少女と猫とカッターナイフ
少女はペンを持ってから、かれこれ数時間は悩んでいた。
なにしろこれが少女の人生における、最後のメッセージになるからだ。
何度も書き直してやっときれいに書けた「遺書」の二文字を眺めて、少女は少し笑った。
例えば、気に食わないクラスメートにいじめられていた事にするのもいい。如何にもな意味深ポエムを残すのもいい。
少女は幸せだった。自分の人生を終える理由を、今は自分で好き勝手に決められるのだ。
元々望んで生まれたわけではない。だからせめて死ぬときくらいは望んだときに死にたい。なんて乙女チックな願いだろうか。
多少無茶な理由であっても、人の死というエッセンスが虚構を事実へと味付けしてくれる。
この瞬間に限り、少女は世界最高の創作者だ。
少女は悩んだ挙句、楽しいことを思いついた。手の届く場所に待機させておいたカッターナイフを手に取る。
そして、左の手首の青い筋にぷつりと当てた。
小さい痛みと共に皮膚の切れ目から血液が漏れる。
微かに震える右手の小指に血をつけて、紙に触れて横に擦る。
赤い線が引けた。
効率は悪いし結構痛いけれど、
この方がなんとなく、
遺書っぽい。
再度、少女は悩んでいた。目の前の机の上には赤い「遺書」の文字。
「書」の方は「遺」に比べてなんだか文字が薄いけれど、この方が切羽詰っている感じが出ているんじゃないだろうか。
少女はそういって自分を納得させて、肝心の文章を考える作業に戻った。
そうだ、現世に飽きたなんていうのはどうだろう。なんだか哲学的だし、聡明に見えることだろう。
延々と考えていても仕方がない。少女はまた、カッターナイフを構えた。
そしてその銀の刃を手首に、
─にゃあ。
背中の方から、声がした。
いや、そんなはずはない。部屋のドアは閉めている。窓はここ数日開けてすらいない。
母はもういないし父は出勤中だ。仮にいたとしても突然猫を連れてくるような人間ではない。
だからつまり、猫なんているはずがない。
だが実際、声はした。聞き間違えようのない猫の鳴き声である。
少女はカッターを構えたまま首だけをゆっくり後ろに向けて、いるはずのない猫の姿を探した。
漫画のコミックスがぎっしりと詰められた本棚。朝起きたままの状態で放ったらかしにされたベッド。
そして、乱暴に払い除けられた形跡の残っている桃色の布団の上に、それはいた。
若草のような薄緑色の体毛、ひょりと生えた長い尻尾、おはじきみたいなつぶらな瞳。
奇妙なことにその猫は、人のように二本足で立っている。
─にゃあ。
こんな形でも自分は猫なのだと証明するかのように、
猫はもう一度鳴いた。
気が付けば、カッターナイフは机の脇に落ちていた。手首の血は赤黒く変色し固まり始めていた。
少女は軽く目眩のする頭を抑えながら立ち上がり、ベッドに近づく。
猫は動かない。一定の距離を保ちつつ、少女は猫を観察する。
どこか懐かしい愛嬌のある顔。
「あなたは、何」
乾燥してゴムのようになった唇を動かして、少女は言った。
猫に話しかけるなんてきちがいのようだ、少女はそう思った。
だがそれと同時に、この猫なら答えてくれるのではないか。そんなことも、ふと思った。
けれども猫は期待に反して、にゃあ、と鳴いただけだった。
そして、のそのそとベッドから降りると、落ちていたカッターナイフを咥えドアから出て行った。
夢のようだ。
ドアを体で押してのんびりと外へ出て行く猫を見ながら、少女は金縛りにでもあったかのように動かないでいた。
邪魔をしてはいけない気がした。
猫が部屋から出ていったあたりで、我に返った少女は慌てて後を追った。机の上の遺書はポケットに押し込んだ。
あれが、カッターナイフがなければ私は死ねない。
ずっと息を止めていれれば死ねるのかもしれないが、そんな格好悪い死に方は嫌だった。
少女はあくまでも手首を掻き切って死にたかった。
部屋から出ると、猫はまだ廊下を歩いていた。あいかわらずのそのそと、慌てているこっちが馬鹿みたいだ。
猫はどうやら庭のほうに向かっているらしい。
ふと、興味がわいた。この猫は庭に出て、そしてどうするつもりなのか。
猫ならどこか餌でも探しに行くのではないか。だがこの猫は違う気がした。
本当に狂ってしまったようで、少女は少しおかしくなって笑った。
どうせこんなのろまな猫だ。カッターナイフなんていつでも取り返せる。それよりも今はこの猫の目的の方が気になるのだ。
少女は急ぐ足を止めて、猫の後ろ姿を眺めた。
やはりどこか懐かしい感じがする。
しゃん、と鈴のような音がした。
猫は庭に出ると、芝生の上を歩きながら少女の方を見つめてきた。
小さな丸い瞳に少女の顔が映る。魚眼レンズみたいだと、少女は思う。
髪は荒れていて頬もやつれている。少女は少し嫌な気分になった。
「何よ」
またきちがいになってしまった。
猫はまた前を向いて歩き出した。
どうやら庭の端の物置を目指しているようだ。
物置の扉は少し開いていた。
外からは鍵がなければ開かない仕組みなのできっと前に整理した時に閉め忘れていたのだろう。
猫は躊躇いもなく物置の中に入っていく。
「あっちょっと、押しつぶされるよ」
少女も慌てて中に入り、猫を外に出した。
かなり適当に積まれた荷物は、さながらバランスゲームのようにいつ崩れるかわからない。
例えばバーベキュー用の折りたたみ式コンロ。これが落ちてきたらのろまな猫一匹くらい簡単に潰せるだろう。それに無駄に大きくて安定していないから、コンロの下にある薄汚いぬいぐるみ一つ引き抜けば簡単に落ちるはずだ。
ふと、少女の目にぬいぐるみの下にある小さな箱が映った。
─にゃあ。
安っぽい金メッキと水飴みたいなピンクのダイヤモンド。子供だましの装飾が施されたその箱は、薄暗い物置の中で、不思議と輝いて見えた。
少女はガラクタの塔が倒れないように、そっとその箱を引き抜いた。ちゃちな外見の割に、意外と重い。
プラスチックの錠前を無理やりこじ開ける。止めている部分を少し捻れば簡単に開くのだ。
中からはこれまた安っぽいアクセサリーがいくつかと、ぼろぼろの手紙が出てきた。
少女は手紙を開いて、読み上げる。字が汚い。
「100年ごのわたしへ。けっこんはしましたか?子どもはたくさんできましたか?わたしはまだちっちゃいからよく分からないけど、多分100年ごのわたしはとってもたのしく生きているとおもいます。だからもっともっと長生きしてもっとたのしいことを見つけてください」
─楽しく生きている?100年後?
紙を持っている手が、何故か震えている。
─100年どころか、私は20年も生きれないよ
少し思い出してきた。
これはたしか、小学生の頃に書いた「未来の自分への手紙」だとかいうやつだ。
それにしても、百年後だなんていうのはさすがに馬鹿じゃないのか。
「でも、もし、かなしいことがあるなら、いつもみたいにねこしゃんしゃんに相だんすれば良いとおもいます。ねこしゃんしゃんはぬいぐるみだから、きっとわたしがいなくなってもずっと生きているはずです。それに、ねこしゃんしゃんがいればお母さんもずっといっしょだから、かなしいことなんてすぐわすれちゃうよ。わたしが言うんだから大じょうぶ」
─ねこしゃんしゃん?それは、
剥がれた。
ずっと封をしていた、箱の蓋が開いた。
少し捻れば簡単に開くのだ。
もう見たくもない思い出が手紙のスクリーンに映る。
大きな木箱。中にはお母さんが入っている。
黒い額縁に入れられたお母さんの写真を持ったお父さん。その横をわたしは歩いている。
ポケットには、緑色の猫のぬいぐるみ。お母さんが誕生日にくれたプレゼント。
お父さんの硬い腕が、私を横から支えた。
お父さんは優しい声で何か言っていたけれど、よく聞こえないから、わたしはぎゅっと猫を抱きしめた。
いや、猫じゃない。お母さんがわたしに渡す時につけてくれた、ちゃんとした名前があったはず。
振ると中のビーズが鈴みたいにしゃんしゃんと鳴るから、名前は──
頬を涙が伝った。
手紙に雫が落ちた。
きっと、雨だ。
雨が降り始めたのだ。
─にゃあ。
そうだ。
少女は手紙を持ったまま首だけをゆっくり後ろに向けて、いるはずのない猫の姿を探した。
庭一面に植えられた青い芝生。いつか手入れをした時からずっと放ったらかしにされたシャベル。
猫はもう、いなかった。
雨が降ったから、どこか屋内に逃げてしまったのだろう。きっとそうだ。
だから、後でちゃんと洗ってあげないと。
芝生の上で太陽の光を反射してカッターナイフが落ちている。
少女はそれを拾い上げた。
刃には血がこびり付いていた。
少女はポケットから冗談みたいな遺書を取り出すと、その刃でびりびりに引き裂いた。
(了)
ワンデイクオリティなので誤字脱字が酷いと思います
じゃんじゃん指摘してあげてやってください