空中散歩
その話をしている時、頭上にはエアコンの配管があった。その話というのは紛れもなく別れ話で、電話の向こうできっと沈鬱な表情をしているであろうケンジを想像して、私は泣きながら思わず笑った。かれこれ何時間話しているのだろう。突然の申し出だった。その日私は珍しく仕事が早く終わり、もしケンジも暇なら一緒にごはんでもと思い電話をしたがずっと留守電だったので真っ直ぐ家に帰った。そしてたまった家の仕事を全部片付けて、久しぶりに料理をしていたのだ。普段まったく料理をしない私は、いつもケンジに怒らる。だから次こそはおいしい料理を作ってぎゃふんと言わせてやろうという心積もりもあった。だから献立はケンジの好きなものばかりだ。カレイの煮付けにほうれん草のおひたし、筑前煮に茶碗蒸し。一人分作るにはかえって外食するよりお金も手間もかかってしまったけど、おいしそうにできたので大満足だ。さてビールでも飲んで食べますか、と思ったその時、携帯がなった。やっとかけてきたな、と思い電話に出る。
「もしもし、お疲れ様、仕事終わったの?」
「…うん」
「どうしたの、なんか声が暗いけど。トラブルでもあった?」
「いや、そういう訳じゃないけど」
じゃあどういう訳なのだ。正直早く電話を切りたい。せっかくの料理が冷めてしまう。お腹はぺこぺこだ。
「今、ちょっと話しても大丈夫かな」
いつもとは違うケンジの様子に、「大丈夫」と言わないわけにいかなかった。
「実はさ、好きな人ができたんだ」
「へ?」
我ながらこんな間抜けな声がでるものかとびっくりするような声が出た。すぐには状況が飲み込めない。
「…どういうこと?」
「だから、別れて欲しいんだ」
あ、そうかそういうことか。今度はすぐにわかった。そんな状況にも関わらず、私は机の上の食事がどんどん冷めていくであろうことを思った。それでも会話はできる。
「好きな人って、私の知ってる人?」
ケンジはなかなか言おうとしない。それでも無理矢理問いただすと、同じ職場の後輩だということ、その子は群馬出身であること、その子もケンジのことが好きだといっていると言うことがわかった。私はなんだかその話をうわの空で聞いていて、その子の顔をいろいろ想像したりしていた。体の力が全部抜けて、ごろんとベッドに横になる。そうか今わたしは大好きな男に振られているのだなと冷静な頭で考えたら涙が出てきて止まらなくなった。後から後から涙があふれてくる。もう料理のことなんかどうだってよかった。私が泣き出すとケンジは動揺したようで、しきりに謝り始めた。謝られれば謝られるほど惨めな気分になってどんどん悲しくなる。ひとしきり号泣したあとぼんやり天井を見上げるとそこにはエアコンの配管があって、エアコンから外につながっていた。私はそれを目で追う。ケンジはまだ謝り続けている。謝るくらいなら別れなければいいのに。でもケンジは私と付き合い続けるよりみっともなく謝るほうを選んだのだ。配管を目で追う。でも壁にぶつかって外までは見えない。外はどうなっていたっけ。あたしもあそこを通って外に出たい。いやきっと出られるはずだ。私は祈った。そうすると、わたしは配管の中にいた。そこは暗くて狭い。でもかすかに先のほうに光があるのは見える。私は走った。走って走って光のもとへたどり着いた。そこは私のうちのベランダで、でもそこから先も透明なトンネルのようになっていて私は宙に浮いていた。夜の空を散歩する。空を、と言ってもトンネルを通っているのと同じだ。夜の町並みは家々の電気がイルミネーションみたいで結構きれいだった。わたしはどんどんすすむ。どんどんどんどん、どんどんどんどん進む。みるみるうちに私の家が遠くなる。このまままっすぐ行けばどこまででも行けると、そう思った。
ぱっと気がつくと、私はもとのベッドの上だった。ケンジはまだ謝り続けている。
「もういいよ。元気でね」
私はそれだけ言うと電話を切った。五分くらいまた泣いた。泣き止むと、机の前に座った。
「いただきます」
冷め切った煮つけを食べる。完全にうまく行き過ぎている。こんなにおいしくできたのは初めてだ。ケンジに食べさせなきゃ、と思う。茶碗蒸しも、おひたしも、みんなおいしくできている。しかし、若干、塩味が強い気がした。
「ごちそうさまでした」
大きな声で言う。後片付けの前に散歩に行こう。そう思って靴をはいた。今度はしっかり地に足をつけて歩こう。そう思って玄関から一歩外に出た。