二つ目の鼓動
金曜日。二十三時十四分。
いつもならサウナに行って、帰りにラーメンでも食べている時間だが、国文科の研究室に、僕――吉田圭介――はひとりでいた。
空調の低い唸りに紛れて、どこかで、かちり、とも、こつん、ともつかない音が、規則正しく響いていた。家鳴り。いや、こんな時間まで居座る自分を思えば、院鳴りとでも呼ぶべきか。くだらないことを考えて、我ながら苦笑した。
僕は近世文学専攻の博士課程二年。指導教員である佐伯教授から、書庫の整理を任されていた。本来なら、こんな時間になるはずもない仕事だった。ただ、段ボールの底をさらうたびに、目録にない資料が顔を出す。その一つひとつに手が止まり、気づけば夜が更けている。今夜も、そうだった。
そうして、いちばん奥の箱の底から、その小冊子を見つけた。表紙に題箋はなく、代わりに墨で殴り書きされた四文字が読み取れた。
『字影秘録』
虫食いの穴が、まるで文字を避けるように点々と空いていた。指の腹に、湿った紙の冷たさが伝わってくる。中を検分しようと、表紙に指をかけた。その、時だった。
かちり。
ドアが、開いた。
「だれかと思えば、君か」
「先生……こんな時間に、どうされたんですか」
「それは、こちらの台詞だよ」
佐伯教授だった。日本語の文字文化史を専門とする、この界隈では知らぬ者のない重鎮だ。夜目にも、その顔がひどく疲れて見えた。
「ん。……そんなところに、あったのか」
僕の手の中の『字影秘録』へ、教授の目が落ちる。「あ、これは」と言い終わらないうちに、教授はすっと手を伸ばし、それを自分の胸元へ抱き寄せた。少しだけ開いてみたかった、という気持ちを、僕は呑み込んだ。
「興味が、あったのかね」
「いえ、そういうわけでは」
見透かすように、教授はしばらく黙って僕を見ていた。それから、ふいに口を開いた。
「君は、白川静という人を知っているかね」
「名前だけは。漢字学の、大家ですよね」
「そう。甲骨文字の一画一画に、古代人の祈りや、時に呪いを読み取った人だ。学者たちは文字学の巨人と呼んだが、一部では、古代の霊と対話した男、などと囁かれていたね」
学問でありながら、どこかオカルトめいた匂いのする話になった。
「たとえば『口』という字。あの人は、あれを『くち』とは読まなかった。神へ捧げる祝詞を納める器――『サイ』と呼ばれる呪具だと説いたのだよ。口を含む多くの字は、『くち』と読む限り、意味が通らない。その底に、器を見て初めて、正しい姿を現す……」
教授はそこで、ふと言葉を切った。その声が、次に低く沈んだとき――一瞬、二重に聞こえた。もうひとつの声が、コンマ何秒か遅れて、重なったかのように。
「そして、その一番奥に触れてしまった記録が――これなの、さ」
胸に抱いた冊子を、教授は指の腹で、そっと撫でた。
かちり。
その音は、教授の手元からではなかった。もっと乾いた、木の実を噛むような音が、確かに、教授の首のあたりから、していた。
「さ、もう遅い。終電が出てしまうよ」
見上げた時計の時刻は、最終電車が間近に迫っていることを示していた。急がなければならない。
「あ、まだ、片付けが」
「ここまでで十分だ。ありがとう。あとは、私の方でやっておくよ」
そう言われては、それ以上は切り出せなかった。僕は帰り支度を始めた。
片付けながら、ふと教授の方に目をやる。こんな遅い時間、いったい何をしにこの部屋に。気になって仕方がなく、目がいってしまう。
疲れ切った表情の教授。その首元が、ぼうっと、霞んで見えた。
軽く目をこする。目が疲れているのだろう。今日は古い紙に目を凝らしすぎた。そうに違いなかった。気の、所為だ。
「……お疲れ様でした。お先に、失礼します」
「ああ。来週も、よろしく頼むよ」
ドアを開け、部屋を出る。扉が閉まる、その一瞬。
かちり。
背後で、はっきりと、そう聞こえた。
― ◇ ―
二十三時四十五分。
急げば、終電には間に合う時間だった。
正門を抜け、街灯だけが等間隔に灯る大学前の商店街を歩いた。自分の足音のほかは、何も聞こえないはずだった。
だが、少し後ろを、規則正しい音が、ついてくる。
かちり。かちり。
僕のほかにも、遅くまで残った学生がいるのか。振り返っても、誰もいない。
音は、前からも聞こえた。駅前の横断歩道で、歩行者信号を待つ、コンビニ袋を提げたサラリーマン風の男。呑んだ帰りの酔い覚ましか、片手に缶コーヒー。それをあおって横断歩道を待っている。何の変哲もない、光景のはずだった。
だが、男の首のあたりが、ぼうっと霞んでいる。あの、教授と同じ霞み方で。そして肩の方から、かちり、と乾いた音が響いた。
あの、音だ。
男の動きが立てているのか。だが、缶を口へ運ぶ手の律動と、その音とでは、明らかに拍が違う。
ほら。また。
かちり。
信号が青に変わり、僕は横断歩道を渡った。男と、すれ違う。その、真横に来た瞬間。
かちり。
反射的に、振り返った。男の背中を見た、その刹那――霞が、形を結んだ。
黒い、人の形をした、「何か」。男の首筋に両腕を回し、ぴたりと張りついている。肩に顎を乗せ、頭が上下するたびに、かちり、かちりと、乾いた音を立てていた。
「うう……肩が、重いなぁ」
男はそう呟いて、前のめりに歩いていく。酔っぱらいの、覚束ない足取り。いや、違う。重いのだ、本当に、その背中が。歩くたびに、影の萎びた両足が、左右に、ぶらりぶらりと揺れた。
口を『くち』と読む限り、意味は通らない。その底に、器を見て初めて――。
教授の言葉が、耳の奥で甦る。見えてしまった。僕はもう、見えるように、なってしまった。
その日を境に、日常が壊れた。
― ◇ ―
翌日。十時五分。
終末の楽しみにしている本屋巡りをしようとアパートを出た瞬間、僕は目を疑った。
すれ違う誰の背にも、影が乗っていた。スーツ姿の男の背には黒々と肥え太った影がのしかかり、男は死人のような顔で、浅い息を繰り返していた。
自転車で通り過ぎた女の背には、蜘蛛のように手足の細長い影がしがみつき、その長い髪を、静かに食んでいた。
ベビーカーを押す若い母親の肩には、拳ほどの小さな影がうずくまり、まだ声にならない声で小さく、かちり、と鳴いていた。
駅に着くと、それはさらに雑多な騒乱となって、押し寄せてきた。
アナウンスと発車ベルの底に、無数の「かちり」が、幾重にも折り重なり、大きな虫の巣に、足を踏み入れたようだった。
密やかで、逃れようのない、音の層。耳を澄ませば、僕は一つひとつの「かちり」を、それが誰の背から鳴っているのかまで、聞き分けられるようになっていった。
自分の背中が、無性に、恐ろしかった。手を回しても、何も触れない。重みもない。だからといって、公衆トイレの鏡で後ろを確かめる勇気は、どうしても湧かなかった。
それからは、僕は俯いて行動した。誰の背中も、視界に入れないように。イヤホンで耳を塞ぎ、音量を上げた。あの「かちり」さえ聞こえなければ、向こうもきっと気づかない――そう信じたかった。
だが、耳を塞げば塞ぐほど、内側の音が、はっきりしてくる。自分の呼吸。自分の鼓動。
とく。とく。
塞いだ静寂の中で、それだけが、やけに大きく、響いた。
夜、布団の中で、自分の首筋に指を這わせ、じっと耳を澄ませた。あの音が、自分の背から聞こえはしないか、と。確かめても、それは聞こえなかった。何もない。ただ、不安だけを抱えたまま、週末を過ごした。
なぜ、こんな目に遭うのか。理由は一つしか思い当たらなかった。あの夜、箱の底から出てきた、あの冊子。あれに触れてから、すべてが狂った。そして、その正体を、僕は薄々、察していた。
佐伯教授に、会わなければならなかった。
― ◇ ―
月曜日。七時十二分。
早朝に研究室の扉をくぐった。静かだった。かちり、とも、こつん、とも、音はしない。教授は、まだ来ていない。だが、その机の上に、『字影秘録』が、置かれていた。まるで、僕が来るのを待っていたかのように。
いや。読んでくれ、とでも言うように。
頁をめくった。漢字の成り立ちについての、誰かの私的な手記だった。著者の名は、ない。崩し字で、もったいぶった書きぶりだったが、読み解くのが本業だ。多少の乱筆に、怯むはずもない。だが、数行進んだところで、指先が、止まった。
>世に伝わる『人』の字義、二人の者、相寄り相支うる形と説くは、後世に施されし道徳の粉飾にして、真を隠す偽りなり。
>
>その実の姿は、ひとりの生者が前のめりに歩みゆく後ろ姿なり。その背に、名づけ得ぬ異形のものが取り憑き、両腕を首に絡めて、じわりじわりと締め上げるなり。
>
>左に長く払う画は、力尽きて折れんとする生者の脚。右に短く払う画は、背に食らいつく者の、萎びたる両足なり。
>
>かの者、憑く時には必ず音を発するなり。乾きたる木の実を噛むがごとき、かちり、かちりという音なり。これを聞きし者は、既にその存在に近しと知るべし。憑かれし生者は、やがて己が胸の内に、いまひとつの拍動を聞くに至る。トク、トクと重なりて鳴る、二つ目の鼓動こそ、逃れ得ぬ徴なり。
>
>知りたる者は識者となり、生者すべての背に憑くものの姿を見るに至る。ただし、断じて視線を合わせるべからず。加えて、己が息と鼓動を、かの者の刻む拍子に近づけるべからず。合いたる刹那、影は乗り移るなり。
馬鹿げている。よくできた怪異譚だ――普段なら、そう鼻で笑って閉じていただろう。だが、そうできない自分が、いた。
「読んだのかね。それを」
背後で、かちり、と鳴った。振り返ると、佐伯教授が、研究室に入ってくるところだった。
「教授、これは……」
「読ませたく、なかったんだがね」
教授の声に、もう一つの声が、半拍遅れて、語尾に重なった。言葉の尻尾を、誰かが、そっと、なぞるように。
「知って、しまわないように、と……だが、こいつが、そうはさせて、くれなかった」
こいつ、が何を指すのか。僕には、聞けなかった。
「先日、白川先生の話をしただろ」
教授は、ふっと、力なく笑った。
「あの人は言っていた。甲骨文字まで遡れば、『人』とは、人間を横から見た姿――ひとりの人間が、腕を下に垂らし、腰を折って、立つ形だと。二人が支え合う、などというのは、戦後の道徳が広めた俗説、でね。金八先生あたりが、すっかり有名にしてしまったが」
かちり。かちり。
「ひとりの人間が……腰を、折って……」
「そうだ。人は、誰かと支え合ってなど、いない。ただ、一人で、立っている」
かちり。かちり。かちり。
「だが、ね」
教授の声に、もうひとつの声が、遅れて、重なった。
「なぜ、その一人が、あれほど深く腰を折り、あんなにも力なく、腕を垂らしているのか――君は、考えたことがある、かね」
部屋の温度が、すとん、と落ちた気がした。
かちり。
教授はゆっくりと僕の横を通り過ぎ、机に向かった。僕に、背を向けながら。
その背中を見て、僕は、声を失った。
かつて見た、どの影よりも大きく、黒々とした「何か」が、教授の首に、太い腕を食い込ませていた。かちり、かちり、かちり――音が、耳の中で、膨れ上がっていく。
そして、その影の、目も鼻もない黒い空洞が、ゆっくりと、こちらを向いた。
視線が、合った。
早鐘を打つ僕の鼓動が、あの「かちり」に、一瞬だけ、重なった気がした。
悲鳴を上げ、研究室を飛び出した。廊下を、階段を、無我夢中で駆け抜けた。
外へ出ても、音は消えなかった。消えるどころか、街そのものが、その音でできているとしか思えなかった。信号を無視して駆ける僕を、道行く人が、怪訝な目で振り返る。その誰もの背中で、影が一斉に顔を上げ、こちらを向く気配がした。
アパートに駆け込み、鍵をかけ、チェーンをかけ、カーテンを閉め切った。背中にありったけの塩をふりかけ、台所の流しで、頭から日本酒をかぶった。
明かりを全部つけた部屋の隅で、体を丸め、呼吸を数えた。大丈夫だ。視線は合ったが、すぐに逸らした。まだ、乗り移られてなど、いない。
そう言い聞かせて、耳を澄ませた。
トク。トク。
自分の鼓動。いつも通りの、単調なリズム。それだけだった。合間に、もうひとつの拍が、重なってはこない。両肩は、軽いままだ。
念のため、鏡を覗いた。土気色をした、僕の顔が、あるだけだった。
助かった、のか。
― ◇ ―
火曜日。九時二十七分。
僕は研究室に、顔を出さなかった。佐伯教授と、顔を合わせられなかった。ただ、それだけの理由だった。
脅されたのだ。あるいは、担がれたのか。からかわれたのかもしれない。どれも判然としなかったが、そう思えば、腹も立ったし、腑にも落ちた。だからこそ、あの人の前には、立てなかった。
電車には乗ったが、大学の最寄りでは降りず、そのまま乗り過ごした。今日は、どこか、遠い場所へ行きたかった。
相変わらず、すれ違う誰の背にも、影は乗っていた。しかし、僕の背には、重みはない。僕は腰を折ってなど、いない。前のめりになってなど、いない。あの、教授のようには。
吊り革に体を預け、僕は、詰めていた息をようやく吐いた。あの金曜の夜から、ろくに眠れていない。この数日、ただ首ばかりを、触っていた。その疲れが、まどろみとなって、僕を包む。立ったまま、僕は、半ば眠りかけていた。
そして、ふと、気づいた。
すぐ前に立つ、見知らぬ男の背から響く、かちり、かちりに――自分の呼吸が。吸って、吐いて。いつの間にか、その拍子に、合わせにいっていた。
冊子の一文が、氷水を浴びせるように、甦る。
己が息と鼓動を、かの者の刻む拍子に近づけるべからず。合いたる刹那、影は乗り移るなり。
とっさに、息を止めた。
だが、遅かった。
トク、トト。トク、トト。
いつの間にか、拍が、二重になっている。ひとつの鼓動の合間に、もうひとつ、微かに遅れて、重なる拍動。
ずしり、と、両肩に重みが乗った。冷たく、形容しがたい、圧力。抗おうにも、力が入らない。首が、ゆっくりと、前へ折れていく。
耳のすぐ後ろで、生温かい息とともに、かちり、かちりと鳴る。それに合わせて、解読できない何かの呟きが、絶え間なく、耳の奥へ流れ込んでくる。
首筋に、細く硬いものが巻きついた。締め上げてくる感触に指を這わせても、掴めるのは、自分の皮膚だけだ。実体など、ない。ただ、圧力と、音だけが、確かにそこにあった。
視界が、端から、赤黒く滲んでいく。何も、見えなくなっていく。
けれど、音だけは、最後まで、聞こえていた。
トク、トト。トク、トト。二つの鼓動が、次第に、ひとつのリズムへと近づいていく。
かちり、かちり、かちり――耳元の声が、頭の中を駆け巡る。
すべてが、混じり合った、その瞬間。
――ぴたり、と、音が、止んだ。
― ◆ ―
なぜ今、この記録が、あなたの前にあるのか。私には、知る由もない。
だが、ひとつだけ、確かなことがある。
かの者は、知られることによりて、識る者の裡に根を張る。認識された、その刹那にこそ、初めて"在る"ものとなる。ならばこの記録もまた、次に読み解く者を求めて、静かに渡り歩いているのであろう。あなたが、こうして最後の一行まで目で追ってしまった――今、この瞬間にも、ね。
かちり。
――今、あなたの部屋は、静かだろうか。
耳を、澄ましてみると、いい。
トク。トク。
その鼓動は、果たして、ひとつ、だろうか。
もし、すぐ後ろで、かちり、と、何かの鳴った気配がしたなら。
どうか、振り向かないで、ほしい。
視線さえ、合わせなければ――まだ、間に合う、はずだ。
……ああ、そう、だった。
「吉沢くん、少し、いいかね」
「なんでしょう」
「すまないが、そこの箱の資料を、整理して、もらえないかな。ほら、前に吉田くんに頼んでいた。漢字の、成り立ちの――あれ、だよ」
「ああ、そうでしたね。いいですよ」
道徳を説くつもりなど、ないの、だが。
やはり、人は。
――支え合ってでなければ、やっていけないもの、らしい。
……かちり。




