第16話 行ってきます
出発の朝は、静かなはずだった。
珠里は宿の部屋で荷物をまとめていた。
着替え、チェキの在庫、ルシアスへのメモ、アイルへの引き継ぎ事項。
必要なものを確認して、袋に詰めた。
ルシアスがベッドの端に座って見ていた。
「……荷物、少ないですね」珠里が言った。
「そうですか」
「遠征の荷物は軽い方がいい」
「遠征……」
「慣れてるから」
ルシアスが黙った。
珠里が荷物を閉じた。
「じゃあ——」
外が、騒がしくなった。
窓から見た。
宿の前に、人がいた。
一人じゃなかった。
五人でもなかった。
「……ノノだ」珠里が言った。
「人数が多いですね」ルシアスが言った。
「多いね」
「何人いますか」
「数えるのやめた」
外に出た。
ノノが飛んできた。
「来ました!!見送りに来ました!!」
「ありがとう」
「友達も連れてきました!!」
「うん」
「友達の友達も来ました!!」
「うん」
「友達の友達の友達も——」
「どこまで繋がってるの」
「分かりません!!気づいたらこうなってました!!」
珠里は人混みを見渡した。
百人は超えていた。
討伐隊員も何人かいた。
エレノアの屋敷の窓が開いていた。
《黄昏亭》の扉が少し開いていた。
……静かに出発するつもりだったんだけど。
アルトが前に出てきた。
「愁さん!!」
「なに」
「これ、ライブじゃないですか!!」
「ライブじゃない。見送りだよ」
「でも百人以上いますよ!!」
「見送りに百人来ただけ」
「ルシアスさんもいますよ!!リュート持ってますよ!!」
珠里がルシアスを見た。
ルシアスがいつの間にかリュートを持っていた。
「……持ってきてしまいました」ルシアスが言った。
「なんで」
「……なんとなく」
アルトが「ほらライブじゃないですか!!」と言った。
珠里は三秒考えた。
「ライブじゃない」
「でも!!」
「見送りの音楽があるだけ」
「それをライブと言うのでは!!」
「言わない」
「言います!!!!」
アルトがソプラを引っ張ってきた。
「ソプラ!!楽器出して!!」
「……なんで」
「ライブするから!!」
「ライブじゃないって言ってたじゃないですか」
「見送りの音楽!!」
「……同じじゃないですか」
「全然違う!!」
ソプラが珠里を見た。
「……やるんですか」
「見送りの音楽をやります」
「……分かりました」
ソプラが楽器を出した。
アルトが珠里に向き直った。
「ルシアスさんも歌いますよね!!」
珠里がルシアスを見た。
ルシアスがリュートを持ったまま、珠里を見ていた。
「……歌っていいですか」
「歌って」
ルシアスがリュートを構えた。
最初の一音が鳴った。
百人が静かになった。
アルトが歌い始めた。
ソプラが演奏を合わせた。
ルシアスの声が重なった。
前回より揃っていた。
アルトとソプラの息が、前より合っていた。
ルシアスの声がそこに乗った瞬間、三つの音が一つになった。
……これは。
珠里の耳が、止まった。
翳りと光が、混ざった。
別々だと思っていたものが、合わさった瞬間に別の何かになった。
討伐隊員の一人が、首を縦に振り始めた。
隣の仲間が同じように振り始めた。
「体が!!動きたくて!!」
誰かが言った。
「止まらねー!!」
「うおぉぉぉ!!」
走り出した。
一人が走り出したら止まらなかった。
二人が走り出した。
三人が走り出した。
輪になった。
サークルピットだった。
出発前の朝、宿の前の路地で、サークルピットが発生していた。
珠里は最前列で咲いていた。
ノノがその隣でヘドバンしていた。
「なんですかこれ!!」
「サークルピット」
「さーくるぴっと!!」
「輪になって走るやつ」
「楽しいですか!!」
「楽しいよ」
「入っていいですか!!」
「どうぞ」
ノノが輪の中に飛び込んだ。
「うおぉぉぉ!!!!」
クロムが珠里の隣に来た。
「……これは何だ」
「サークルピット」
「さーくるぴっと」
「そう」
「輪になって走っている」
「そう」
「なぜ」
「体が動くから」
クロムが黙った。
輪を見た。
輪の中の人間を見た。
全員が笑顔だった。
全員が息を切らしていた。
全員が同じ方向を向いて走っていた。
「………………」
クロムの足が、一歩動いた。
もう一歩動いた。
気づいたら輪の中にいた。
珠里は見た。
——クロムさんが輪の中にいる。
アイルが珠里の隣に来た。
「……クロムさんが」
「うん」
「輪の中に」
「うん」
「……見なかったことにします」
「今回はしなくていいよ」
「え」
「見ていい。ちゃんと見ておいて」珠里が言った。「記録しておく価値がある」
アイルがクロムを見た。
無表情で輪の中を走っているクロムを、まっすぐ見た。
「……業務として、記録します」
「うん」
「……個人的にも、記録します」
「うん」
* * *
演奏が終わった。
サークルピットが止まった。
全員が息を切らして、その場に立ち尽くした。
しばらく誰も喋らなかった。
それからほぼ同時に笑い出した。
知らない人間同士が、肩を叩き合っていた。
「最高だった!!」
「なんだったんだ今の!!」
「また来たい!!」
「俺も!!」
クロムが輪から出てきた。
珠里の前に立った。
「………………」
「どうでしたか」珠里が言った。
「………………」
「クロムさん」
「………………出発の時間だ」
「そうですね」
「………………行くぞ」
「はい」
珠里がルシアスに向き直った。
ちゃんと別れを言おうとした。
ノノが泣きながら飛びついてきた。
「行かないでください!!!!」
「帰ってくるから」
「約束ですか!!」
「約束」
「絶対ですか!!」
「絶対」
「本当に絶対ですか!!」
「本当に絶対」
ノノが離れた。
アルトが前に出た。
「僕も寂しいです!!」
「三ヶ月で帰る」
「三ヶ月!!長い!!」
「長くない」
「長いです!!でも待ちます!!!!」
ソプラが横から一言だけ言った。
「……気をつけて」
「ありがとう」
「……ライブハウスができる前に帰ってきてください」
「帰る」
「……デビューの時に、いてほしいので」
珠里はソプラを見た。
ソプラは無表情だった。
でもその一言に、全部が込められていた。
「絶対いる」珠里が言った。
ソプラが小さく頷いた。
エレノアの屋敷の窓が開いていた。
エレノアが窓から見ていた。
目が合った。
エレノアが軽く頭を下げた。
珠里も頭を下げた。
それだけだった。
それで十分だった。
《黄昏亭》の扉が少し開いていた。
マスターが腕を組んで立っていた。
珠里が近づいた。
「行ってきます」
「………………」
「帰ってきたら約束通りにします」
「………………好きにしろ」
「はい」
マスターが扉を閉めた。
珠里は笑った。
アイルが珠里の前に立った。
「……業務として、引き継ぎを確認しました」
「ありがとう」
「ライブハウスの建設、進めておきます」
「お願い」
「チェキの次回撮影も」
「お願い」
「エレノアさんへの報告も」
「お願い」
「……全部お願いばかりですね」
「アイルに全部任せた方が上手くいくから」
「……そういうことを言わないでください」
「なんで」
「……帰ってきたくなくなるじゃないですか」アイルが言った。「ここが居心地良くなりすぎて」
珠里は少し黙った。
「帰ってくる」
「……はい」
「ツアーファイナル、絶対行く」
「……はい」アイルが少し間を置いた。「でも」
「でも?」
「……帰ってくる前に、ここでやり残したことがないようにしてください」
「やり残したこと」
「ライブハウスができて、アルトとソプラがデビューして、ルシアスの音楽がもっと広がって」アイルが言った。「全部見届けてから、帰ってください」
珠里はアイルを見た。
「……それ、帰ってくるなってこと?」
「違います」アイルが言った。「全部終わったら、ちゃんと帰ってください。という意味です」
「……矛盾してない?」
「していません」
「していると思うけど」
「……していません」アイルが前を向いた。「業務として、帰還を待っています」
最後にルシアスと二人になる一瞬があった。
全員が少し距離を取ってくれていた。
珠里がルシアスを見た。
「行ってくる」
「……はい」
「帰ってくる」
「……はい」
「約束した」
「……全部、帰ってから教えてください」
「教える」
「……新しい曲も、帰ってきたら聞かせます」
「楽しみにしてる」
「……あと」ルシアスが言った。
「なに」
「……愁さんが戻ってくるまでに、ちゃんとここを守っておきます」
「守る?」
「チェキの撮影も、広場でのライブも、アルトさんとソプラさんのことも」ルシアスが言った。「全部、愁さんが帰ってきた時にそのままあるように」
珠里は何も言わなかった。
言えなかった。
笑った。
「……頼んだ」
「はい」
クロムが「行くぞ」と言った。
珠里が歩き出した。
振り返らなかった。
振り返ったら止まれなくなる気がしたから。
でも全部聞こえていた。
ノノがまだ何か叫んでいた。
アルトが「絶対帰ってきてください!!一生待ちます!!」と言っていた。
* * *
街道に出た。
討伐隊と合流した。
クロムが先頭で歩いていた。
珠里はその後ろを歩いた。
空が青かった。
風が気持ちよかった。
遠くに山脈が見えた。
——帰ってくる。
ライブハウスが完成する前に帰ってくる。
ルシアスの新曲を聞く前に帰ってくる。
アルトとソプラのデビューを見る前に帰ってくる。
でもまず——
「愁さん」
クロムが言った。
「なに」
「さっきのサークルピット」
「うん」
「………………もう一度やり方を教えろ」
珠里は三秒クロムを見た。
「今ですか」
「移動しながらでいい」
「………………分かりました」
珠里は歩きながら説明し始めた。
ギャ男との遠征が、始まった。




