唇
第五話
「ちょっと向こうの方、見てくるー!」
家族から離れて浜辺を歩いていると視線の先に少し大きめの白い岩が見えた。
岩の向こうは一人もいないし、こちら側をきれいに隠しているようだ。
(あそこならあんまし人目につかないよね)
海水に浸かりそのまま泳いで岩の向こうへと回り込む。その場所は日に当たっていないので海水が肌に心地いい。しばらく波に揺られながら身体を浮かして目を瞑っていた。
水と水がぶつかり音を立てて私の鼓膜を震わす。たまに風が前髪を攫い顔を隠そうとする。
久振りの海を一人満喫する私は、それから何分間かずっと波に身体を預けたままだった。
流石に体も冷えてきて浜辺に上がれば、仄かに熱を持った砂が足元から温めてくれる。ふわっとそのまま後ろに倒れこむと柔らかい砂は優しく受け止めてくれた。
真上に見える空は青く澄みわたり、雲は風に流れている。そして羽を広げた鳥は優雅に空を舞う。
眺めているだけで体から力が抜け徐々に瞼が落ちてくると、そのまま目を閉じ意識は薄れていった。
*
耳の横で砂が音を立てているような気がした。
すっかり眠っていた私に、少しずつ周りの音が戻ってきた。
まだ瞼が重く目を開けずにうつらうつらしていたら、急に顔の上に影ができて微かな光すら入らず薄暗くなる。
(雲に太陽、隠れちゃったかな…)
だが、少し涼しくなった顔の温度に表情が緩みゆっくりと目を開く。突然の外の明るさに目が慣れず視界がぼやけていた。目の前に何故か薄っすら人肌が見える。はだけたシャツからのぞくお腹には薄く筋肉がついていて水に濡れていた。視線を正面に上げた時、黒髪をした頭が頭上に降ってきた。
私の唇に触れた、温度を持った相手の唇。
思考が追いついてこない私は目を見開いたまま体を動かすこともできずされるがままになる。
目の前の男は顔をずらし角度を変え、また唇を合わせてきた。
ようやく何が自分に起こっているのかを理解した私は顔のよく見えない相手を必死に上から引き剥がそうともがくが、男の力に私ではびくともしない。
スリットの入った水着から出た足を捻ってみるが相手の足で押さえられ、両手は上から両方押しつけられた。
「ちょ……誰…!」
止めるつもりで開いた唇の隙間からいきなり相手の舌が入り込んできて、触れるだけだったはずのキスが深くなる。
息の仕方もわからず段々と苦しくなってきて自然と涙が零れた。酸欠のように視界が再びぼやけ始めた頃、ようやく相手の男は口を離し何かを呟いた。
だがもう意識がもたなかった私に声は聞こえず、私は静かに目を閉じた。
その後すぐに気配が消えたのを感じ、私は眠りについてしまった。
あの時顔は見えず、特徴として覚えていたのは黒髪、細身だが薄く筋肉のついた体だけ。多分身長は私より少し目線が高いぐらいなんじゃないだろうか。何故あんな事になったのか、あの場所に行った私が悪かったのか、ただの偶然だったのか。
第六話に続く。