いつかあるかもしれない景色
どんなに願っても、その“時 ”は来てしまうもの。
時は来て、流れ去り、残されるものは何?
なにか…・・・欠片でも、残るものは在るか?
長いときを過ごすための、よすがとなるもの、として。
「ああ、良い月夜ですね」
真円をえがく月は天高く上り、冴え冴えとした光を地上に投げかけている。
盃に映る月も小さな円を描き、そして。
「ああ、桜も満開だ……とても綺麗ですね」
ねえ、静さんと春海は穏やかに笑う。
酒もうまいし、言うことなしですよと。
「そうだな」
短く答えて、静は盃を干す。
いまや彼の着物は一面桜色に染まっている。桜の木が満開であるのと同じように。
ほのかな桜の香りと酒の香り、山の濃い湿った匂い……そんなものが一体となり、月の光と混じり心を浮き立たせるものであった。今までは。
「おや、盃が空ですね」
注ぎましょうかと酒瓶を取り上げた春海を、静は押しとどめた。
「いや、今日はもうよしておこう。十分呑んだ」
「そうですか?いつもより少ないくらいじゃありませんか」
春海も盃を空にすると、ことりと地面に置いた。
そうして桜の木を見上げ、ああ綺麗ですねえと子どもの頃から変わらない、あけすけな笑顔で言うのだ。
「毎年同じ事を言っても、何も出ないぞ」
静はつい、意地悪な事を言ってしまうが、春海はそれこそ笑って、
「こんな綺麗なものを見せてもらえるだけで充分です。眼福という奴ですよ」
静は肩をすくめ、そっぽを向くが、それこそが静の照れ隠しである事を春海は知っている。
毎年毎年、桜の咲いている間だけ、ともに過ごす相手である。
長い付き合いになれば、色んな事を知ることが出来た。
桜の季節が巡るたび、春海はそれを心待ちにしてきたものだ。
毎年同じ場所で会う花精は、年を経るたびに見事な桜を咲かせるから。
けれど、自分は。
「毎年、ここに来るのを楽しみにしていたんですけどね、とうとう今年が最後になりそうですよ」
「……それは」
まあ仕方ありませんねと春海は言った。
「さすがに、寄る年波には敵いませんよ」
「俺よりも若いくせに、何を言う」
「そりゃ、貴方に比べれば年は若いですよ……おや、いつだったか、仲間内では自分は若造だって、言ってませんでした?」
「よく覚えているな、お前にとっては、随分前の事だろうに」
「随分前だろうが、覚えていますよ、ええ、多分全部ちゃんと」
ここで過ごす時間が、とても楽しいものでしたからと、春海は目を細めて静と、その背後の桜を見つめた。
はじめてこの木を見たときよりも、幹は太く、枝は広がり、咲く花も零れおちんばかりに……見事になった。
この桜が散ってしまえば、静とは次に花が咲く頃になるまで会えない。
その“次”に……自分は、ここまで来られないだろう。
だから、この目に、記憶に、心に、焼き付けておこうと思うのだ。いつでも思い出せるように。
「俺だって覚えているさ……ふくふくした子どもが、俺の前に転げ出た日も、嫁に貰ってくれるって言った日も、そうそう、初めて一緒に酒を飲んだ日も覚えているさ」
小さな子どもが少年になり、青年になり、壮年になり、そして老境を迎えるのを……ここで、桜の咲く間だけ見てきたから。
そうですね、この機会に色々思い返してみましょうかと春海は笑い、互いに覚えていることを思い浮かぶままに話してみたのだった。
「俺は毎年、お前が来るのが楽しみだったけど、そうだな……少し辛かったよ。どうしてもお前の方が先にいなくなる。そうして俺はここに残されるから」
早く大人になれと願い、いつからか、そんなに急いでいくなと思うようになった。
春海は少し困ったように笑う。
「それこそ、花が咲いては散るのと同じように、留めようの無い事ですよ……でも、白状するとですね」
俺も思いましたよ、もう少し此処に居られたらいいのにと、時の流れが少しでも緩やかであるようにと。
焦がれるような思いで、なにかに願ったけれど。
「でも、静さんの綺麗な花を見ているうちに、年を重ねていくのもいいなと思うようになったんですよ。だって、年月を重ねなければ、綺麗な花は咲かないでしょう?」
静は苦笑するしかない。そうかと言葉を返し、己が咲かせる花を見上げた。
春海と初めて会った時より、大きく美しくなった木だ。それこそ、時が育てたもの……時がなければ、こう在る事が出来ないものだ。
同じだけの時は、子どもを老人にした。
それはある一面では悲しくもあり、寂しくもあり……けれど、喜ばしいことでもあるのだろう。
かつての子どもが、花が咲くように笑っているので、静はそう思うことにした。
ねえ静さん、と春海は言う。
「またいつか、桜の咲く頃に会いましょう。花の下で酒盛りしましょう」
「そうだな、此処でもいいし、何処か違う所かもしれないが」
「そうですね……でも、例えどんな遠くでも、静さんを見つけてみせますよ」
「何せ“嫁候補”だからな。俺の方から探しに行くかもしれないぞ」
他愛ない軽口の中に、紛れさせてしまおう。
寂しいけれど、悲しむべきことじゃないなら、それが、いい。
ああ、と静が思い出したような声で尋ねた。
「いつか聞こうと思って、聞きそびれていたんだが」
「なんでしょう」
「自分が呑めもしないのに、何で盃を二つ用意してきてたんだ?」
それも、子どもの頃から。ああ、と春海は何かを思い出すような、懐かしむような目で答えた。
「……父が、そうしていたからですね。母が亡くなってからも、必ず器は二つ準備して、その両方に酒を注いで。それを見ていたから、お酒呑むときにはそうするものと思っていたんですよ」
そうかと静は答え、子どもの頃よくしたように、春海の頭を撫でた。
春海は、こんな年になって頭撫でられるなんてねえと苦笑しながらも、その手を嬉しそうに受け入れていた。
見ることと感じることは似ている。
見て感じた事すべて、この手の中にあるから……それだけで。
だけど、もし叶うなら。
「またいつか、お会いしましょう……そうしたら」
「また、いつか会おう……そうしたら」
ふたり、その先は言葉にせずに。
ただ、微笑んで。
「もう少し、お酒が残っていますよ。どうぞ」
「いただこう」
互いの盃を満たし……名残を惜しむように、味わったのだ。
もし、いつかまた……会うことが出来たなら。
いつか、おなじ、ときを……歩めるならば。
花が咲いたら会いましょう
花が散ったらお別れしましょう
季節が巡るたび、何度でも会って
何度でもめぐり合えるなんて
なんて素敵なことでしょう
冬をくぐりぬけて、そうして久しぶりに見るような、軽みのある青色の空の下。
土手べりの桜並木は、見事に満開になっていた。
伸べた枝には、幾重にも花びらが重なり、通りかかる人の視線と感嘆の声を攫っていた。
風はまだ冷たさが残るものの、日差しはあかるく、空の色も冬とは異なっていた。
そんな、ある桜並木での情景。
「桜が綺麗ですね、静さん」
「ああ、そうだな……」
はら、はら、はらと花びらが、歩く二人の頭にも肩にも……雪のように降りかかる。
くる、くる、くると踊るように。
わらうように。
わらうように咲いている、桜の木のした。
並んで歩く人影が……ふたつ。
はながわらうよ、花が咲うよ。
ひとがわらうよ、人が笑うよ。
わらって、いるよ。
いつか、あるかもしれない、風景の中で。
END