いつかの約束 2
想像しなかったと言えば、嘘になる。
あのひとの体に埋もれている、彫りだされるのを待つ“なにか”のことを。
かくありたいカタチがある、と誘惑するごとくに、囁いてくる声を、何度聞いたことだろう。
あの人が口にするより以前から、その声は響いていた。
その声以上に、かれの咲かせる花に、心ひかれていたから……それなのに。
何故、己を投げ出すようなことを言うのだろうと、長いこと疑問に思っていた。
「あなたは、己の力を余すところなく、使いたかったんでしょうか」
この声が届くはずもないけれど、白い息とともに言葉を吐き出した。
遠い面影のひとから返事が返るはずもなく、音さえ聞こえない静寂があたりに満ちていた。
持って生まれた力なら、使わないと意味がないと考えるような。けれど。
「あなたの中に在るものは……カタチにしない方がいいモノだったと云っても……今更でしょうね」
かの人が抱いているものは人々を惹きつける素晴らしいモノになるはずだった。形にしていたならば。
けれど、同じくらいよくないモノでも、あったのだ。
人々の注目を集めるものは、いいモノもわるいモノも呼び込んでしまう。 アレをカタチにしたとして、自分には“わるいもの”も引き寄せてしまうものしか、彫れそうになかった。
あまりに人を惹きつけるゆえの、弊害。
それは時を重ねた今でこそわかるものであるけれど。
あなたは、それすら判って言っていたのでしょうか。
あれ、と不思議に思った。視界一面が白に覆われている。ああ、倒れたのだと他人事のように思った。
痛みもすでに遠く、冷たさも感じない。
起き上がろうと思っても体が動かなかった。
そろそろなのかなと頭の片隅で、奇妙なほど冷静に思う自分が居た。
あの人の花を見られなくなって、はや数年。
徐々に体が動かしづらくなってゆき、今では寝ている時間のほうが多いほどだ。“その時”が近づいていることを、感じていた。
彫師としての仕事を受けるのはとうに止めており、今では手慰み程度に彫ったり、近所の者に頼まれた物を彫ったりなどする程度だった。
目も薄くなったし、手も思うように動かなくなった。
動かない手に、苛立ちを感じたときなど思ったものだ。
もし……もしも、この手がよく動くうちに、あの人の望みを叶えていたら。あの形を彫り出せていたら。
それは、どんなに素晴らしいものになっただろうかと。
間違いなく、己が仕上げたもののうち、一番素晴らしい出来のものになっただろう。
身の内が灼けるような思いを感じた。
けれど。
動かない頬で、かすかに笑った。それはたとえばの話。どんなに素晴らしいものになるとわかっていて、己は“しない”ことを選択したのだから。
それを間違っていたとは思わないけれど。
それでも……思うことは自由だ。
彫り出されなかった形を想像し、その肌触りやぬくもり、艶を思い描くことは。
ああ、なんだか眠くなってきた。
目を閉じる前に、小さく呟いた。会えなくなってから、ずっと口にしなかった、名前を。
「 」
「やっと名前を呼んだかと思えば、最後の最後か……」
お前らしいなと、聞こえるはずのない……懐かしい人の声がして。
夢幻でも、最後にこの声が聞こえるなら、なんと幸せなことよと思っていると。
「お前のことだから“これは夢だ”なんて考えているんだろうが、生憎これは夢じゃないのさ。……まだ眠るんじゃないよ」
俺の声が聞こえるかと、笑い混じりの声で囁かれ……のろのろと目を開けて、ようよう顔を上げて、見たものに。
己の目を疑った。
雪の降り積む枝の下。しろい花が咲いているようにも見える枝の下に。
あわい桜色の着物をまとった、花精が佇んでいたのだ。最後に会ったときと少しも変わらない、美しい姿で。
「……何故、此処に」
「ちょっと離れ業をやってのける、伝手があったんでな。力を借りたのさ」
貸しがあったんで、快く引き受けてくれたさと、人の悪い笑みを浮かべ呟く意味は、到底自分にはわからなかったけれど。
「そう……ですか。でも、あなたにまた会えるなんて思っていませんでしたから。嬉しいですよ」
見送りにきてくれたんですかと問えば、花精はいいやと首を横に振った。
「見送りなど、俺がすると思うか?」
そういえばと内心首を傾げる。最後に……そうだ、いつかまた、会うことがあればと言って、別れたのだ。
「それでは、何故です?」
この世を去る見送りでないのなら、遠く離れたこの地へ、なんのためにと問えば。
花精は……こちらに近づいてきて、横たわる自分の傍へ膝をついて、白い手を差し伸べた。
「俺と一緒に来るか?お前ほどの腕があれば、花精でなくとも、人から外れた存在として、在ることも出来よう」
俺がそうなるよう、力を貸すことが出来る。
差し伸べられた手と、彼の顔を交互にみやり、答えた。
「大変有難い申し出ですが……この腕があれば、あなたの望みのことを考えてしまいます。このままお暇したほうがよさそうですね」
「お前の気がかりが、俺の望みのことであるなら、心配など無用だ。俺の中に在るものは、人の手でなくば彫りだせぬ。同族や人外では出来ないのさ。お前の断る理由がそれだけだと云うのなら、俺と一緒に行かないか」
あの木の下で、巡る季節をともに過ごそう。
じわじわと笑みが浮かぶのを、どうにも止められなかった。
「駄目ですねえ……いつかまた、と思い切ったつもりであったのに、貴方からそんな事を言われたら、一も二もなく頷きたくなるじゃありませんか」
「俺にだって、寿命はあるさ。それがヒトと違うというだけで。お前さえよければ、もう少し俺につきあってくれないか」
もう迷いはなかった。
「ええ、俺でよければ、おつきあいしますよ」
頷いて、伸ばされた手を、とったのだ。
途端に、花精がとても嬉しそうに、無邪気に笑ったので。
ああよかったと心の底から思った。嬉しそうな顔をさせられてよかった。と。
「松の精よ、聞こえるか?風を送れ!ひとっ飛びに山に帰るぞ!」
『大声で呼ばわらずとも聞こえている。連れて行く者を落とさないように、しっかり捕まえておけ』
「わかっている。準備は出来たぞ」
『全く人使いの荒い奴だ……行くぞ』
海鳴りに似た、低い声が響き……何が起きるのやらと目を瞬きさせていると。
「しっかり摑まっておけよ」
花精が楽しそうに腰に手をまわし、引き寄せられた。思わずかの人の着物の袷の辺りを掴むと……見えた己の手に、驚いた。
少しも皺のない、張りのある手。
こんな手をしていたのは、まだ自分が青年と呼ばれていた頃のものだ。
「これは一体?」
「驚いたか?人外になれば、己の一番望む時期の姿を取るものだからな」
さああの山に帰るぞと花精の高らかな声とともに、体ごと攫うような強い風が吹いたのだった。
『まったく、人使いの荒い奴だ。たった一度の失言が高くついた』
ため息混じりに洩らされた声に、答えるものはいなかった。
ただ、松の葉を打ち鳴らすような音が、雪で全て覆われたあたりに響くばかりだった。
天の高みから、音もなく降り出した白い欠片。
それは、木々を大地を新たな真白で覆いつくしていく。
しろく……しろく。
『ねえ……なんだか眠くて仕方がないんですけど』
『今は眠る時期だからな。暖かくなるまで、もう少し眠っておくんだ。俺も眠る』
『じゃあ、目が覚めたら、何をしましょうか』
『とびきり楽しい、何か、さ。何だって出来る』
『ああ……とても楽しみですね』
そうして……そうして。季節は巡り。
巡り来る、いつかの日。
満開の花の下で出会う。 いつか、そんな日が来るのかもしれない。
END