第5話 戦場、最前列
東の街道は、街を出て半日歩いたところにあった。
珠里は歩きながら、じわじわとテンションが上がっていくのを感じていた。
遠征だ。
遠征の感覚だった。知らない土地へ、推しを連れて向かう、あの感覚。
「愁さん」
ルシアスが隣を歩きながら言った。
「なんか楽しそうですね」
「楽しいよ」
「戦場に向かってるんですが」
「遠征だと思えばいいんだよ」
「遠征……」
「まだ引き返せますよ」
反対側からアイルが言った。
「引き返さない!」
「ですよね……」
アイルが小さく息を吐いた。
ルシアスが力なく前を向いた。
三人は黙って歩き続けた。
* * *
討伐隊との合流地点は、街道沿いの開けた草原だった。
十数人の冒険者が野営の準備をしていた。全員が武装していて、全員が疲れた顔をしていた。
その中心に、クロムがいた。
大柄だった。珠里の人生で見てきた人間の中で、おそらく三本の指に入る体格だった。
黒い鎧に傷跡だらけの腕、目つきは鋭く、立っているだけで周囲の空気が変わる男だった。
珠里は一目見て「強い」と思った。
クロムは三人を一目見て、黙った。
長い沈黙だった。
それからアイルに視線を向けた。
「……これが、ギルドから来た吟遊詩人か」
「はい、ルシアスです」
クロムがルシアスを見た。
黒い衣装。目元に線。前髪が目にかかっている。
クロムの目が細くなった。
「………………」
「何か?」
「いや、上からの命令だ。文句はない」
「文句はあるけど言わないってことですよね」
「………………」
「顔に出てますよ」
クロムが珠里を見た。
「お前は誰だ」
「愁です。プロデューサー兼マネージャー兼ファン代表」
「……ファン代表」
「そうです」
クロムがアイルを見た。
「こいつも一緒に来るのか」
「ギルドの引率として私が同行します」
アイルが言った。
「愁さんは……その、おまけで」
「おまけじゃないけど」
「おまけです」
クロムは三人に条件を出した。
「吟遊詩人は後方待機。戦闘には一切関わるな」
「どのくらい後方ですか」
ルシアスが言った。
「できる限り後方だ」
「具体的には」
珠里が言った。
「見えないくらい後方だ」
「それは困ります」
クロムが珠里を見た。
「なぜ困る」
「ルシアスの歌が討伐隊に届かないと意味がないので」
「届かなくていい。歌うだけでいい。上からそう言われた」
「届かない歌に意味はないです」
「………………」
「クロムさん、一つだけ聞いていいですか」
「なんだ」
「今まで吟遊詩人が戦場で歌うのを聞いたことありますか」
「ない」
「じゃあ一回だけ信じてみてください」
クロムは珠里を見た。
珠里はまっすぐ返した。
「………………後方待機だ」
「どのくらい後方ですか」
「この話は終わりだ」
* * *
夕方、斥候が戻ってきた。
魔物の群れは予想より規模が大きいらしかった。クロムが部下たちと低い声で話し合っていた。
珠里はルシアスの隣に座って、その様子を見ていた。
「……怖いですか」
ルシアスが言った。
「ちょっとだけ」
珠里は言った。
「あなたは」
「……正直に言っていいですか」
「どうぞ」
「めちゃくちゃ怖いです」
「正直だね」
「でも」
ルシアスがリュートの弦を静かに爪弾いた。
「歌いたい気持ちもあります」
「それで十分」
珠里は立ち上がった。
「明日、私が最前列にいるから」
「後方待機じゃないんですか」
「相対的に後方にいる予定」
「…………愁さん」
「なに」
「クロムさんに怒られますよ」
「怒られてから考える」
ルシアスが力なく笑った。
* * *
翌朝。
魔物の群れは街道の東側から現れた。
数は二十を超えていた。クロムが剣を抜いて、短く号令をかけた。討伐隊が動いた。
ルシアスが後方でリュートを構えた。
珠里がその隣に立った。
アイルがその隣に立った。
「……行きますよ」ルシアスが言った。
弦を弾いた。
最初の音が鳴った瞬間、前線の数人が一瞬だけ振り返った。
それだけだった。
ルシアスの声が乗った。戦場の喧騒の中でも、不思議と通る声だった。
珠里は後方で聞いていた。
……届いてる。
ちゃんと届いてる。
前線の動きが、わずかに変わった気がした。
剣を振る速さではなく、足の踏み込みの強さが変わった気がした。
気のせいかもしれなかった。
でも珠里には見えた。
十分が経った頃、珠里がいなくなっていた。
「……愁さん?」
アイルが横を見た。
いなかった。
前線を見た。
最前列に、見慣れた後ろ姿があった。
「愁さん!!」
「後方にいる!!」
「どこが後方ですか!!」
「相対的に!!」
クロムが振り返った。
珠里が最前列にいた。
「お前!!」
「後方です!!相対的に!!」
「相対的の意味を辞書で引け!!」
珠里は最前列で、ルシアスの方を向いた。
ルシアスが歌いながら珠里を見た。
目が合った。
来い。
そういう目をした。
ルシアスの声が、一段上がった。
その瞬間から、戦場の空気が変わり始めた。
討伐隊の何人かが、前線で足を踏み込む時に、口の中で何かを呟き始めた。
歌詞ではなかった。意味のある言葉でもなかった。
ただ、声に合わせて何かが出てきた。
「……なんか、テンション上がってきたな」
誰かが言った。
「俺も」
「なんでだ」
「分からん」
「でも上がってきた」
クロムは前線で剣を振りながら、後方からくる音を聞いていた。
聞きたくなかった。認めたくなかった。
でも聞こえた。
……なんだ、これは。
体が、動きやすかった。
さっきまでと同じ体のはずなのに、剣が軽かった。足が速かった。
理由が分からなかった。
分からないまま、剣を振り続けた。
そこへ、後方から声が上がった。
「クロムさん!!右側!!増援来てます!!」
アイルだった。
クロムが右を見た。
草むらの向こうから、新たな魔物の群れが現れていた。
数を素早く見積もった。
……まずい。
討伐隊の右翼が手薄だった。このタイミングで右から増援が来れば、隊列が崩れる。
クロムが号令をかけようとした瞬間。
ルシアスの歌が、変わった。
メロディが変わった。
テンポが上がった。
声の圧が、増した。
珠里がルシアスを見た。
ルシアスは増援の方向を見ていた。状況を、見ていた。
こいつ、自分で判断した。
珠里の背中が、ざわついた。
討伐隊の右翼にいた数人が、テンポの変化に引っ張られるように足を速めた。
無意識だった。
でも動いた。
クロムは右翼の動きを見た。
号令を出す前に、動いていた。
音に、引っ張られていた。
……なんだ。
こいつは、なんだ。
クロムは前線で剣を振りながら、後方のルシアスを見た。
黒い衣装の青年が、戦場の真後ろで、目を開けたまま歌っていた。
怖がっているはずだった。震えているはずだった。
でも声は、止まらなかった。
クロムは何か言いかけて——
やめた。
今は戦う時だ。
剣を振った。
でも頭の片隅に、あの声が残り続けた。
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