王子アイロス
ヴァイス城は近隣の国の中でも一、二位を争えるほど美しい城だった。城の壁は真っ白な雪のように輝きを帯びていて、広々とした城の庭園は一年を通して庭師たちの手によって夢の国に迷い込んでしまったと錯覚させるほど美しく整えられている。
その自慢の庭園で、勇ましい少年の声が聞こえていた。庭園の噴水の側で、栗色の髪をした少年が剣士を相手に熱心に剣を振るっているところだった。
「そう、重心を前に持ってきて。脇を締めて、そう。お見事ですよ、アイロス殿下」
指南役の剣士が少年を褒める。
栗色の髪の少年に剣の指導をしている剣士は、もとは各国を旅して剣の腕を磨いている男だった。だが、数年前このヴァイス城の主の前で剣の技を披露したことがきっかけに、城主の息子たちの剣の指導役に抜擢されたのである。
彼の教える生徒の一人、城の主である女王の息子、アイロス・ジークベルト・ゼネレスは優秀な生徒だった。生まれつきの運動神経のよさがあったのもあるだろうが、何よりも練習熱心で、同じく剣士の教え子である弟王子が剣を苦手としているのと比べると、めきめきと腕を上げつつある。
「殿下、今日のところはこのくらいにしましょう」
剣の指導は昼餉を終えた直後に始めたが、だいぶ日が傾いてきている。剣士が終わりの合図に剣を鞘に戻すと、城の回廊の陰で隠れて稽古を見ていた城の娘たちの落胆の気配がした。剣士は苦笑する。我らがアイロス王子は異性にとても人気が高いのだ。
近隣諸国にその美貌で名を轟かせた女王譲りの容貌に、まだ成長途中だが父王に似て背が高く均整の取れた身体つき、剣の腕もそうだが剣士が聞きかじった話によると、学業においても中々優秀な成績をとっているようだ。これでは娘たちから熱い視線を受けないというほうが無理な話だろう。
アイロスは笑みを浮かべながら剣を構え直した。
「先生、もう少し付き合ってください。夕餉の時間までまだ時間があります」
アイロスは、剣の指導を受ける際、剣士に権威をもった態度で接する。これは剣士が強要したわけではなく、剣士がたまたま自分の生徒時代の話をして、アイロスが勝手に真似し始めたことだ。
剣士は苦笑して王子の背後を示した。
「どうやら夕餉までに稽古の続きをする時間はないようです、殿下」
王子付きの侍従が控えている。
「どうした?」
稽古の邪魔をされたせいか少し不機嫌そうにアロイスは自分の侍従に声を掛けた。
「女王陛下が殿下をお呼びでございます」
アイロスはこめかみを伝え落ちる汗を拳で拭った。自分ではそれほど動いてないつもりだったが、動きを止めると体の中の熱が空気に冷やされてぶわっと汗が浮かび上がってくる。
「わかった。母上には着替えてから向かうとお伝えしろ」
「畏まりました」
侍従が下がる。アイロスは教師に向き直った。
「それでは、先生。また次の機会にお願いします」
アイロスが去る姿を見送りながら、回廊の柱の陰で熱心に見つめていた洗濯娘はそっと溜息を吐いた。
「ああ、なんて凛々しいお姿」
料理娘も同意する。
「あんなに素敵な方は滅多にいらっしゃらないわ」
侍女がうっとりと呟いた。
「見目麗しくて、高貴で、頭も良いなんて。ああ、あの方と結婚できる姫君は幸せね」
この春で彼女らの王子は十八になる。いつ花嫁を迎えてもおかしくない年齢だ。冬に催された国内外の王侯貴族を招いた盛大な舞踏会では、妙齢な淑女たちが堂々としたアイロスの姿に色めき立っていた。
洗濯娘がふと疑問を口にする。
「どうして殿下は結婚なさらないのかしら? この間の舞踏会でも姫君方とは何もなかったわ。今までだってあんなに素敵なのに恋人すらいらっしゃらいもの」
アイロスもよい年齢である。美しい女性を見ればそれなりに心を動かされるはずなのに、舞踏会では淑女たちと華麗なステップを踏んだもののそういった色っぽい話はまったく出なかった。
「あら、あなたあの噂を知らないの?」
料理娘が驚いたように洗濯娘を見る。
「え? 何?」
すると、侍女は心得たように頷いた。
「ああ、あの噂ね」
「だから、何よ。教えてよ」
愛しい王子について知りたくてたまらないといった様子の洗濯娘に、すでにその噂を知っている料理娘と侍女が笑い合う。
「いいわ、教えてくれないのならあんたたちがこっそりと来客用のケーキの残りを食べちゃったこと言っちゃうんだから」
洗濯娘の言葉に料理娘と侍女は悲鳴を上げた。
「やだ、見ていたの! お願いだからバラさないで。私、首になってしまうわ」
「お願いよ! 誰にも言わないで!」
もちろん洗濯娘はそんな意地の悪いことをするつもりはなかった。そばかすの浮いた顔をにっこりとさせる。
「じゃあ、教えて」
料理娘と侍女は一瞬悔しそうな顔をしたが、すぐに気を取り直してその噂を口にした。
「アイロス殿下が結婚もなさらないで、恋人も作られないのはね・・・」