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はつなつのころ


 かの人の花を見るのは……さて、これで何度目だろうかと心の中で数えてみる。

 自分の生きた年数に少し足らないくらいの数であり、それが多いのか少ないのかは、判断できないが。

 ただ、はっきり言えることは、何度見ても見飽きるどころか、更に見たいと思わせる花の美しさだということだ。

 

 花弁が風に吹かれて舞い散るさま、枝を重そうにしならせ、多くの白い鳥が羽を休めるのにも似たさま、また硬い蕾が綻び、次第に花弁を広げていくさまは、息を忘れるほど美しく、一瞬たりとも目が離せないと思った。

 

 先刻目にした花と今見ている花とでは、同じに見えて僅か異なる。

 過ぎ去った年に見たものと今年のものとも、また異なっていて。

 刻々と変容し、またその変容がなければ、花とて咲かぬものと知りながら、時がこのまま止まればよいのにと半ば本気で思ったりもした……あれは、まだ幼い日々。


「お前は、目も口も団子のように丸くして、俺を見上げていたっけな」

 そら、今もそうしているのと同じように。

 そういう所はまるで変わらないな。

 桜色に染まった衣を身にまとい、夜を切り取ったように艶やかな丈なす黒髪を背に流し、微笑む人。

 否……桜の花精に、幾分拗ねたような視線を向ける。


「仕方ないでしょう。もう二度とこの目で見られないと思っていたんですから……少しくらい花を堪能させてもらってもいいでしょうに」

 

 そう……雪の降りつもった夜、自分は命を終え、この世から旅立つところだった。

 それを、如何なる手立てでもってかは判らぬが、花精は己が眷属へ迎え入れたのだ。

 離れた地に居た自分のところへと自ら出向いて。

 そうして自分は眷属となる事を選び、彼の傍にいる。

 年老いていた己の姿が、青年の頃のものへ変わったのには驚いたが、やがて慣れた。


「花を愛でてもらうのは、花精冥利に尽きるが、よく飽きないな」

 

 おや、とその口調に引っかかるものを覚えて首を傾げて花精を見上げる。 視線が合う前にすいと逸らされてしまい、ますます怪訝に思う。

 未だ条件反射と言うべきか、恐るべき花精の美しさと言うべきか、ふとした拍子に目を奪われ、しばし心まで奪われてしまうことがあるのだ。

 初めて会った幼い頃より、彼の姿はちっとも変わらない……いや、花が年々美しくなるのと同じように、艶を増している気はするけれど。

 何年も心の中で思い描くばかりだった花を、この目で見ることが出来た……変わらず、なんと美しいことよと陶然とした物思いから帰ってくると。

 以前だとその度に、花精は口元に意地悪そうな笑みを浮かべ、こちらをからかってくるのだけど。

 けれど……今のは。

 腕組みをして考え、そうして思い当たったことに、いやでもまさかと半信半疑で口にしてみた。

「もしかして、退屈してますか……?」

 無言。花精の視線は遠くの山の端へ投げられる。

「もしかして、いい加減花ばかり見るな、とか思ってませんか……?」

 視線が泳ぐ。こちらを見たかと思うと、また遠くの方へ。

「もしかして……自分も構えとか、思ったり、してますか……?」

 途端に零れたため息に、見当はずれな事を言ってしまったかと頬をかいたが、花精はこちらを振り返り、足早に近寄ってきた。

 早足で歩いても、優雅に着物の裾を捌くさまに乱れはない。

 あの、と声を出す前に腕を取られ、柔らかな下草が生えた地面に座らされた。そして手には盃を押し付けられる。何処からか酒瓶を取り出し、盃へ注がれる、透明な酒。ふくよかな香りがあたりに広がった。

「呑め」

「……あの、目が据わってますが」

「いいから呑め。まったく、お前、可愛くなくなったな~真っ赤になってうろたえてたお前は、あんなに可愛かったのに。今じゃこっちの図星を容赦なく突いてくるんだから」

 手酌で酒を注ぎ、盃を呷る花精の頬は薄っすらと赤い。

 多少の酒では酔わないのを知っているから、原因は彼の言ったとおり、己が突いた“図星”にあるのだろう。

 そう思うと。

「……何嬉しそうに笑ってるんだか……」

「笑ってるつもりはないんですが……まあ、そりゃあ、人並みの時間生きましたからね、それなりにこなれもしますよ」

 いつまでも、貴方にからかわれては、顔を真っ赤にしていた子どもではないですよ。

 面白くないと再び花精は零し、ずいと酒瓶を突き出した。

 これは注げということだろうなあと瓶を受け取ると、彼は空の盃を差し出す。

 白く平たい、何の変哲もないそれ。

 とく、とく、とくと透明な液体がまるい盃を丸く満たし……最後の一滴が落ちた。

「はい、これでお酒も終わりですね」

 花精は盃を口元に運び、赤い舌でちろりと舐める。

「今年の酒も旨くて結構な事だ。さて」

 花精は盃の中身を一気に飲み干すと、立ち上がった。

 己の本体である、桜に手をやり、今が盛りと咲き誇る花を見上げて言った。


「今年も花は恙無く咲いた。結構な事だ……さてあとは散るばかり」

 





 そう……爛漫と咲き誇る花は既に滅びの兆しをも含んでおり、強い風に煽られると吹雪のように花弁を散らす。 

 盛りを迎えたと思った瞬間には、滅びの日が見えているとは……繰り返されることとは言え何と物悲しいではないかと目を落とした自分に、花精は口の端で笑いながら言った。

「そう言えば……お前、散るのを見るのは初めてだろう?」

 花の咲き始めから、満開までが年に一度の……花精いわくの“酒盛り”の期間だった。

 他の季節にこの場を訪れた事は一度もなかった。

 特に約束したわけでもないのに、何故かそうせねばならないと思っていたのだ。

 頷くと、花精はまた笑った。

 花が咲くときには人目も引くが、繁った葉と枝振りだけでは人目は引かぬらしい……まあ、年中姦しく囀られるのは御免だがなと言う。

 花精の木は山深くにあるため人など訪れぬそうだが、彼の知る他の花精は花の季節には難渋しているらしい。

「それなりに見物だぞ。まあ見ていろ」

 何が見物やら……何の事やらわからなかったが、花精がやたらと楽しそうにしているので、はあと怪訝そうな声を返したのだった。



 



 山肌を風が撫で、麓へ降りる。

 それに連れていかれるように、花が散っている。

 枝を重く撓らせていた花弁が、風の一吹き毎に攫われてゆき……後に残った枝は軽さを取り戻したものの、去ったものを懐かしむようだった。

 そして。

 花精が身にまとっていた着物にも変化が現れていた。

 本体を背後に……木の下に佇む花精は目を閉じ、顎をついと上げて、大きな息を繰り返している。

 桜色に染まった着物から、徐々に色が抜けてゆく。

 匂いたつようだった桜色に、灰色が混じり……上半身はしろく、また下半身は色濃くなってゆく。

 それと同時に。

 花精の丈なす黒髪も、するすると短くなってゆくではないか。

 声もなく驚き、ただただ見つめている中、花精は目を開けてにやりと笑った。

 悪戯が成功した子どもみたいな顔で。

「驚いたか」

 何処か得意げにすら聞こえる声で問うてくる。

 ええ驚きましたとも、花が散った後に、貴方が姿まで変わるとは思ってもみませんでしたよと答えると、彼はまた楽しそうに喉を震わせた。

「……花が散ると、髪の毛も短くなって、着物の裾まで短くなるんですねえ……」

 艶やかな黒髪は襟足を隠すほどの長さしかなく、出で立ちも単の着物に変わった。

 木の下で佇む彼の元へ近寄れば、まあなと己の出で立ちを見下ろし、軽くなった頭に手をやっている。

「まあな、言ってみれば衣更えみたいなものだな。俺としては、こちらの方が動きやすいんだがな」

「衣更え、ですか」

 そうだと花精は答え、逆に問うてきた。

「花が散った後には、何がある?」

 少し考えた後、そうですねえと言葉を返した。

「そうですねえ、若葉が出ますね。後は……他の木も新芽を出してきて、山全体が柔らかくなってきますね」

 そうだ……冬の間、くすんだ色に沈んだ山に花が咲いたあと……若葉や、新芽が出て、山全体がまるく柔らかくなってゆく。

 それと同時に、柔らかな緑が目に優しい時季になるのだ。

 それらは日差しを受けて、日ごとに緑を濃くしてゆく。

 また色鮮やかな花々が咲きだすのもこの頃だ。

 春の優しい淡い花から、夏を迎える鮮やかで輝くような……百彩とも言えるような花々が、競うように咲いてゆく。

 そう思い至り、ああだからですかと言った。

「冬の衣を脱ぎ捨て、夏の衣へと着替えるから……衣更えとはよく言ったものですね」

 彼の木にも、間もなく若葉が揺れるようになるだろう。瑞々しい青葉をつけて風にそよぐ様を見られるのも、また何と楽しいことよと思ったのだった。






「衣更えはいいんだがな……」

「なんです?そんな沈んだ声を出して」

「花の季節が終わって、身軽になったらな……必ず来るんだ……弟がな」

「弟って……花精にもあるんですか?」

「まあ、親の木が同じでな。そろそろ来るだろうから、また紹介するさ」

「楽しみにしてますね。あれ?もしかして、こちらから移動することも出来るんですか?」

「出来るさ、この季節になれば身軽だからな。色んなところに行ってみようか。そうだ、松の精の所に顔だしてやろう」

「ああ、いい考えですね。この前のお礼をロクに言ってなかったので、是非言いたかったんです」

「……アレは、俺への借りを返させてやったんだから、礼なぞ不要だ」

「また、そんな事を言って……」


 




 ぴくりと花精が顔を上げ、辺りを見回す。

「どうか、しましたか?」

「……噂をすれば、なんとやらだ。来たぞ」

 ため息とともに花精は零す。耳を澄ますと、何やら声が聞こえてくる。賑やかな声と、もう一つの別の声が。

「久しぶり、遊びに来たぜっ」

「ちょっと待って下さいっ、先に行かないでくださいよっ」

「おせ~よっ、早く来いよっ」

 花精は相変わらず騒々しい事だとため息をつきながら、それでも楽しそうに話す。

「弟はな、山三つほども越えたところから来るんだがな、その弟に近くの木もお供と称してついて来るんだ」

「そうですか。何だかとても、賑やかになりそうですね」

 楽しみですの言葉が終わらぬ間に、“賑やか”の一因はすぐそこへと来て、春の花だというのに、まるで夏に咲く花のように笑っていたのだった。



 




 山はまるく柔らかく。

 若葉は幼子の手のようにつやつやとして、やわらかい。

 日差しをうけて輝く、明るいみどり。


 夏はこれから始まるのだった。

                                     

     

                         END






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