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(あれは、初めて会った新月の日か)

(そうですね、とても暗くて、心細くて)


(まさか、詫びが酒盛りだとは思いませんでしたよ)

(礼と詫びは、旨い酒と相場が決まっている)


(まさかと思いますが、今更ですが、花精の間での相場って言いません、よね?)

(そのまさかだったら、どうする?)


(いえべつに、どうもしませんけどね)




「じゃあ、詫びに酒盛りの相手をしろ」

「……どこで?」

「そりゃもちろん、ここで」

「此処がどこか、わからないよ」

「麓の湖からそんなに遠くない所だ。子どもの足でも来ることが出来るぞ」

 ほら、とすうっと白い腕が麓を指した。すると淡い光がともり、麓まで導く道しるべとなった。

 羽衣のような、光る雲のような。

「それを辿っていけ。家に帰ることが出来る。そして夜は」

「それを辿って、ここまで来い。約束だぞ」


 そう……人にあらざる美しい花精に言われ、春海はただ頷くことしか出来なかった。

家に帰れる安心感よりも、この人の言葉ならどんな事でもかなえたい、そんな思いに囚われていたから。

「そうそう、酒も忘れずにな、必ずだぞ」





「こんばんは……?」

 

 あの新月の晩。

 かの人の示した光の帯を辿り、春海は無事麓まで降りることが出来た。

 木立を抜け切った辺りで、かの人の言葉どおり、意外に近いことが判った。 

 あと少しで家に帰れる、あと少しだと、疲れ切って動くことも億劫なくらいだったけれど、家に帰りたい一心で春海は足を動かし続けた。辺りはとても暗いが、山の中ほどではない。

 暗いのは新月のせい、星も無く心細くないと言えば嘘になるが……此処からなら、道がわかる、それが春海に力を与えた。

「……あれ、何だろう」

 ちらちらと揺れながら近づいてくる灯りがある。一つだけでなく、二つも三つも。いや……「火?」

 首を傾げながらも、家の方向はそっちだったので、春海が覚束ない足取りで歩いていくと。

「……はるみっ?春海かっ」

 それは灯りを持った父親と、近所のおじさんだった。

「一体何処に行っていたんだ」

 父親がかがみこんで、春海の腕を掴んだ。その声を聞くなり、春海の中で張り詰めていた……必死に保っていたものが呆気なく崩れ、溢れ出た。

 ほろほろと声もあげずに泣き出した子どもの頭を、父親は撫で、「怪我はないか」と聞いた。

 ない、と答えたかったが喉が塞がれたように言葉にならず、首を横に振ることで答えると、

「そうか……なら、いいさ」とぶっきらぼうな返事が返り、ますます春海は涙が止まらなくなった。

 父親の背に負ぶわれて家に帰りつく間に、春海は疲れと安心とで、眠り込んでしまったのだった。


 目が覚めて。明るい光の下では、夕べの事はまるきり夢じゃないかと思ったけれど。

 腕や足に残る傷が、夢じゃない事を痛みと共に教えてくれる。


「約束だぞ」


 そう、あの綺麗な人と約束、したのだ。

「……お酒、何処から持ってこよう」

 あの場所にたどり着く事よりも、酒を調達することの方が、春海には難しいように思われた。


 あわや山狩りの寸前であったから、いかな放任の父親でも、夕方には家に帰るようにと言いつけた。

 春海は言いつけを守り、日が暮れる前には友達と別れ、家に帰った。暮れていく空を見上げながら、落ちつかない気分になるのは、あの約束のせい。

「どうしよう……」

 父親が寝てから、そっと家を出ようか……いやきっと無理だ。

 父親が寝る頃には、春海はとうに夢の中。朝まで目を覚ますことはない。 じりじりしながら何日も過ぎて。新月だった月が、まるくなり、もう少しで満月になる、ある日のこと。

 夕方家に帰ってきた春海に、父親は言った。

「俺はこれから寄り合いで出るからな……ちょっと遠いから、帰るのは真夜中だ。戸締りして寝てるんだぞ」

 うん、わかったと春海は頷き、父親はやや心配そうな顔で「何なら、お隣に行くか」とまで言った。

 今まで帰りが遅いことがあっても、もっと小さい頃ならともかく、こんなことは言わなかったのに。

 あの日は父親に散々心配をかけてしまったのだなとちくりと胸が痛んだ。

 春海はううんと首を振る。

「家に居る。戸締りして寝てる」

 頼んだぞと父親は言い、春海の頭を撫でて、出かけていった。父親に、嘘ついてごめんなないと思いながらも春海は内心、小躍りしていた。

 約束どおり、これであの場所に行くことが出来る、と。


 

 あの新月の夜と違い、満月にちかい月の光のお陰で、足元は十分明るかった。そして、かの人が残した光の帯が、衣のように波打ちながら、山から伸びている。

 辿っていくことは容易かった。

 襷掛けに肩から掛けた袋の中には、家からこっそり持ち出した酒瓶と、盃がふたつ、入っている。

 少し考えて、一つでなく、二つにしたのだ。

 息を弾ませながら山に分け入り、光の帯を辿り。ぼうっと淡く輝く木を見つけた。光の帯はそこから伸びている。ならば。これがかのひとの桜。

 あの夜は暗かったうえ、あまりに驚いたせいできちんと見られなかったけれど。

 春海は桜の若木を見上げた。

 すっと天へ伸びた枝に、満開に近いほど綻んだ花。仄かな灯りのようにさえ見えた。

 うつくしい……幻のような光景に声も無く見入っていると、くすくすと笑い声が聞こえた。

「おや、やっと来たかと思えば、呆けたように口を大きく開けて。どうだ、綺麗だろう?」

 桜の木の背後から、あの夜出会った花精……たしか、静と名乗った……が現れた。

 目も口も大きく開けたまま、春海は、うんと頷いた。本当にそう思ったから。

 すると花精は……静は唇を引き結びふいと顔を背ける。

 春海は首を傾げたが、ひとまずは挨拶せねばならないだろう。

「ええと……こんばんは?」

 一瞬の間が空き。静が楽しそうに笑い出した。

「面白いなお前、こんな夜更けに、ここまで来といてそれか。楽しい奴だな」

 そうかなと春海は首を傾げたが、顔を背けられたり、不機嫌な顔をされたりするよりは、笑ってもらった方がいいので、何も言わなかった。

 笑いすぎたと、目じりの涙を拭うその人の、白かったはずの、着物。

 それが今は、淡い桜色に染まっていることに、春海は気がついた。

 枝に咲く、その桜と同じ色の。

 春海の視線に気づいてか、静は答えた。

「この着物の色か?そうさ、桜が満開になれば、この着物も全部が桜色に染まるのさ」

 そうなったら、なあ。あとは。

 その先を、美しい人は言葉にしなかったけれど。





(今ならわかりますよ。貴方が何の言葉を飲み込んだのか)

(花は咲けば……あとは)

(散るだけ、だから)

(あれは……そう、わたしが初めてお酒を一緒に呑んだ時のことでしたね)




「もう、だいぶ着物も桜色になりましたね」

 少年に言われ、静は己の身にまとう着物に目を落とし、背後の桜を……己の本体である桜の木を振り返る。

 桜はすでに八分咲きといったところであった。

「そうだな。天気がよければ、あす明後日にも満開だな」

 手にした盃を干し、気のないふうに言葉を返す。

 あれと少年が首を傾げた。

「満開になるの、楽しみじゃ、ないんですか?」

 去年も、おととしも……とても綺麗で、今年も俺、楽しみにしてるんですよと、少年は言い、静は、花が咲くのは楽しみだがなと言葉を濁す。

 楽しみも何も、そういうふうに定められている。

 魚が水の中を行くように、鳥が空を飛ぶように、花は咲くように出来ている。

 別に楽しみだから咲かせるわけでなく、それが息をするようなものだから、だ。

 楽しみだとすれば、咲く様を楽しみに待っている誰かが居るから。

 けれど。咲いたならば、次は。

 それをこの少年は分かっているのだろうか。分かっていて、言っているのだろうか。楽しみだ、などと。

 静は注がれた酒を一息に呷った。

「あっ、これオヤジの秘蔵の酒らしいんで、味わって飲んで下さいね」

 と少年はのんきに言葉をかける。少年……春海と、花が咲きかけて、そして満開になるまでの間、夜更けに酒盛りをするようになって今年で幾度目になるのだろう。

 桜の咲く時季ごとに会う子どもは、見るたびに成長している。


 少年は、己を見ては、変わりませんねと言い。

 己は、少年を見ては、大きくなったなと言う。


 それが、花の時季に会うたび、初めに言う言葉だった。

 ふくふくとした子どもから、すんなりと手足がのびた少年へと変わるまで、静の方から見ればいくらも時間が経ってないように思われるのに。

 成長を急ぐかのような様子を……残念に思い始めたのは、いつから、だったのだろう。

 盃の中に映りこむ、満月に僅かに欠けた月。

 満開にはわずかに早い桜の花。完全なる状態の一歩手前が、一番楽しいと思い始めたのはいつからか。

 なぜなら。完全になってしまえば、後は崩壊を待つしかないから。

 未完成な状態で、完成した状態を想像し、待つのは……とても楽しいから。

 埒もないと静は己の考えを笑い飛ばす。

 生き物が呼吸をするように、花が咲くのは留められず、時間を引き止める術などない。


 だから。

「どうだ、そろそろお前も付き合えよ。いつも盃は二つ、持ってくるんだろう?」

 そうですねと春海は何かを考えるように首を傾げた。

 さらりと薄茶の髪の毛が頬をすべる。

 夜を切り取ったように真っ黒な己の髪の色よりも、柔らかい色合いの春海の髪の色、感触が、静はとても気に入っていた。

 もっと小さい頃は膝の上に抱え上げて、頭を撫で回したものだから、次の年には盛大に警戒されてしまったなと、ふと思い出した。

「じゃあ、ご相伴にあずかりまして」

 春海は毎年持ってくるものの、一度も使われなかった盃を、取り出した。

「もともとお前が持ってきた酒だ、遠慮するな」

「そうですね、オヤジの拳固と引き換えに持ち出した酒ですもんね」

「まあ上手く誤魔化せる事を祈ってやるよ」

「そんな、まるで無関係に言わなくてもいいじゃないですか、まったく」

 とく、とく、とくと盃はふくよかな芳香を放つ酒で満たされる。春海はおそるおそる盃を口に運んだ

「どうだ、旨いだろう?」

 己の盃を飲み干し、静が尋ねると、春海は何とも言えない顔をして答えた。

「……こういうのが、美味しいんですか?」

 大人ってよくわからないとぼやく少年に、静は笑った。

 大人になれば分かるさと。そして。

「早く酒盛りにつきあえるようになってくれよ」と。


 早く大人になって。

 早く大人にならないで。

 どちらも、同じくらい強く、願ったこと、だった。




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