつきものだ。
それが幸せのためだと妄信すれば、なんだって意欲的に事を進めることができた。




