女王陛下のお悩み
女王は元は国の人間ではない。生まれは、今はない隣国の出身だった。結婚して十数年目に愛する夫に先立たれ、後を継ぐべき息子たちがまだ幼かったため、いつか息子の一人が成長して王位を継ぐまでの間だと思ってその地位に就いた。
この城で彼女が訪れる部屋には必ず先王の肖像画が飾られている。女王が亡き夫から王位を継いだとき、亡き夫のように立派にこの国を治められるようにと己への縛めに飾らせたものだ。
幸い、彼女には政治的な才があったようで、国は先王の頃より豊かになったほどだ。側近にも恵まれ、近隣の国々とも友好的な関係を結んでいる。
だが、女王には唯一にして最大の悩みがあった。
「アイロス、おまえはいつになったら結婚するつもりです」
女王は、自分の執務室に呼び寄せた息子に向かってそう言った。春になってから六回は口にした台詞だ。
アイロス・ジークベルト・ゼネレスは彼女の若い頃に似て、華やかに整った容姿をしている。女王は、自分の容姿にまったくこだわりはなかったが、この容姿のおかげで自分が貧しい国の姫であったのにも関わらず、数々の高貴な姫君を差し置いて亡き夫の目に留められる機会が得られたことや、現在も美しい微笑と必死な努力だけで元は異国の出身である女王が国民の支持を得られたことに感謝していた。
「母上、私はまだ結婚するつもりはありません」
息子の答えに母親は「アロイス」と眉を顰めた。春になってから六回は返ってきた答えだ。
「この間の舞踏会でもおまえのお眼鏡に叶う方はいなかったそうですね? あれは国内外問わず、おまえの花嫁を探すために開いたそれはそれは盛大な舞踏会だったのですよ。いったいどんな姫君なら気に入るというのです。東の果ての島国から姫君を引っ張ってくるつもりですか?」
「あるいは」
女王は頭痛を覚えてこめかみを押さえた。彼女の苦労を表すようにきれいに結い上げた黒髪が一房はらりと零れる。
彼女が夫の後を継いで女王となってからの計画では、次の後継者である息子を十六の年に結婚させる予定だった。少し早いかもしれないが、この先どんなことがあるかわからない。それこそ、愛する夫のように突然の死が彼女自身にも訪れるかもしれない。健康だった夫の死からその教訓を得た女王は、上の息子が十三のときから花嫁探しを始めた。
ところが王子が十八になる今も女王が熱望した花嫁の姿は影も形もない。
「王族や貴族の娘がだめなら、教皇の孫娘はどうです? おまえより五つは上になりますが、見目麗しいそうですよ。おまけにとても賢くて四ヶ国語を自在に操れるそうです。きっとよき王妃としておまえの手助けになるでしょう」
「いいえ、母上」
母親の提案に王子はきっぱりと首を横に振った。
「教皇の孫娘であっても私は結婚するつもりはありません」
「では、誰となら結婚するというのですか!」
女王は癇癪を起こした子どものように黒檀を力任せに叩いた。控えていた侍従たちがびくりと身をすくめる。
「母上」
慣れない癇癪に息を乱す母親にアイロスは言った。
「私は母上と父上のような結婚をしたいのです」
女王は動きを止めた。
「私と・・・陛下・・・のような?」
アイロスはうなずいた。
「ええ。母上は父上と結婚する以前・・・今はない国の姫君でいらっしゃったころに父上とお会いしたとお聞きしました。・・・父上はおっしゃっていました、自分は運命の人を見付けたのだと」
息子の言葉に女王は自分の娘時代の記憶が蘇った。
彼女は生まれこそ高貴だったが、母親の死後に後釜に納まった継母に厭われ、不遇な娘時代を送っていた。いつもボロを着てみすぼらしい格好をし、おおよそ一国の王女には相応しくない貧しい生活は、城で働く下働きの娘すらも同情したほどだ。元々気の弱い父親は、何事も勝気な新妻に逆らえず、実の娘がどんな仕打ちを受けても見てみぬふりをしているだけだった。
一番惨めな思いをしたのは、継母が自分の誕生日に開く盛大な夜会だった。その日だけは日頃から義理の娘が表舞台に出るのを嫌がる継母も、華やかな席に出席させることを許した。
優しさからではないというのは誰の目にも明らかだった。美しく着飾った貴族の娘たちの前で、王女であった彼女は召使でももう少しマシなものを着ているであろうというくらい貧しいドレスを着せられた。
羞恥心で口の開けない彼女を前に、継母は上品そうに口元を羽扇で隠しながら言った。もちろんその扇の陰には隠しきれない笑みが浮んでいる。
『姫君ったら、わたくしがどんなに別のドレスを着るように言っても、このドレスがいいとおっしゃるのですよ。本当に変わった方だわ。前の王妃様の血なのかしら』
死んでしまいたいと何度思っただろう。継母に怒りを覚える前に、こんな仕打ちを受け、生みの母まで侮辱され、何一つ言い返せない自分が殺してしまいたいほど憎かった。
『確かにおもしろい姫ですね。・・・そして、この場で一番美しい』
ふわりと肩に掛かったのは見事な錦のマントだった。顔を上げると優しげな茶色い瞳と視線がぶつかった。
「母上、母上、聞いていらっしゃいますか」
女王はかつての思い出で熱くなった胸をそっと現実に引き戻した。
「聞いていますよ」
「私はつまらない縁談で結婚を決めるのではなく、私の魂に従って相手を決めたいのです」
女王は息子の瞳を見た。父親と同じ茶色い瞳には真剣な光が浮んでいる。
彼女は溜息を吐いた。
「おまえは大馬鹿ではありませんか。そんなもの結婚するまで誰にもわかりません」
「だから、結婚相手は慎重に決めたいのです」
「一目見た瞬間ぴんと来るとでも? それまでにいったい何人の娘を振るつもりですか? そんな調子では見付かるものも見付からないのですよ」
口では厳しいことを言うものの、内心は私に似てなんて馬鹿な子・・・という気持ちが大きかった。
女王もかつて娘時代にそろそろ結婚をと周囲に考えられた頃、継母からひどい仕打ちを受ける王女を不憫に思っていた大臣の一人が、遠い国の貴族との縁談を進めようとしたことがあった。しかし、それを聞いた彼女は頑として断った。こんなつらい境遇であってもいつの日か運命の人と出逢い幸せになる日が来ると夢見ていたからだ。そう、目の前の息子と同じように。
再び女王は溜息を吐いた。
「わかりました。そんなに運命の人を見付けたいのなら自分で探していらっしゃい」
アイロスは弾かれたように母親に目をやった。
「母上」
「おまえの運命の人は夜会ごときでは見付からないようですね。旅でもしてあちこちを見て回るのがよいではないのですか。―――金貨と馬、それから従者を用意してあげましょう。それで好きなところへ花嫁を捜しに行きなさい」
女王の発言に、控えていた侍従たちがこの世の終わりだと言わんばかりに真っ青な顔をする。
「じょ、女王陛下」
「お、お待ちを」
「どうかお考え直しを」
だが、誰に何と言われようが女王は自分の意見を変えるつもりはなかった。息子の頑固さは母親譲りなのだ。
「感謝したします、母上」
「喜ぶのはまだ早いですよ。代わりに、この花嫁探しには期間は定めさしてもらいます。五十過ぎても運命の人を探し続けるようではかないませんからね」
女王は人差し指を立てて息子に示した。
「一年です。この一年の間に運命の人とやらを連れて戻っていらっしゃい。それがだめなら私の決めた縁談で素直に結婚してもらいます」
やっとアロイスは首を縦に振った。
「わかりました、母上。お約束します、一年で運命の人を母上の前に連れてきましょう」
王子が女王の執務室から退席すると、執務室の奥の扉から赤毛の側近がそっと現われた。
側近は、先王の時代から国王の側近を務めている男で、女王も王位を継いだときにはよく助けられた側近中の側近と呼べる男である。
「今の話、聞いていたかしら。あの子に必要なものを見繕ってあげてちょうだい」
「お任せください、陛下」
女王は何か考えるように頬に片手を添えた。その仕草は、成人を迎えようとする息子たちがいるとは思えないほど優雅で美しく、側近と侍従を魅了するのには充分だった。
「・・・。それからもう一つ――――」
女王は側近を呼び寄せるとその耳元でそっと囁いた。
アイロスは再び回廊を歩いていた。
ヴァイス、つまりは『白』と名付けられたこの城は、白色を基調として設計されている。回廊は、柱や廊下、天井や床に至るまで雪のように真っ白だった。その回廊の奥から見知った顔が歩いてきた。
「エルマー」
エルマー・ジシャ・ゼネレスは、アイロスの一つ違いの弟だ。父母の容貌を色濃く受け継ぐアイロスとは異なり、エルマーはあまり両親に似ていない。どちらかといえば小柄で、貧相な体付きをしたエルマーは、父方の祖父に似ていると言われていた。
「兄上、また母上に呼び出されていらっしゃったのですか」
エルマーの瞳はアイロスよりもずっと優しげな茶色をしている。・・・もっとも兄弟で似ているといえるのはこの瞳の色くらいなのだが。
ちなみにアイロスが栗色の柔らかい髪をしているのに対し、エルマーは赤みがかった金髪でまったくうねりのない真っ直ぐな髪質だった。
「結婚の話だったよ。いつものようにおまえはいつになったら結婚するのかと迫られた」
「仕方ありません。兄上はこの国の後継者なのですから」
アイロスがどこに行くのかと問えば、エルマーは図書室にと答える。しばらく二人は並んで歩いた。
「どうして兄上は結婚なさらないのですか? 兄上ほどの人物ならどんな姫も選り取り見取りでしょうに。さっさと結婚してしまえば、母上も安心して今のようにしつこくおっしゃらなくなりますよ」
母親が兄ばかりに干渉しているのは、同じ息子としてエルマーに少なからず嫉妬を覚えさせた。だが、母親はもちろんのことこの優秀な兄のことも大切に思っていた彼はその嫉妬を表面に出すことはなかった。
「私は運命の人が現われるまで結婚するつもりはないよ」
「またその話ですか」
エルマーは苦笑する。エルマーも両親がロマンチックなラブストーリーの果てに結ばれたことはよく知っている。いや、国民のほとんどが知っているだろう。巷では、女王と先王の恋物語に感銘を受けた劇作家が舞台にまでしたと聞いている。街娘から貴族の令嬢に至るまで涙でハンカチをぐしょぐしょに濡らすほどの出来だそうだ。
「兄上、運命の人なんてどう現われるのか予測がつかないものです。もしかしたらこの間の舞踏会で出会っていたかもしれない。一つ縁談を受けてみてはいかがですか」
「おまえも母上の手先か」
何人の人間に同じことを言われたのか、アイロスはどこかうんざりとした表情をした。
「手先です。僕はもちろんこの城の者は皆、一日でも早く兄上が麗しい姫と結ばれて幸せになることを願っているのですから。あ、でも城で働いている若い娘たちは違うかもしれません。兄上の運命の人がもしかしたらどこかの令嬢ではなく自分かもしれないと夢見ているようですよ」
「それもありえるな。洗濯娘と結婚すればとりあえず毎日着るものには困らない」
「兄上、王妃にそんな仕事をさせるつもりですか」
「冗談だ。おまえの指摘する箇所もおもしろいがな」
ヴァイス城の図書館は、先先王の王妃の好みにより各国の物語を中心に何万冊という蔵書を誇っている。図書館の入り口には赤と金の顔料で美しい模様が描かれ、来る者を歓迎していた。
赤と金の模様の門で兄弟は別れた。弟が図書館の奥に消える直前、アイロスは彼を引き止めた。
「―――そうだ、エルマー」
「はい?」
「私はしばらく旅に出る」
「・・・は?」
エルマーは優しい茶色い瞳はこれ以上にないほど見開かれた。
「一年ほどあちこちを回って花嫁を探すつもりだ。それまでおまえが女王陛下を補佐してくれ」
アイロスは弟の返事も待たず颯爽と引き返していった。その凛々しい姿に召使の娘が卒倒しそうになる。
いや、エルマーも卒倒しそうだった。
「いや、兄上、あの、ちょ・・・っ。兄上・・・!」
エルマーの声だけが兄を追いかけてく。だが、アイロスの足並みが衰えることはなかった。