プロローグ
「ああ、クソがあっ!」
自分の姿を辛うじて目視できる程度の薄暗い空間。元は立派な屋敷であったであろう廃墟で男が悪態を吐く。
家具は風化で崩れ、床には屋外から入り込んだ砂が敷き詰められている。男は忌々しげに床に溜まった砂を蹴飛ばした。
その男はブレザーの学生服の上から紺色のダッフルコートにブーツという格好をしている。それだけなら冬場の学生として何らおかしくないのだが、問題は右手に掴んでいる物だ。
手にしている抜き身の日本刀は、模造品ではあり得ない本物の輝きを放っている。
「俺たちはあのダンジョンを生き残ったんだぞ! なんでこんなところで死にかけてんだよ!」
男の隣には同じように叫ぶ迷彩服を着た男がいた。頭にはヘルメット、目元にはゴーグル。そして手にはアサルトライフル。
学生服姿の青年の隣にいることに違和感しかない服装だが、本格的なサバイバルゲームをしている最中と言われたら辛うじて納得はできる。
「ちょっと、叫ばないでよ。魔物が寄ってくるでしょ」
そんな二人を咎めるのは女性用のスーツを着こなすOL風の女性。だが、その手にしているのは三又の槍。
現代日本でもあり得る服装はいいにしても、各自が手にしている武器が物騒だ。そんな物を所持していたら普通は警官に捕まるだろう。
「はぁ……何でこうなったんだよ。俺たちは最高難易度のクソゲーをクリアーしたんだぞ。なんで、たった三階で行き詰ってんだよ」
「こんなことなら褒美を日本に帰してくれにすれば良かったぜ」
「理想の女と一生遊べる金を望んだんでしょ。ばっかじゃないの」
嘆く二人を鼻で笑う女。
その態度に二人の男が怒りを覚えたようで、鋭く睨みつける。
「お前だって、イケメン眼鏡クール執事が欲しいって願ったんだろうがよ! 頭に虫でも湧いてんじゃねえか?」
「猫耳メイドなんて時代遅れの産物を願った、あんたよりマシですぅ」
いがみ合う二人を眺めながら、迷彩服の男が手にしたアサルトライフルをギュッと握りしめた。
「どっちもどっちだ。結局、二人の願った理想の女と男は、一階で魔物相手に惨殺されただけだったろ」
その言葉に二人は黙り込む。
彼と彼女の無茶な願いは確かに叶えられたのだが、その結果は悲惨な結末だった。
「こんな馬鹿げた世界に連れてこられて、クソダンジョンを制覇したら普通は日本に戻してくれるもんだろ。誰が更に高難易度の塔に連れてこられるなんて思えるんだよ」
「そうよ、こんなの詐欺よ。願い事を叶えてから説明するなんて卑怯だわ」
「今更言ってもどうにもなんねえからな……俺も日本に戻れないなら金なんか要求するんじゃなかった」
今度は三人が同時にため息を吐いた。
ここで愚痴を零しても過去を後悔しても、どうにもならないことはわかっているのだが、それでもぼやかずにはいられない。
「何だよ邪神の塔って。三階の難易度でこれって、クリアーさせる気ねえだろ」
「邪神様が建てられた塔だからな。そりゃ、鬼畜仕様だろうよ」
「あの逆境を生き抜いて自信もあったのに、根元からポッキリ折れたわ」
廃墟で身を潜めている三人の口からは愚痴がぼろぼろと零れ落ちる。
そうでもしていないと、心が恐怖と不安で押し潰されてしまうから。
「私たちここで死ぬのかな。食料もあんまり残ってないし」
「命は一つしかねえから、あのダンジョンみたいに復活はできねえぞ」
「百回死ねた過去を懐かしむ時がくるなんてな。ああ、死にたくねえなぁ……おっと、静かにっ!」
鋭く呼気を吐き二人に黙るように手で制すと、さっきまでの呆けた表情が一変して引き締まった戦士の顔に豹変する。
現代日本に住む一般人が一生浮かべることのないであろう、殺気漲る鋭い目と引き締まった口元。
纏う雰囲気まで変わった三人が中腰になり、いつでも飛び出せる状態になる。
「いるのか……」
「ああ、俺の魂技、気配察知に引っかかった。魔物がこっちに六体向かってきてやがる」
「私の地獄耳も捉えたよ、足音。追手が増えてるじゃないのよ」
「こりゃ一巻の終わりか。二巻始まらねえかな」
「バカなこと言ってんじゃねえよ。腹くくってやるしかねえ、覚悟を決めろよ」
迷彩服の男が銃を二度愛おしそうに撫でると前屈体勢になる。
それに倣い二人も武器を構えて全身の力を漲らせた。
彼らが潜んでいるのは屋根もない廃墟と化した屋敷の一階ホール。その壁際で外の音を探っている。
足音は徐々に大きくなり、それは音だけではなく振動も伴い三人を揺らす。
彼らの見つめる先は廃墟に辛うじて残っている両開きの古びた扉。それが鼓膜を揺るがす破壊音と共に内側へと吹き飛んだ。
扉を失った入り口から巨大なナニかが六体滑り込んできた。
それは頭の輪郭は猿。目は黒い眼球のみで八つ顔に埋め込まれ、鼻はなく口は頬まで裂けている。身長は成人男性並みなのだが腕が三本ある。本来あるべき二本の腕の間、胸の中心から三本目の腕が生えていた。
その手には三つの武器が握られているのだが武器の種類は様々で一つとして同じ物がない。
「あれって、俺たち同じように転移させられた、先輩プレイヤーからパクったやつなんだろうな」
「そうじゃねえか。服も着てない猿があんな武器作れねえだろ」
「じゃあ、ここで武器が更に三つ追加されるのね……笑えないわ」
悲観的な言葉を口にしているが、その闘志は衰えていない。こんな逆境は既に経験済みだと言わんばかりの落ち着いた態度だった。
死に慣れ親しんでしまっている三人は勝てぬとわかりながらも、魔物へ向けて一斉に飛びかかっていく。
「ギャッシャギャッシュ!」
獲物が自らやってきたことに喜ぶ八目猿が手にした武器を振り上げ――前のめりに倒れた。
横並びに立っていた六体の内、二体がその場に崩れ落ちたのだ。
突然のことに動きが止まったのは八目猿だけではなく、三人もそうだった。
倒れた魔物を観察すると後頭部から矢尻が見える。
「どうなっていやがる、他に気配はしないぞ!?」
「もしかして、誰か助けて……」
女が全てを言い終える前に、更に一体が頭と体に矢を生やして倒れる。
そこで八目猿も異様な状況を理解したらしく、一斉に後ろへと振り返った。
残った三体の二十四の瞳が、純白のコートを羽織った男の姿を捉える。
この漆黒な世界に相応しくない白一色の男はあまりにも異質だった。魔物を前にして動揺どころか感情の揺らぎすら感じられない。
異様な容貌の化け物に睨まれているというのに男は平然と構えている。手にしている弓で射抜いたようだが、その弓は少し特殊な構造をしていた。
ミリタリーオタクでもある迷彩服の男が見れば、一目見でそれが何であるかわかったのだが八目猿が邪魔で視界を遮られていた。
それはコンパウンドボウと呼ばれる銃に匹敵する威力を有する弓。弓の両端に滑車があるという一風変わった形をしている。スコープもあり精度も高く軍隊でも使われている武器だ。
だが、コンパウンドボウを構えてもおらず、その場で大欠伸をして頭を掻いている。
八目猿は知能がさほど高くないのだが、それが挑発行為であることは一瞬で見抜いたようで、肩を怒らせ奇声を上げながら男へ突進した。
「バカにされていることぐらいはわかるのか」
男はそう呟くと後方へ跳躍する。数メートル後ろに飛んだところで、八目猿の運動能力なら一秒も時間を稼げない行為。
三人は男の行動を愚策だと考えた。三匹をあっという間に葬る実力があるなら、あのまま矢を射続けた方が確実だろうと。
先頭の八目猿が入り口から外に飛び出そうとした直後、その首が地面に落ち、頭を失った首の付け根から盛大に血の噴水が噴き出している。
白いコートの男はニヤリと口元を歪めただけで一切手を出していないというのに。
「ワイヤートラップかっ」
迷彩服の男は入り口に張られた一本の糸に、血がこびり付いているのを見逃さなかった。
いつの間にか扉を失った入り口に細いワイヤーを張り、そこに八目猿が自ら跳び込み首を刎ねられた。単純な罠だが憤怒の八目猿には見抜けなかったようだ。
四体目が殺され動揺している八目猿の顔に小さな瓶が投げつけられ破壊されると、八目猿が顔を押さえて床でのたうち回っている。
「この臭い……毒よっ!」
女が鼻をひくつかせて大気中の微かな香りを嗅ぎ取った。嗅覚が犬並に強化されている彼女だからわかる香りだ。
残り一匹となった八目猿に白いコートの男は静かに歩み寄る。相手は動揺して後退りをしているが、ホールの真ん中まで到達したところで歩みを止めた。
白いコートの男が手にした弓を床に置いて手招きしたのだ。武器も持たない自分よりも弱い筈の人間が舐めた態度をしている。
さっきまでの怯えは一瞬にして霧散した八目猿が、頭に血を上らせて猛進していく。
「あんた、弓を拾え!」
刀を持つ青年の忠告が届いていないのか、白いコートの男は黙ってその場に佇んでいるだけで、じっと相手を見つめていた。
床を蹴りつけ大きく跳躍した八目猿が斧、剣、メイスを振り下ろそうとしたのだが、その動きが空中でピタリと止まる。
その喉元に石の棒が突き刺さっていた。石の棒は男の手から伸び末端は床板に置かれている。そんな物はさっきまで手にしていなかったというのに、いつの間にか現れたそれに八目猿は自ら突き刺さりに行ったようだ。
三人は息を吸うことを忘れるぐらい驚愕していた。
自分たちが二体相手でも逃走を選んだというのに、目の前の男は六体を傷一つ負うことなく倒した。信じられない光景だったが、信じない訳にはいかない。
「た、助かったぜ。あんたもプレイヤーだったのか」
「ああ、そうだ」
「じゃあ、俺たちの後輩って奴か。それにしても見事な腕だな、罠と射撃だったがそれでも大したもんだ」
「そうか」
不愛想な白コートの男だが、助けてもらった立場を理解しているので、態度に対する不満はぐっと呑み込む。
「しかし、助けてもらっておいてなんだが、お人好しだな。その性格であのゲームを良くクリアーできたもんだ」
「ああ」
返事すら面倒だと吐き捨てるように言う白コートの男に、更なる苛立ちを覚えたようだが実力を知っているので怒りを面に出すことはない。
「助けてもらっておいて重ね重ね悪いんだが、食料が乏しくてな。もし、余裕があるならほんの少しでいいから分けて欲しい」
「構わない。入り口の近くにバックパックを置いている。取ってくるから、ちょっと待ってくれ」
白コートの男は三人に背を向けると、八目猿の死体に目もくれず入り口へと向かっていく。
警戒する素振りを一切見せずに背中を晒す男を見つめ、三人がニヤリと口元を邪悪に歪める。女がそっと仲間の背に手をやると直接脳内に声が響いた。
『どうするのよ、あのお人好し』
『仲間にするのもありだが協調性ねえしな。ここは殺して俺たちの糧になってもらおうぜ。あれだけ強ければ経験値もたっぷり持っているだろうしな。ついでに食料もいただくとするか』
『いつもの流れね。プレイヤーの経験値って美味しいから、これでまた強くなれるわ』
『かあーっ、悪党だねぇ。でもまあ、遠距離攻撃と罠に特化している相手なら簡単にやれそうだ。ここで人助けをするようなお人好しは、いずれ酷く騙されて死ぬだけだろうし。俺たちが引導を渡してやるのが優しさってもんだ』
自分勝手な論理で武装した三人は、無防備に入り口へと歩いていく男の背中に向けて駆け込んでいき、その武器を全力で突き出した。
捉えた。三人の思いがシンクロする完璧な一撃。確実に殺れたと確信していたというのに、鈍い光を放つ刃と鉛の弾丸は何もない空間を素通りしていく。
「そうくるよな」
冷たい声が三人の側頭部から聞こえ、慌てて振り向いた日本刀を持つ青年の姿が、仲間たちの視界から突如消える。
そして、廃墟の壁際から鈍い激突音がしたかと思うと、そこには力なく横たわる青年がいた。
「なっ、あんたっ」
女が三又の槍を構えるより早く、石の棒が脇腹に潜り込むとその場に崩れ落ちる。
残り一人となった迷彩服の男は震える手でアサルトライフルを何とか握っているが、そのトリガーを引くことができないでいた。
目の前にいる白いコートの男は黙ってこっちを見ているだけだ。それだけだというのに、足が震え心臓が掴まれたかのような息苦しさを覚える。
「あ、あんた、近距離戦もやれるのか……それだけ強いのに、何であんな姑息な戦い方を」
「姑息か。勝つ為に最善を尽くすだけだ。傷を負わずに楽に勝てるなら、それに越したことはないだろ。それに、ああいう戦い方を見せると油断してくれる輩がいるからな」
それが自分たちを指していることは迷彩服の男も理解できた。嫌味に対して何か言い返そうという考えも浮かばない。
圧倒的な力量の差を前に命乞いをすることすら頭に無かった。
「な、何で、俺たちが襲うとわかった。魂技の力か」
「そんな便利な魂技は所有してないな。ただ、初めから信用していなかっただけだ」
「な、なら、何故助けた! 信用できないなら助けなければいいだろ!」
自分が怒鳴りつけていい立場にいないのは重々承知しているのだが、それでも迷彩服の男は叫ばずにはいられなかった。
この状況で混乱した心を少しでも落ち着かせるには、感情をぶつけるしか手段が思い浮かばなかったのだ。
「俺は誰も信用しない。だが、やりたいことはやる。助けられると思ったから助けた、それだけだ。そこから裏切るのも生き延びるのもお前たちの自由だからな」
迷彩服の男は何を言っているのか理解ができなかった。
あの裏切りと殺し合いを繰り返したダンジョンを制覇しておきながら、そんなことを口にできる男が――理解できなかった。
あそこでは人を裏切り罠にはめてどうやって自分だけが助かるか。それだけを考えて生き延びてきた。あれを経験してこんな態度が取れるわけがない。そう、俺たちのようになって当然なんだ、男は自分にそう言い聞かせようとした。
けれど、怒りも哀しみも浮かべることのない男の顔を見ていると、例えようのない感情が胸中で渦巻く。
「誰にも期待はしていない。ただやりたいことを……したまでだ」
「お前、お前は何なんだよっ!」
男の悲痛な叫びに何も応えず、小さく頭を振って大きく息を吐いた。
「そいつらも死んでない筈だ、後は勝手にしろ。ただし、二度と俺の前に現れるな。今度は一切の躊躇なく……殺すぞ」
放心状態で膝から崩れ落ちた迷彩服の男を無視して、白いコートの男は立ち去っていく。
暫くそうしていた男だったが力なく立ち上がると、よろめきながらも仲間の元へ向かう。
近くで崩れ落ちている女も、壁際に吹き飛ばされた男も確かに死んでいなかった。内臓と骨が何本かいっているが、命が助かっただけでも儲けものだ。
人を逸脱した自分たちならこの程度の傷、半日休養すれば動ける程度には回復するのはわかっている。回復薬があれば早期に治せるのだが、この階層で全て使い果たしてしまっていることを男は思い出した。
「あいつは、何者なんだ……」
既にいないとはわかっているが入り口まで進むと、怯えながらも辺りを見回す。
すると、入り口脇の壁際に人の頭がすっぽり入るぐらいの袋が置いてあった。
あの男が残した罠かとも警戒したが、助けておいて今殺す意味がないと判断して中身を調べると、中には回復薬と食料が詰まっていた。
この量は一人であれば一週間は軽く持つ量だ。三人で分けるには潤沢とはいえないが、邪神の塔での食料や回復薬の価値は同量の金銀財宝よりも重い。
「ああっ、くそっ、くそがああっ!」
袋を抱きしめ男は号泣した。
自分があのダンジョンで無くした、人の心を男が持ち続けていることに……人として完敗した自分の情けなさに涙が止まらなかった。