引きこもりの騎士(ナイト)。
みくりは学校に行ったことがない。
行く必要性がないと、彼女の両親がそう思っているからだ。
そして、その考え方は彼女が人と少し違っていることもその一因となっていると思う。
私とみくりの出会いは、小学1年生の私が彼女の家の隣に引っ越してきた時。
「だれ?」
初対面時、子供らしくない意思の強い様子で言われた。
この年頃なら、ふわふわして子供らしいといわれる時分。
なのに、みくりは子供なのに子供とは思えないような雰囲気を醸し出していた。
家と家を仕切っている一角で私は、隣の広大な屋敷を覗き込んでいたところをみくりに見つかった。
「あ、か、かえ―――」
その迫力に少し怯んでしまい、喉が絡まってしまう。
「かえ? どういう漢字なの?」
「かんじ?」
ひらがなすらおぼえ始めた年頃なのに漢字と聞かれて意味が分からなかった。
まだ、自分の名前すら書けなかった私。
「自分の名前、書けないの?」
「あなたは書けるの?」
「当たり前じゃん、書けないなんてバカ」
当然のように言い返された。
「じゃあ」
バカにされたように感じたので私は少し傷ついた。
さらに傷つかないように本能的に避けるため、この場を離れよう動いた。
子供でもそんなことには敏感なのだ。
「待ってよ」
去ろうとすると引き止められる。
バカにしたようなことを言った雰囲気と私を引き留める時の雰囲気はうって変わっていた。
「明日も来る?」
「隣を覗いていただけだからもう来ない」
本当にそのつもりだった、大きなお屋敷を興味本位で覗いただけ。
私がそう言うと少し表情をゆがませたけど、すぐに元の表情に戻った。
「そっか」
「うん、じゃあ」
私たちのファーストコンタクトはそれで終わった。
そのあとは3か月くらい、何もなかった。
私も日々の新しい生活が楽しくて思い出しもしなかったのだ。
しかし、ある日学校から帰って来た時にボールが隣の敷地から飛んできたのをきっかけに私たちは近づいた。
「?」
見慣れないボールが足元に転がって来る。
うちのではない。
私は一人っ子なのでこんなものがあること自体がおかしい、ボール遊びもしないし。
おーい
「?」
風に乗って声が聞こえてきた。
おーい
気のせいじゃない。
「そのボール、投げてよ」
声が聞こえる方角を見る。
敷地の境界で手を振っているこの間の子がいた。
一瞬、迷ったけれど無視するのも悪いと思い私はボールを持って敷地境界まで近づいて行った。
「すごい飛ばしたね・・・あんなとこまで飛んできていたよ」
うちの家は隣に比べれば小さいけれど、それなりに広さはある。
「うちの奴が思いっきり蹴飛ばしたからさ――参ったよ」
以前、会った時より物言いが柔らかかった。
一度会っているから警戒していない、ということだろうか。
「今、学校から帰り?」
私のランドセルを見て言ったので私は頷く。
「へえ、学校って楽しい?」
「え?」
「私ってさ、学校行ってないんだよね」
すべての子供が行っていると思っていた学校。
そこへ行っていない子供が居るということにびっくりした。
「・・・どうして?」
「行かなくていいってさ、必要ないって」
ボールを受け取るのを忘れたように、境界の柵を掴んで言う。
「楽しいのに」
「うん、楽しそう」
理由があるのだと、その時は思えなかった。
私は何も知らない子供だったから。
純真に子供心に可哀そうだと思う。
「私、みくり」
「みくり?」
名前にしては珍しいと思った。
「うん、ひらがなの“みくり”。“かえ”ってどんな漢字書くの? それともひらがな?」
ぐいっとこちらに入り込んでくる。
いつの間にか私の中で、みくりは怖くなくなっていた。
「かんじ、まだ書けないの―――」
バカと言われたことを思い出して、声が小さくなってしまう。
「・・・ごめん、この間のことお母さんに言ったらそんなこと言うものじゃないわって怒られた。みんなが私みたいに利口じゃないって」
りこう?
また分からない言葉。
謝ってくれているらしいことは分かった、もうバカにはされていないとも。
「ねえ、さ! 遊びに来ない? 遊ぶの大人しかいないからつまんないんだよね」
意外ともいえる誘いだった。
「・・・いいの?」
「全然!ぐるっと門まで回って、迎えに行くから」
うん。
と頷いてからはた、と思う。
隣の家は随分と広い、外周も広くて門までかなり歩くのを思い出した。
とはいえ、隣の子 みくりと友達になれるのだ。
ドキドキしながら楽しみに走った。
息を切らして門まで行くと、見慣れない乗り物に乗ったみくりが待っていた。
運転席らしきところに初老の人が居た。
「来たね、これに乗って」
「く・・・るま?」
車にしては小さいし、四方の骨組みだけで風は防げなさそうなものだ。
「カートって言うんだよ、外は走れないけどここは走れるから家までこれで行く」
はじめて見るものだ。
こんなものを使わないと移動できないくらい、この庭は広いと言える。
「こんにちは、かえさん」
雰囲気の柔らかそうな人そのままんまに。
「こ、こんにちは。しどう かえです」
両親には挨拶はきちんとしなさいと口を酸っぱく言われているので反射的に答える。
「隣に引っ越してこられた志藤さんのお嬢さんですね。よろしくお願いします」
子供にも丁寧な言葉づかいで接してくれた。
「早く乗って」
急かされるように私は乗せられ、初めてカートというものを体験したのだった。
庭も相当広かったけれど、招かれた洋風のお屋敷もお城のように広くて驚いた。
こんな中深くまで入り込まないと分からない。
足を踏み入れても豪華で子供心にみくりの家がお金持ちだと実感する。
周りを見渡してもため息しか出ない。
「こっち、こっち!」
私は手を引かれ、みくりの部屋に招かれた。
無造作に開かれた扉の中は、私の知らない世界が広がっていた。
パソコン、TV、ゲーム機、勉強机、そして私の目を奪ったのは壁に置かれている本棚だった。
「すごい、これぜんぶ本?」
小学生の見るような本ではなく、私の父や祖父が読むような背表紙の本が並んでいた。
「うん」
「みくりが読むの?」
「うん」
びっくりした。
子供でも、この並んでいる本の数や質がすごいことが分かる。
「かんじが読めるの?」
「読めるよ、読み書きは全然出来る」
胸を張って自慢する、みくり。
「学校、行ってないのに?」
「学校に行かなくても教えてくれる人が居るから」
ノートを見せてくれたり、パソコンを開いてネットで受けられる授業があるということを教えてくれた。
私の知らない世界――――
「・・・楽しい?」
思わず、聞いてしまった。
私は学校が楽しくてしょうがないのに、楽しい学校にみくりは行っていないのだ。
理由は分からないけれど。
「うーん、楽しい時もあるけど楽しくない時もあるかな。かえの様子だと学校が楽しいところだとは分かる」
「行かないの?」
「私がどうこうできるわけじゃないからなあ――――」
困ったように頭をかく。
行きたいと行ける状況ではないと私は察し、この話は止めることにした。
「この本、全部読んだの?」
「まだ、半分くらいかな」
半分くらい・・・って、それでも多い。
しかも、小学生が読めるような本ではないと感じている。
みくりって―――
ここで、やっとみくりが普通の私たちとは違うのだと気づき始めた。
それに、見た目だけでは男女の性別も分からなかった。
男子なのか、私と同じ女子なのかも。
「みくりって、男の子なの?」
初対面の意思の強さと、強引な私への態度は男子を思わせた。
「かえと同じく、女の子だよ。見えなかった?」
まじまじと見てしまう。
「見えない―――」
「失礼だなあ・・・まあ、スカートとか履かないし髪の毛も短いから仕方がないか」
サラサラな短いストレートヘアの髪をひとつかみする。
「でも、似合う」
「そう? お母さんは女の子らしくしなさいってうるさい」
「女の子なんだもん、仕方がないよ」
でも、目の前のみくりは女の子でも今のままがいいように思える。
「そうだ、何して遊ぶ?」
両手を広げてみくりは楽しそうに言った。
あれから年月が経った。
私は大学生になって大学に通っている。
大学まではそう遠くも無いので、自宅から通学していた。
私が年を重ねてゆくにしたがって、隣人で親友 みくりがおかれている環境も理解できるようになった。
“彼女”はいわゆる天才といわれる人間で、IQが250もあるのだという。
通常が100以下、天才で130と言われる間で、250は超天才と言われる。
天才ゆえに、性格的に周囲に馴染めることができず両親は学校に行かせなかった。
けれどその分、家庭教師やありとあらゆる教育を彼女に施していたらしい。
部屋の本も、あの出会った当時で半分以上読んだということは今なら納得がいく。
今、彼女はその頭脳を頼られ政府の仕事をしているらしい。
ただ、人前に出ることを嫌うため自宅での仕事を主にしていた。
そういうわがままが通るのはやはり、必要とされるその頭脳ゆえかと思う。
PLLLL
大学から帰るとすぐにスマホが鳴った。
着信者を見れば、みくり。
私は、ため息をついて呼出しに出た。
「みくり、ストーカーみたいなことは止めてと言ってあるでしょう」
頭がいいということは、その頭脳を色々なことに利用できるということでもある。
特に理数系に強い彼女は常人が出来ないようなことを簡単にしてしまう。
そのことを大したことでもないように思っている節もあった。
「別に、監視していたわけじゃないよ。佳枝が帰って来たから電話しただけ」
「どうしてわかるのよ」
「それは企業秘密に決まってる。早く来いよ、いいものがあるから」
みくりは言いたいことを言うと、通話を切った。
ツーツーツーという、もう通じていないスマホの音を聞きながら私は再びため息をついた。
「おかえりなさいませ、佳枝さん」
みくりの家の執事 斎藤さん(そういう名前だった) は顔を合わせるとそう言うようになってしまった(苦笑)。
ただの隣人なのに、彼女と親しくしているというだけで身内扱いになっている。
それは彼女の両親も同じだった。
最初は私を程よく観察していたのは感じていた、多分、娘の友達になれるかどうか推し量っていたのだと思う。
今の状態をみれば、私は合格だったのだろう。
ただ、みくりの友人は私だけでその他は現実的な友人はいなかった。
別に、いらない。
外に出て、人と会ったらと言えばいつもこの答えが返って来る。
私としては私以外にも、現実的にコミニュケーションを取れる人間が居た方がいいのだと思っているのだけれどみくりはかたくなに拒否していた。
私もずっと側に居られるわけではないのに―――――
コンコン。
ドアをノックする。
「入って来いよ」
中から声がする。
扉を開けると、もう一枚扉がある。
その扉はこの建物に不似合いな近代的な自動扉になっていた。
私が扉の前に立つと、すぐに扉は横に開いた。
少しひんやりとした空気が頬を撫でる、中の空間はどこかの研究室のように無機質で多くのテレビモニターと機器が並んでいる。
「今日もずっとこの中だったの?」
日の光を浴びないと人間としてやばいのではないかと思う。
「佳枝が言うから、1時間くらいは日光浴したよ」
「私が言うからじゃないでしょ、自主的にするのよ。身体が悪くなるでしょうに」
「心配してくれるんだ」
「当たり前でしょう、私が心配しないと誰も言わないんだから」
ご両親も娘がしたいようにさせている、斎藤さんもしかり。
「それはありがたいと思ってるよ」
椅子から立ち上がると私の方にやって来る。
数年の間に、面立ちも少し変わった。
背丈は私よりも高くなったけれど、食べ物の好き嫌いと生活のせいで身体はモデルのように細い。
「ほら、これ」
SUSパイプ足、ガラス板のテーブルの上に包装されたものが乗っていた。
明らかにプレゼント用のリボンまである。
「私への遅めの誕生日プレゼント?」
「そ。取寄せに時間がかかってさ、開けてみてよ」
みくりは私に身体を近づけ、腰を抱くと囁くように言った。
「みくり・・・」
「うん?」
「近い」
身体を引こうとしたけれど、みくりは離してくれない。
「いいじゃん」
「良くない―――」
私は冷静になろうと気持ちを落ち着かせる。
いつもだ。
「いいじゃないか、私は佳枝が好きだよ」
屈託なく言う。
それが悪いことだとは思ってもいない、思いもしない口調で。
確かに悪い事ではない。
同性愛を否定することは、差別になる。
ただ、私はその思いを伝えられて戸惑っていた。
否定してはいけないという思いと、受け入れがたい思いがせめぎ合っている。
「嫌なら突飛ばせばいいのに佳枝はしない、それって少しは佳枝が私の事好きだって思ってもいいって思っているんだけど?」
嫌いではない。
かと言って、恋愛感情があるとも言い難かった。
ここでバッサリと関係を断ち切ってしまったら・・・みくりが心配だった。
腰を抱くものの、その他は仕掛けてこないので私は呼吸を整えてプレゼントの包装を解く。
背中にみくりの身体の温かさを感じながら、パリパリと開けてゆく。
重包装ではなかったので2.3回の作業で中身が現れた。
「これ――――」
出てきたものに心臓が飛び出るくらいに驚いた。
古い革で鞣した本の表紙。
明らかに年代が古さを感じさせる。
「こんな・・・高いもの」
みくりを振り返ると、私の態度が想像していたのと同じだったのだろう。
笑っていた。
「初版本、やっと落とせたからプレゼント」
「こんな高価なもの―――」
持つ手が震えてしまう。
私が欲しいと言った。
でも、その時は気軽に言っただけで本気で欲しいとは言ったわけではなかった。
見るだけでもいいと思っていただけなのに・・・
「もちろん、受け取ってくれるよね?」
「いくらしたの・・・?」
聞くのが怖かったけど、聞かねばなるまい。
「そんなこと聞くのは野暮だよ、黙って受け取る」
「みくりがお金持ちなのは知っているけど、限度っていうものがあるでしょう!」
「あれ、怒られる案件?」
本当に私にプレゼントしたくてオークションで落としたらしい。
金銭感覚も常軌を逸している。
「私にこんなの――――」
「佳枝にふさわしくないとは思わない、大事にしてくれると思うから買った」
それ以前に、喜んでくれると思って買ったんだよ
その言葉を言った時のみくりは少し傷ついたような表情をしていた。
「・・・あまりにも高価な本だから・・・動転しているのよ」
プレゼントに貰う本ではない、どこの金持ちのサプライズだ(苦笑)
「相手にそういう態度を求めてプレセントを送るのが楽しいんだよ」
みくりは私から身体を離す。
「私は―――」
「プレゼントをもらったから私の気持ちに応えるとかいうのはナシ、フェアじゃない」
「そんなつもりは」
「・・・ならいい、変に気を使われるのは嫌だからさ」
部屋の内線が鳴った。
「出ろ」
みくりがそう言うと内線が繋がる。
「みくりさま、お夕食はどうしますか?」
執事の斎藤さんだ。
「いつものように」
「かしこまりました」
そう言うと内線は切れた。
みくりは私の方を見て、食べていくよな?的な表情をする。
私に拒否権はなく、苦笑して『もちろん、ご相伴に預かるわ』と言った。
大学生活は中学高校生活とはだいぶ違った。
勉強に励むのはもちろんだけれど、色々なところから来た人たちと意見を交わし合い、交流が生まれている。
大学が忙しくなると、みくりに呼ばれても行けなくなることが多くなり、顔を合わせることがなくなってしまった。
彼女もあえて強引に呼び出したりはしない。
その間に私には付き合う人が出来た、自然と好きになった同士。
日々、彼と付き合う中でみくりの存在は薄れていってしまった。
薄情と言われてもいい、私の中で彼女は一番身近な存在ではなくなったのだ。
そんな状態で隣り合わせて住んでいるのは気が引けたので私は、大学近くにアパートを借りた。
時々、彼がやって来る。
大学で勉強をするつもりが、世の習いなのか一般的な女子大学生の生活をするようになったことが自分でも信じられなかった。
でも、これが自然なことでみくりの想いに応えることができなくて良かったのかもしれない。
いつしか、みくりの存在を私は忘れていった。
「・・・・・」
その違和感を覚えたのはふとしたこと。
何気ない感覚。
こういう時、自分が女であることを呪ってしまう。
彼とは付き合って4年目。
・・・私に彼にとって足りないものが何かあるのだろうか?
感覚は、疑惑を生み、現実を探ってゆく。
見なかったことにすることもできたけれど、私にはそれが出来なかった。
人は慣れると飽きるのだろうか。
現状では満足できなくなるのか。
そんな思いが私の中に渦巻く。
嫌な感情だった。
彼に他の女性の影を感じ、確信してその感情が大きくなるのを感じる。
嫌だと思いながら、それを追い去れない。
誰にでもある感情だろうけれど、その負の感情は私を苦しめた。
けれど、彼に問い詰めることが出来ない。
好きだからだ。
好きだから、彼に嫌われたくないから、別れたくないから私は問い詰めなかった。
自分の中に浮気という事実を抱え込んで、私は心を閉ざしてしまった。
大学にも行けなくなった。
自分のスマホにかかって来る電話にも出ることが出来ない。
次第に、動くことも食べることもしたくなくなってしまった。
たかがこんなことで自分がこんな風に転落するとは思わなかった。
そんなに恋というものは私には大事だったのか。
今となってはもうどうでもいい――――・・・・あんなに幸せだったのに
いつしか私は暗闇に意識も身体も飲み込まれていった。
最後に感じたのは死だったのかもう、それは分からない・・・
ずっと暗い沼の深い底に居るような感覚でいたのに、いつしか身体がすーっと軽くなっていた。
それでも私は意識だけは頑として取り戻してはいなかった。
覚醒したくないと、脳が私の意思を尊重していたのだ。
しかし、それも次第に身体の軽さと比例して弱まってゆきとうとう私は目を覚ますことになった。
目を開けた私が見上げた光景は見慣れている自分の部屋の天井ではなく、明るい白い天井に見慣れない蛍光灯だった。
「?」
意識は取り戻したけれど、身体はすぐには動かない。
ゆっくりと首を動かし、手、指先に力を入れた。
「志藤さん、大丈夫ですか?」
私の視界に、看護婦さん?が現れる。
話そうと口を開いたけど、言葉が出ない。
「大丈夫ですよ、起きましたね。先生を呼んできますね」
看護婦さんは安心する笑顔でにっこり笑うと私から離れていった。
居なくなると部屋には私だけになった。
どうやらここは病院らしい、私は入院したのだ。
深い沼の底に沈んだようになってしまっていた私は、人間が生きてゆく活動すらも拒否し、重体に陥ったのか。
親には迷惑をかけてしまった・・・と思う。
順調に大学に通っていると思っていたひとり娘がこんな風に病院に運ばれるとは思ってもみなかっただろう。
目をつぶると涙が一筋、落ちるのが分かった。
「起きたな、バカ」
ふいに隣で声がした。
人の気配が全くしなかったのに。
声のする方に視線を泳がせる。
「・・・み・・・・く・・・り―――」
視線がはっきりと人物をとらえた、面差しは少し変わっていたけれどすぐに誰だか分かった。
「あんな男の為に死ぬなんて、バカだぞ」
言い方は変わらないけど言葉尻は私に厳しかった。
死線をさまよった私にかける言葉ではないがそう言われても仕方がない。
「・・・うん」
「男なんて一人じゃないんだからもっとポジティブに考えろよ」
厳しい顔つきはそこでふっと切り替わった。
「私が見つけなかったら佳枝は死んでたぞ、感謝しろよ」
「うん・・・」
みくりが私を見つけてくれたのか。
でも―――しばらく連絡していなかったし、それに・・・滅多に外出しないみくりがなぜここに?
「今は何も考えるな、身体を休めとけ。私は帰るから」
「かえる―――」
私の身体に、栄養を送っているチューブが入っている腕に触れた。
触れた指先が熱い。
「暇だからな、毎日来る」
そう言ったみくりの表情は柔らかく、優しい。
みくりは先生と入れ替わりで病室を出て行く、私はその背中を見えなくなるまで見送った。
みくりの手先が器用だとは思わなかった。
彼女は毎日、私の病室に見舞いに来た。
もう親も、そこにみくりが居るのが当然と思って接している。
私は覚醒してからは徐々に体力を取り戻していっている、心はまだ癒されることはないけれどあの死線をさまよった状態に比べれば天地の差だ。
「みくりは、私より上手ね」
上体を起こし、ベッドに寄りかかったまま私は言う。
ベッドのすぐ隣で、みくりはりんごを芸術的に包丁で剥いている。
「これくらい朝飯前だ」
りんごをむくみくりなんてここで初めて見た。
「ほら」
出来上がったうさぎりんごに楊枝を差し、私に差し出す。
「引きこもりから脱出したの?」
私が覚醒した時に言ったように毎日、みくりは病院に見舞いに来ていた。
人嫌いで、自宅で仕事をすると政府にも駄々をこねたのに。
「もうとっくに脱出していたぞ、この私が研究所へ毎日通勤だ 」
「電車で?」
「あの満員電車には参るね、死ぬかと思った」
渋い顔をする。
私も人に押されて眉間にしわを寄せているみくりを想像して小さく笑った。
「世間に慣れるのはいいことだわ、引きこもっているなんて身体に悪いもの」
「・・・今まで、死ぬまで自宅に引きこもっていた人間に言われたくないな」
毒舌は病み上がりの私にも容赦なかった(苦笑)
まだ、私のことを怒っているのだ。
「ごめん」
「謝る相手が違うだろ、親に謝れよ。すごく心配していたんだからさ」
目を覚ました私と対面した両親は、すごく老けたようだった。
その様子にすごく心配をかけてしまったことを後悔した。
「大学は今のところ、休学だって。まあ、辞めるつもりはないんだろうからいいだろ?」
「・・・・・」
思い出したくないことを思い出しそうになった。
私の様子にそれを察したのか、みくりが言葉を継ぐ。
「ま、人生いろいろさ。勉強したな」
他に作ったりんごうさぎを自分でも食べる。
「こんなんで躓いていたら生きていけないからな、忘れた方がいい」
みくり流の励ましだろうか。
「・・・うん」
「さて、これから出勤だからもう行く」
「今から仕事のなの?」
今日は土曜日だった。
世間ではお休み、公務員は休みだと思っていたのだけれど。
「私は変則的な雇われ人だからさ、休日でも仕事があるんだ」
よいしょ、と立ち上がる。
「元気になってよかったよ、早く退院できればいいな」
「ありがとう、みくり」
「じゃ」
手を振って出てゆく。
相変わらず話し方は出会ったままの感じで、男っぽい。
ただ、人と接することは出来るようになった感じに思える。
私の知らないうちにみくりは新しい世界に飛び出すことが出来たらしい。
ひとごとながら私はほっとした。
それと同時に自分も変わらなければなきゃ・・・と思うようになった。
大学は3か月ばかり休学してから私は復学した、友達には詳細は言っていなかったので気にしたのは私が少しやせていたのくらいだった。
部屋には戻ることもなく、今は実家から大学に通うことになる。
部屋の解約や、もろもろの件については両親となぜかみくりが一緒に対応したらしい。
私の入院の原因となった彼については私の周囲から消えてしまったかのように存在が無くなっていた。
あえて聞かなかったけれど、噂好きの友人は大学を辞めたと言う。
私のスマホには何も残されてはいず、彼の言い訳も聞くことも出来なかった。
でも、それがいい。
顔を合わせたら自分がどんなに醜いか自覚してしまうし、また深い沼にずぶずぶと入り込んでしまいそうだったから。
そしてその後、復学から一気に遅れを取り戻した私は大学を卒業した。
その頃にはもう、吹っ切れて自分を取り戻していたから時折話に出すことも出来た。
「あの男」
「え?」
みくりは自宅の大きなモニターの前で机に脚を乗せた行儀の悪い格好で言った。
今日は休日だし、暇だから映画鑑賞に来ないかとのことで私は隣のみくりの家に上がり込んでいる。
「ほら、あれ」
TV画面を顎で示した。
私はそれに促されてテレビを見る。
「あ」
私がそう言うと隣でみくりはふん、と鼻で笑う。
「佳枝もバカだが、あの男はもっとバカだな。アレが末路だ」
TV画面のクレジットは詐欺での逮捕の様子を伝えている。
容疑者の顔には見覚えがあった。
「・・・みくり?」
「なに?」
ポップコーンをのほほんと食べている。
「―――なんで彼を知ってるの? また私をストーカーしていたの?」
「まさか。ストーカーなんてしてないよ、佳枝に怒られるのは嫌だからさ」
「じゃあ、どうして―――」
ポリっ
ポップコーンをかみ砕きながらみくりは言った。
「知ったのは佳枝が、入院してから。なんであんな風になったのか知りたかったしね、親御さんも同じく」
「・・・・」
「初めて自分で外に出て、考えて行動した。こんな私でも怖かったけど」
ぱりっ。
TVではまだその話が続いている。
「でもさ、慣れると意外と簡単でなんでこんなことできなかったんだって思う」
「な・・にかしたの?」
みくりの性格だ、親はともかく不安が過る。
大学を辞めたということも引っかかっていた。
「なにかって? 何もしてないよ、向こうは私を知らないし・・・ね」
ふふんと笑ってまたポップコーンを口に入れる。
「・・・・」
その態度は明らかに怪しい。
けれど、みくりは私に何も言わないだろう。
多分、私の仇みたいなものを取ってくれたのだと思う。
でなければ、あんな事は言わない。
―――あの男はもっとバカだな。アレが末路だ
詐欺については後々のことだろうけれど、その前に大学を辞めざるを得ないことを彼にしたのだろうと考えた。
みくりはそういう人間だった。
「ありがとう」
「礼を言われることなんて私はしていない」
そこはむっつりとした顔で言う。
私に知られずにやり込めたことを表に出したくないのだろう。
「そうね」
それ以上、私は突っ込まなかった。
気分もこの場の雰囲気も壊したくなかったし。
ぷち。
リモコンを操作し、ブルーレイディスクを起動させた。
今日は映画鑑賞会なのだ、ただ笑って泣いて過ごしたい。
私はみくりの隣のソファーに寝そべった。
数年後――――
テレビの画面にスーツ姿のみくりを見つけた。
インタビューマイクを使って、質問に答えている。
世界的なサイバー犯罪組織を一網打尽にした件と、将来起こるべくサイバーテロ犯罪への取り組みなどを分かりやすく話していた。
これが数年前まで、引きこもっていた人間とは思えないくらいの変わり様で。
みくりは私の知らないところでどんどん出世しているらしい、本人は言わないけれど肩書がそれを表している。
世間への露出は断続的だけれど、SNSでは話題を振りまいていた。
あのサイバー犯罪対策本部の指揮官は誰なのか?
あのイケメンは誰なのか?
みくりからしたら下世話な話なのだけれど、表舞台に出たみくりは私自身も驚くほどに目を引いているのだ。
「ただいま」
いきなりの後ろからの声に私はびっくりして飛び上がった。
「い・・いきなり、驚かさないで―――」
心臓に悪い、大いに悪い。
気配を感じさせないで近づくのは止めて欲しいと言っているのに。
「玄関で言ったよ、聞こえなかった?」
少し険が取れたみくりはネクタイを緩めながら言う。
「聞こえなかったわ」
「そんなの聞きながら料理をしているからさ」
みくりは私の腰を抱いて引き寄せた。
顔が近づく。
ほんのりと付けている香水がかおる。
「みくり、夕飯を作っている最中なのよ」
「知ってる」
そう言いながら、離してくれない。
「疲れているんでしょう? お風呂に入ってきたら?」
「キスしてくれたら入る」
「・・・・・・」
こんなに甘えてくるとは思ってもいなかった、みくり。
「嫌、先に入ってきて―――」
ぐいっと両手で身体を押し離す。
「なんだよ、ケチだな・・・キスくらい減るものでもないだろうに」
途端に態度が悪くなる。
険が取れたとはいえ、根が変わるわけではないのだ。
とはいえ、みくりは強引に私にキスしてこない。
私の意思を尊重してくれる。
「お風呂出たら、キス以上するから」
念を押される。
いつもの通りのやり取り。
みくりの私への想いはずっと続いていて私は驚いた。
私が今は刑務所に居る元カレと付き合っている時も、私の事を好きでいたのだ。
徐々に私たちの間は自分でも分からない間に近づいていた。
いや、みくりがじりじりと私の許容エリアに侵入していたのだ。
気づいたときには私はみくりに惹かれていた――――
またアパートで暮らすと言ったら親に心配されたけれど、みくりが口八丁で言いくるめてくれた(苦笑)
頭の回転が速い、みくりにたとえ経験を積んだ私の両親でも相手にはならない。
両親はあっさりとみくりに落ちた。
身体を離されるとほっとする反面、別な感情が残る。
こんな感情をみくりに持つことになるとは思いもしなかった。
随分と前に好きだと屈託なく言われたことを思い出す。
その時は、軽くあしらうことが出来たのに今はそれができない。
自分のみくりへの気持ちが芽生えてしまってきているのを自覚してきているから―――
私はみくりの去ったキッチンで身体をシンクに寄りかかり、ため息を付いた。
寝室のベッドの上。
押し掛かられ、唇が塞がれる。
私はみくりの背中に腕を回し、身体を密着させた。
「みくり――――」
唇が離れてしまうと私はため息を漏らす。
こんなにもおぼれてしまうとは想像もしていなかった。
みくりの手が私の肌を撫でてゆき、唇が私の耳たぶを舐める。
「・・・ぁ」
「佳枝」
名前を耳に吹き込まれると、肌に一斉に鳥肌が立った。
身のうちから熱が沸き上がって太腿を手が這うと下腹部がジンジンしてくる。
重ねた身体は愛撫の度にゆっくりと動いた。
もう何度も繰り返した行為。
肌に口づけられ、きつく吸われるも、みくりは乱暴にはしない。
愛撫からは私への愛情が伝わって来る。
「好きだ」
みくりは言う。
何度も。
「・・・知ってる・・・わ」
私も首に抱きついてみくりの耳元に囁く。
随分と前から気づいていたけど、応えないようにしていた。
それはみくりの想いは“正常ではない”と思っていたからなのか。
自分の心に差別心があったからなのか。
彼のことはもう忘れて、今はみくりのことしか考えてはいなかった。
「佳枝は・・・私のものだ――――」
みくりの気持ちが触れている皮膚を伝ってくる。
もう、恋などしないと思ったのにそんなに経たない間に私はみくりを受け入れていた。
あさましいと思う。
けれど、向けられた愛情を今度は拒否しなかった。
みくりが私を裏切らないと信じたから。
私の事を何よりも好きだと、ずっと前から言ってくれていたから―――
指が絡められる―――
力が入り、私は合わせたみくりの手を握った。
キスはずっと続いていて、唇はお互い離れない。
「・・・毎日、欲しいと思う」
キスの合間に時々、私の目を逸らさないで言うみくり。
「反動で?」
引きこもっていた間の色々溜まったものの反動(苦笑)
「反動なんかじゃない、ずっと佳枝にこうしたかった」
みくりにジッと瞳の奥を覗かれるとこちらがテレてしまう。
「佳枝があの男と付き合った時は―――狂い死ぬかと思ったよ」
全然、そんな気配させなかったくせに・・・・
「男なんてくそくらえだ・・・まあ、結果オーライだからいい」
今は私の手の中に佳枝が居るから―――
みくりが嬉しそうに言う。
「本当に何もしていないの?」
常々疑問に思っていたことを聞く、今までは聞けなかった。
やっと吹っ切れたと思う。
「どうだと思う? 私が何もしてないって?」
にゃり、と笑う。
その笑みはどうとっても何かあったとしか思えない。
「・・・佳枝が死線をさ迷うまでに追い詰めた、何もしないままじゃ収まらないだろ?」
やっぱり・・・内容はさすがに怖くて聞けなかった。
それにみくりも聞かない方がいいよ、もう忘れた方がいいと言ったので聞かないことにした。
世の中には知らない方がいいこともある。
「もう、いいじゃないか。私は佳枝を裏切らないからさ」
私と組んでいる手を口もとに持って行き、口づけた。
ドキリと落ち着いていた心臓が跳ねあがる。
ずっと引きこもっていたというのに手馴れている、そこが不思議だった。
「ほんとに?」
「私が嘘を言ったことが? 男の薄っぺらい口とは比べるべくもない」
きつい言い方になる。
よっぽど私の元カレにはいい感じを持っていないのか、それとも男性全般にそんな感じを抱いているのか。
「―――うん」
言葉からも表情からも、みくりの真心が伝わって来た。
「もし・・・いや、絶対に無いけどね、もし私が他の人に目を向けたら刺してもいい」
「嫌よ、そんな―――」
「だから、そんなことはないって言っている。“もしも”だよ」
額がくっつけられる。
「私には佳枝だけだから」
「みくり・・・」
その言葉は深く私の中に入って来て、胸をいっぱいにさせてくれた。
誰の言葉よりも私に感動させてくれる。
「好きよ」
自然と口から言葉が出た。
「うん」
「・・・たぶん、ずっと前から―――」
「出会った時からだ、私も佳枝が好きだ」
みくりの声が震えている気がする。
「ずっと・・・一緒にいてくれる・・・?」
「もちろんだ、拒否られても側に居る」
その一言に笑ってしまう。
どうしてここで笑いを取りに来るのか(笑)
「照れくさいんだよ、そんな風に言われたことがないから」
私はみくりの両頬を両手で包み込んだ。
「ずっと一緒に居て、みくり」
心からの言葉、偽りなんてない私自身の想い。
「ああ」
感動なのか同意なのか分からなかったけれど、返事のあとのみくりの優しいキスに私は安心してすべてをゆだねた。
ずっとこの先もゆだねることになるだろうと思う―――
読んでいただき、ありがとうございます。
文内にあまり作品名の引きこもり感がありませんが取って付けたようなものなのですみません。