君の好きなひとの噂話
それは、偶然にも聞いてしまった。
君の友達が君のいない間に、廊下でひそひそと話しているところを。
「——亜希子の好きな人って、時森くんらしいよ」
“時森”
これはとても珍しい姓だと両親から聞いた。なんでも、全国に数百人しかいないのだとか。たしかに、十七年間生きてきた今の今まで、親戚以外に時森という姓のひとを見たことが
ない。
もちろん、この小さな地方都市の隅にある県立高校にも、時森という姓をもつ生徒は僕の他にいない——
僕のことだ、と胸が高鳴ったことを痛いほど感じた。
時森の姓の希少性を検討するまでもなく、「亜希子が僕のことを好き」という情報が、僕の脳内を駆け巡っていた。
自分が好きな子が自分を好きかもしれない。
そのかすかに奇跡的な可能性に、僕は完全にのぼせていた。
僕の顔はひどかったかもしれない。
「レイ、どうしたの? 汗、すごいよ」
耳に心地よいその声は、僕の隣の席から聞こえてきた。亜希子だ。
僕は先刻聞いてしまった、君の友達の噂話を思い出しては、顔が緩むのを必死で抑えていた。だから、その異常な力みが発汗させてしまったのかもしれない。
「え、いや、そんなことはない、よ……」
窓からわずかに吹き込む秋風を必死に感じて、額の汗を乾かした。
それは、出来心でしてしまった。
私の友達にあなたがいるところで、廊下でひそひそと話させたことを。
「——亜希子の好きな人って、時森くんらしいよ」
“時森”
それはとても珍しい姓だと、初めて聞いたときに思った。どうやら、全国的にもかなり珍しい名字らしい。たしかに、十七年間人生で、レイ以外に時森なんて名字を聞いたことがない。
もちろん、田舎街の端っこにある普通の高校にも、時森なんて名字の生徒はレイだけ——
レイのことだ、と伝わってしまえばいいなと思った。
時森なんて珍しい名字はレイしかいないから、「私がレイを好き」ということに、気づいてしまえばいいなと思っていた。
私がレイを好きと知ればレイはどうするのだろう。
この淡い期待を孕んだ実験的な選択に、私は鼓動を速めていた。
私は緊張の色を隠せていなかったかもしれない。
「レイ、どうしたの? 汗、すごいよ」
焦燥を隠してかけた声には、すぐさま反応が返ってきた。
レイはさっきの会話を聞いたのか、それを気にかけているのか。レイは額に汗を滲ませていた。その汗の正体は何だろう。
「え、いや、そんなことはない、よ……」
秋の冷たい風が、レイの湿った前髪を重々しく揺らした。
僕は、うぬぼれてもいいのだろうか。
いや、あの噂話は意図的だったのかもしれないとすら思い始めている。
なぜなら、僕を“時森”と呼ぶひとはいないからだ。男女問わず、当然、君の友達も普段は僕をレイと呼ぶ。ならば、“時森”という呼び方に意義があったのかもしれない——
私は、期待してもいいのか。
たぶん、あの汗は私を意識してくれているからかもしれないと感じだした。
それは、“時森”と友達に呼んでもらったからだ。私の友達はいつもレイを下の名前で呼ぶ。だから、“時森”なんて呼ぶことには意味があると——
僕は全身から、勇気をかき集めて声をだした。
「ねぇ、今日の放課後、教室に残ってもらってもいいかな」
私は渾身の笑顔で応えた。
「うん、わかった」
肌寒いはずの秋風が、二人には少し心地よくすら感じられた。
現在、他の作品を連載していますが、昔書いた超短編小説を投稿してみました。
日常の中に、ぽんと一滴インクを垂らしたような、ほのかに色づく出来事に胸を躍らせるような恋。ありふれているけれど、当人には人生も変わってしまいそうなある日の1ページが、私にはとても美しくて尊いような気がします。