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以前別アカウントで連載していたものの、移行版です。誤字脱字等の修正の他は、ほぼ変わりありません。
勝ちも負けも、己の心ひとつであるならば。
それを測るのに他者の物差しなど、要らぬはず。
さて、此処に花が咲いている。
どんな情景を想像するだろう。
蕾が綻びはじめた、色づき淡い花か、或いは、今が盛りと匂いたつほど咲き誇る満開の花か。
地に咲く花か、或いは、木に咲く花か。
また。
如何にすれば、「花を見た」ことになるのだろう。
花を見る。
一つの花、一つの枝、一本の木……そして、島のように連なる花の列を。
一つ一つを、全体を。
一人で、誰かと、あるいは、大勢で賑やかに。
どう見ても、「見た」事には、変わりはないけれど。
たとえば。
花を……花びらを、花芯を、茎を……ひとつひとつ、ほどいたとして。
標本を作るごとく、部品を並べたとして。
それが花を見る……知ることになるのだろうか。
分解して解剖して、見た……知ったところで、本当に花を知った事にはならない、のではないか?
ならば。
花を知るとは……見るとは一体?
さあ、目を閉じて、浮かび上がる花の情景はどんなか。
蕾、綻びかけの花、絢爛に咲き誇る花。
その中にこそ、答えはひそんでいる。
「見ることと感じることは似ている、そう思わないか」
「何を突然言い出すんですか、藪から棒に」
久しぶりだというのに、挨拶もなしでいきなりソレですか、まあ貴方がどんな人か俺は知っていますから、驚きはしませんけどねと立て板に水のごとく返される言葉に、静は少し棘を感じて、大仰に天へと向けて広げていた腕を下ろした。
おや、これはどうしたことかと少し首を傾げて、己よりも低い位置にある顔を覗き込んだ。
ふいっと逸らされそうになる顔を、己の手で包み込む事で阻み、そのまま。思いきり容赦なく、横に。
「うわ、顔引っ張らないで下さいよっ、いたたたっ」
「やわらかいな~さすが、よく伸びる伸びる」
若いだけあると呟く。
子どもは己の手を引き剥がそうと試みているらしいが、残念ながら力が足りない。
その程度の力では引き剥がせないぞと意地悪く笑ってやる。
すると子どもは涙目になりながらも反論してきた。
それがなんともまあ、可愛らしいと言ったら、さてどんな反応があるだろうか。
「そりゃ、貴方よりはだいぶ若いですからねっ」
「そりゃまあ、単純に年数だけ言うならな。でも、俺たちの成長の度合いからいえば、俺はまだまだ若造の部類だけどな」
つまり、お前より少しだけ年上ってこと。俺を年寄り扱いするんじゃねえよと、間近で顔を覗き込み、幾分凄んでみせると、腕の中の子どもは……いや、もう子どもとは呼べぬ、青年になりかけの少年は、不承不承、
「わかった、わかりました、放して下さいっ」と答えたので、あっさり解放してやる。
「ああ、いきなり酷い目にあった」
すぐには己の腕の届かない範囲まで逃れて、赤くなった頬を両手でさすりながら、かつての子どもはそんな可愛らしくないことを言うけれど。
その憎まれ口でさえ。
「お前、懲りないね。もう一度引っ張ってやろうか?」
空を手で摘む仕草を見せれば、思い切り首を横に振って答えてくる。
「お断りしますっ」
その様子ですら、己にとっては可愛らしいものだと、言ったとしたら。
どんな反応が返るだろうかと静は想像する。
いつも、己の予想とは違う反応を示す子どもだったから……その予想外の言葉や態度を、いつも楽しみにしているのだ。
ざわざわと梢が揺れて。
綻び始めた桜の枝が青年になりかけの少年……春海の頬を掠める。
遠慮しなくてもいいんだぞと、静は……桜の花精は嫣然と微笑んだ。
「なにはともあれ、一年ぶりか。大きくなったな」
もうそろそろ、大人の仲間入りだなと静が呟く。
春海は静を見上げ、お久しぶりです、今年もこの時を楽しみにしていましたよと柔らかく笑った。
「貴方はちっとも変わりませんね」
(貴方はちっとも変わりませんね)
(そうだ、これが何時もの……挨拶の決まり文句だったな)
桜の根元を痛めないようにと、少し離れた場所に腰を下ろした春海のそばに、花精……静も同じように腰を下ろした。
律儀に、お久しぶりですねと挨拶をした後、春海はもう一度静を見上げる仕草をする。
そろそろ青年と呼ばれる年になっても、静の背をまだ追い越せていないのだ。春海の年からすると、恐らく静の背丈を抜くのは無理かと思われた。
何となく悔しいので、無理だと春海は思わないようにしていた。
「貴方はちっとも変わりませんね」
春海はしみじみと呟いた。
同じ言葉を、こうして会うたびに言ってしまうのだ。なぜなら。
月日を重ね、春海は子どもから大人へとなったのに、目の前で佇むひとは、ちっとも変わらない。
いや、変わったとすればと春海は密かに胸のうちで呟く。
彼の本体である、桜の木が成長するのと同じように、彼の内から輝く、光みたいなものが、増したような。
「それは成長の速度が異なるからな。お前と同じようにはいかないさ」
そうですねと答え、春海は持参した袋の中から、布に包まれたものを取り出す。
中から現れたのは、手のひらほどの盃ふたつで、一つを静に差し出した。
やわらかな光沢のある、飾り気のない白い器だ。それを、静の白いほそい手が受け取る。
そこへ、春海はこれまた持参した瓶から酒を注ぐ。あたりにふわりと酒のいい香りが漂った。
「どうぞ、まずはことし初めの一献を」
「いただこう」
静は盃を少し春海に掲げて見せ、するりと飲み干したあと、さも満足げに笑う。
ああ、ことしの酒も気に入ってもらえてよかったと春海は思った。
「ああ、旨い酒だ、俺は毎年これを心待ちにしているんだ」
今年はとてもいい酒が手に入ったんですよ、まだまだあるので存分に楽しんで下さいねと答え、春海は自分の盃に注ごうとしたのだが、白い手がそれを押しとどめた。
「手酌など無粋な、俺が注いでやろう」
「ありがとうございます」
礼を言いながら、春海は思わず笑ってしまった。こんな美しい人に酌をしてもらう機会など……此処以外では無いと言ったら、このひとはどんな顔をするだろうかと想像したのだ。
なんて甲斐性のないと呆れた顔をするだろうか。
静はなんだと不審げな顔をしている。
「いえ、あなたに注いでもらったんじゃあ、高くつきそうだなあって思っただけ、ですよ」
ふんと鼻を鳴らしたが、静は何も言わずに春海の盃に酒を注ぎ、酒瓶を地面に置いた。そして空になった自分の盃を春海の前に突き出した。わずかに苦笑して、春海は瓶を取り上げる。
とくとくとく……ちいさな波紋をえがきながら満ちる盃の中にも、ちいさな欠けた月が映る。
満ち欠けし……時の経過を如実に示すもの。
月ごと飲み干せば。
空から月を消してしまえば、時間は止まるだろうかと埒もないことを頭の隅で春海は思った。
(覚えていますよ、どんなちいさなことでも)
(なぜ?世界が開けたばかりの子どもにとって、夜の闇など恐ろしいばかりだっただろうに)
(闇を恐ろしいと思った事はありませんよ。それに……なにより、見つけてしまいましたから)
(はじめて貴方に会ったのは、月のない日でしたね)
「そこに俺の足があるぞ、つまずいて転ぶなよ」
目の前にかざす自分の手も見えないくらい、辺りはとても暗かった。
迷い込んだ深い山の中。何故そんな山深くに入ったのか、理由などは忘れてしまった。
とても暗く、道はとうに判らず……ひたすら麓を目指して、枯れ枝や草で皮膚が切れるのも構わず、何度も転びながら起き、駆け下りていた時の事。
不意に聞こえてきた声に、春海は飛び上がるくらい驚いて、踏み出そうとしていた足を止めた。
木々に覆われ、空も見えないが……人が山にいる時間ではないと言う事くらい、子どもの自分にもわかっていた。
人でないなら、誰だろう……何者だろう。けれど、暗闇の中を駆け下りてきて、とても心細かったこの時。
声をかけてきたのが誰であれ、その事じたいに酷く安心したのだ。後で思い返せば奇妙なことに。
ただひたすら、麓を目指し、父親の名前を呼んで降りてきた自分にとっては、自分以外の何かに出会えた事で、安心したのだろうか。
「……だれ?だれかそこにいるの?」
カラカラに乾いた喉からは、掠れた声しか出ない。辺りを見回しても、そこに広がるのは墨を塗りこめたような暗闇ばかりで、先ほど感じた安心感など、水がひくように逃げていく。
誰もいない……否、見えない。
ひゅうっと喉がおかしな具合に鳴るのを、懸命にこらえ、震える足で一歩を踏み出そうとした時だった。
強い力で襟首を摘み上げられ、足が宙に浮いた。
あまりのことに体が氷付けにされた魚のように固まった。
「だから、そこに俺の足があるっていっただろう」
踏むんじゃないぞと頭の後ろから呆れたような、若い男の声がした。
「だれ?」
猫の子のように首根っこを摘み上げられ、後ろも振り向けず春海は聞いた。
「ん~さて、誰でしょう」
人を食ったような、笑い混じりの声だ。
それはあとになって、彼が単に迷い込んだ子どもをからかっていただけだと判ったのだが、この時の自分が、それに気づく余裕などあるはずもなく、何か恐ろしいものに捕まったんだと思い込んでしまった。だから。
「いててっ、こら、おまえ何をするんだ!」
後ろ足で思い切り背後を蹴り上げるとかなりの手ごたえ、いや足応えがあり、襟首から手が外れた。
それを幸いと後ろを振り返らず……振り返ることも出来ず、ただこの場を離れたい一心で、見通せない暗闇も覚束ない足元も気にせずに思い切り駆け出そうとして……いくらも行かない内にずるりと足元がすべり、勢いのまま受身も取れず頭から地面に突っ込みかけた。
ぎゅうっと目を閉じ、襲いくるはずの痛みに身を縮めていたが、それはいつまで経ってもやってこず、恐る恐る目を開けてみると。
またもや宙に摘み上げられた自分と、目の前には、見た事のない白く輝く姿があった。
「俺の足を踏むなと言ったろう。何度も注意してやったのに、思い切り踏んだな」
痛かったぞと顔をしかめるその人は。
透き通るような白い肌に背を覆う艶やかな黒い髪。
長い睫毛が頬に影を落としている。白い着物を纏い、佇んでいる。
呆けて言葉が出ないくらい、今まで見た誰よりも綺麗な姿の、ひとが、そこに居た。
自分の手すら見えないくらいの、深い闇の中なのに。
その人は己自身で光る珠のように、内側から照り映えるようで。
そうでなければ、手元すら見えない闇の中、何故頬に落ちる影までが見えるものか。
痺れたような頭のまま、誰、と思わず口にしていた。
「俺か?俺はこの木の花精だ。ほら、蕾がついているだろう、この木の、な」
そのひとが手を翳すと、淡い光が広がり、ぼうっとその木が浮かび上がる。
まだそれほど大きくなく、幹も太くはないが。
「……桜、の木?」
「そう。お前、人の足を思い切り踏んづけたんだぞ」
そのひとが散々注意していたのは、それだったのだ。
さっき自分が足を滑らせたそれは、彼の……桜の根、だったのか。
「あっ、ごめんなさいっ」
咄嗟に謝ると、その人は逆に不思議そうな顔をして、笑った。
美しく整った顔が、そうするととてもやわらかくほどける。春海はまたもや目が離せなかった。
「お前、面白いな。名前、なんて言うんだ?」
「春海。はるみ、っていいます」
春海、か。
美しい人は赤い唇の上で春海の名前を転がすと、悪戯を思いついた子どものように、にやりと笑った。
「俺の呼び名は静って言うんだ。それじゃあ春海、俺の足を踏んでくれたお詫びにさ……」