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(そうそう、貴方は、ひとつ取り返しのつかない事をしてくれましたっけね)
(……なんの事だ?)
(覚えてらっしゃらないなら、それでいいんですよ)
(……ああ思い出したぞ、つくづくあの酒は勿体なかった)
(ですから……あれ、顔が赤いですよ、どうしました?)
半分の月が、木々の隙間から、砕けた顔をのぞかせている。
「今思えば、子どもながらにあれが“一目惚れ”って奴なんでしょうかねえ」
しみじみと春海が呟くと、静が盛大に酒を吹いた。
「あらら勿体ないですよ、それとっときの奴なんですよ、味わって飲んでくださいね」
「お前が、変な事言うからだろうっ、ああ勿体ない」
少なくなった盃の残りを飲み干し、静は春海の方に空になったソレを突き出した。
はいはい、どんどん飲んでくださいね、まだありますからねと言いながら春海は酒瓶を振った。
瓶の中で、ちゃぷんと酒が音をたてている。
ちらとも動揺していない、それが。
「……お前、可愛くなくなったなあ……」
「ちょっと、しみじみ言わないでくれますか?お酒要らないんですね?」
「ああ、今のは勿論冗談に決まっているじゃないか。子どもの頃も今も勿論可愛いさ」
盃にとく、とく、とくと酒を注ぎながら、春海はことりと首を傾げた。
「ああ、今“可愛い”とか言ってもらっても、あまり嬉しくないですねえ」
俺もそろそろいい年をしてって言われてしまう年ですしねえ。
「お前……」
ひきつり気味の笑顔になった静を気にもせず、春海は空を仰ぐ。
鬱蒼と茂る木々の隙間から、滲み出る光。
欠けていた月が満ちようとしている。あと数日で満月となり、それと時を同じくして、静の桜も満開を迎えるのだ。
静のまとう、白い衣。初めはただ白いとしか思わなかったが、桜が咲きほころぶにつれ、それは次第に淡い“さくらいろ”に染まっていく。
衣の中で花が咲くように。そして衣全体に花が広がった時が……桜の花精である、静の本体の桜も満開を迎えるのだ。
己の盃にも酒を注ぎ、春海は静と枝に半ばまで咲いた花をつけた、桜の木とを等分に目を眇めて見た。
月明かりがあっても、静の灯す淡い光りがあっても……一歩この場を外れれば、己の手すら見えない暗闇だ。目を射る光でなく、眩しいはずはないけれど。なぜかとても、眩しく感じられて、春海は目を細めてしまう。
こうして……何気なく静を見るときには、いつも。
桜の季節が巡り、変わらない姿のこの人と会うときに。
そして、今にして思えば。
「う~ん、今思えば、俺の顔の好みって、コレで固定されちゃったんでしょうかねえ~」
あんまり面食いじゃあないつもりだったんですどけねえと呟けば、再び酒を吹いた静に、何言ってるんだと怒鳴り声で返されて、春海は何食わぬ顔で笑った。
「いやですね、他愛ない冗談じゃあないですか、子どもの戯言にも等しいでしょう?」
(そうだ子ども相手の戯言と、あんな事を言ってしまった)
(一度口にしたことは、何を以っても取り返せはしないのに。善きことならば高らかに響けばよい。しかし、取り戻したいと願う言葉は、抜けない凍った杭のようで。じわじわと痛みを与え続ける。放った方も、そして、それを受けた方も)
(いいえ、けしてそんな事はありませんでした。他愛ない言葉であれ、俺にとっては大切な言葉となりましたよ)
(いつでも、あなたの言葉は、俺の標でしたよ)
(目を輝かせて子どもは言った)
(無邪気に、どんな含みもない言葉で)
(だから己も、他愛なく言葉を返してしまったのかも、しれない)
(あの時、俺は本当にそう思ったんですよ)
(そうか・・・どうであれ、あれは破壊力凄まじかったな)
(破壊力だなんで無粋な言葉で片付けないで下さい。子どもだった俺にとって、あれほど綺麗な・・・・・・あれ、この手は何ですか)
(・・・・・・その辺で止めてくれないか。全く、相変わらずの破壊力だ)
(だから、その言い方はよして下さいってば)
「お嫁さんみたい」
おそらく、明日には満開を迎えるであろう枝は、花弁で幾分重そうだ。
静の纏う衣も既に桜色に染まり、月の光も相まって淡く光ってさえ、見える。
そんな綺麗な着物を着て、うつくしく佇む人は、春海の中には「お嫁さん」くらいしかいなかったので、素直に言葉にしてみた。
そうすると静は、飲んでいた酒を話に聞く鯨みたいに吹いた。
「どうしたの?」
げほごほと咽ているので、背中をさすってあげる。今まで見たどんな女の人よりも白い腕に、透き通るような白い顔。赤い唇から出る言葉は時々意地悪だけど、春海が本当に困ることは言わないって事、もう知っているから。
山で道に迷った春海の前に現れた静は、桜の精……花精だと言った。
初めて会ったときは、その言葉よりも何よりも、あんまり綺麗だったので、後から考えたら恥ずかしくなるくらい、ぼうっと静の顔を見つめていた事を、今でも覚えている。
「お前、何を言い出すかと思えば……」
ごほっと咳をひとつして、目じりに涙をためて静は掠れた声を出した。
「だって、そんな綺麗な格好してる人って、お嫁さんくらいしか知らないもん」
途端に「にやり」と静が笑う。何か意地悪い事言い出す顔だなと春海は身構えた。
「綺麗なのは衣装だけか?」
「……ああ、もうすぐ桜満開だねえ、楽しみだね!」
「“お嫁さんみたい”って言うのは、衣装だけかい?」
「満開になったら、とても綺麗だろうね!」
「……春海?」
にじり寄られ、こういうの……凄みがあるって言うんだろうなあ……そんな顔で笑いかけられたら、春海は白旗を揚げるしかない。
「格好だけじゃないよっ、静さんも、とっても綺麗。そう、お嫁さんに貰いたいくらい!」
一気に言い放つと、静は一瞬、珍しくぽかんとしたような顔をして……それから、ふんわり……そう、花が綻ぶように笑った。
「いいよ、じゃあ嫁に貰ってくれるか?」
「勿論だよ!」
大人になった時にねと、ふたり、笑い声をあげた。
(約束というには、他愛ない……言葉は)
(まるで、ねがいのようでした、ね)
さて、あれはいつのこと、だったか。
その子どもは、名前に“海”が入っているにもかかわらず、海を見たことがないと云う。
海とはどんなものか、池よりも湖よりも広いのかと尋ねられ、さてどう答えたものかとしばし思案した。
見たことのないものを……何かに喩えて説明するのは難しい。
上手く伝わらないどころか、誤って伝わったりさえする。
池や湖よりも広くて、果てがないのだと答えてやっても、案の定子どもは首を傾げ、よくわからないと答えた。
さて、こんな海など見えない場所で、何を想い、何を願ってこの子どもの親は“海”の字をこの子に託したのだろう。
海など見えない。
そう、この場所にいる限り。
そこで、ああもしかしてと思いいたる。
この子の親は、もしかすると。
海は何処に在るのと再び尋ねられ、そうさなあと言葉を探した。
この子に伝わるような……きちんと受け止めて貰えるような、言葉を。
川が流れているだろう。この山を下ったところにも、ひとつ。
はるか眼下に、帯のように伸びるそれを指差せば、子どもはひとつ頷く。
指差したまま、すいと下流へと指を滑らせた。
子どもの目が指を追ってくるのを見ながら、ゆっくりと答えたのだ。
川を何処までも辿っていけ。そうすると、目の前に何処までも広がる水の連なりがある。それが“海”だ。
もう少し大きくなったら行けるかな、行ってみたいと笑う子どもに、行けるさ、行ってみろよ何処までもと答え、手にした盃を干したのだった。
云えなかった言葉をひとつだけ、飲み込みながら。
海まで辿りつく……それは。
此処でない、広い世界へ行くのだ、ということ、を。
未だ海を見た事がない、名に“海”を持つ子ども。
この子の目の前には、どんな世界が広がるのだろう……どんな世界を望むのだろうか。
(早く大人になれと言いながら、ほんとうは)
(急いで大人になるなと、心の底で願っていたのさ)
(早く大人になりたいと思っていました)
(貴方と肩を並べられるくらいに、なりたいと)
(それが、何を意味するのかなど、気づきもせずに。貴方の隠された願いなど知りもせずに)