雨の日は思い出す。
最近の雨続きで、私はふと父のことを思い出す。
私の母はいわゆるシングルマザーだった。
女手一つで四人の子どもを育て上げた強者である。見た目はおっとりしている母であるが、いざ自分が子を持つ親になってみると、あの人の偉業に戦慄せずにいられない。どれだけの根性を秘めているんだ、母よ。
それはともかく、父は末っ子の私が二歳の頃に、浮気相手との間に子どもが出来て出て行った。あんまり小さかったので、私は父親がいないのは当たり前だと思いながら育った。本当にごくたまに父と会う機会もあったが、知らないオジサンと一緒にいるような違和感が拭えなかった。
私たち兄弟がスクスクと成長した、ある梅雨の日。父の現在の奥さんから、長女に連絡があった。父が末期の肺がんで、余命幾ばくもない、というのだ。私が二十歳の時だった。
あまり繋がりを感じていなかった私は、自分の実の父が死ぬということにあまり実感が湧かなかった。長女と次女は可愛がってもらった記憶が残っているため、複雑そうだった。
私たちは揃って父のお見舞いに行くことになった。
父は一言で言うと、破天荒な人だった。
大学の学園祭のライブに、ギプスでガチガチに固めた足で出場して周囲をざわつかせたり、中学校の教室の天井裏に電気を通し、漫画やソファを持ち込んで住空間を調えたり。奥さんがいるにもかかわらず、高齢の母親とそれを介護している年若い娘さんと三人で、湖の畔にあるペンションに外泊したり。
何ソレ!?と叫びたくなるようなことを豪快にやってしまう。それが父だった。男女問わず友達の多い父の伝説を、私たちは行く先々で聞かされて育ったのだ。
そんな父が、死ぬ。それが私にとって、現実味がなかった理由なのかもしれない。
抗がん剤の副作用で髪は薄くなり、ひどくむくんでいる父。
それでも父らしく面白おかしい話をしてくれた。切除した腫瘍の数が九十幾つで、あと二つで日本医学界での新記録に並んだこと。売店の品数への不満。若くて美人な看護師が多いこと。
けれどお見舞いを終えて病室を出ると、子どもに弱った所を見せたくないだけで、無理をしているのだと奥さんは語った。痛みで夜も眠れず、苦しみのあまり窓から飛び降りようとするのだと。うわ言のように、捨てた家族への後悔を吐き出し続けているのだと。奥さんの声は震えていたけれど、気丈にも涙は見せなかった。
次にお見舞いに行った時、雨がしとしとと降っていた。
薄暗い病室。前回よりも辛いのか、自力で起き上がることもままならない父。それでもまた笑って私たちを迎え入れて。
私は切なくて、胸が痛くて、不思議な感情が込み上げた。
本当に父は死ぬんだ。
ようやく現実が重みを伴って、悲しいという気持ちを私に教えた。せめてもと笑っていたのに泣きそうになった。
父は言葉を出すにも体力がいるようだった。ゼエゼエと呼吸しながら、私たち兄弟を順番に呼んでいく。父の小さな声を聞き逃すまいと、一人ひとりベッドサイドに近付いた。
まず長女。
「お前は確かもう、結婚してるんだったな。いいか、旦那に優しくしてやれ。家族は大事にしろ」
次に次女。
「お前は、東京に住んでるんだったな。絵を描く仕事がしたいんだったか。頑張れよ。簡単に諦めるんじゃねーぞ」
長男は唯一の男ということで、やや厳しめでした。
「お前はオレと同じ塗装の仕事やってるんだよな。いいか、外壁はまじまじ見れない分まだ簡単なんだ。内装を任されるようになってようやく一人前だ。お前はボーッとしてるから心配だ。本当にちゃんとやってんのか?会社に迷惑かけるんじゃねーぞ」
そして、最後に末っ子の私の番。
私はスイッとベッドサイドに近付きました。父の目が私を捉え、すぐに宙をさ迷います。
「お前は――――――――――まぁ、いいや」
――えええええええぇぇぇぇぇっっっ!?何!?私、オチですか!?こんなこと現実にあり得るの!?
誰か、大声で叫ばなかった私を褒めてください。
…………父は、最後まで父でした。