第1話 ライブに行けない
数ある作品の中から本作を選んでいただきありがとうございます。
私は今、異世界の戦場後方で手扇子をしている。
後ろでは百人近い人間が叫んでいる。
足元に魔物が転がっている。
前線では大男がヘドバンしながら剣を振っている。
どうしてこうなったんだろう。
私の人生で最大の失敗は、チケットをコンビニで発券しようとしたことだった。
いや、正確には違う。
最大の失敗は、発券しようとした瞬間にコンビニ強盗が入ってきたことだ。
でもそれは私のせいじゃない。
つまり、どこにも非はないのに死んだ。
* * *
意識が戻った時、白い空間にいた。
床がない。天井もない。壁もない。
あるのは光だけで、立っているのか浮いているのか分からない。
珠里は三秒かけて状況を整理した。
コンビニ。強盗。痛み。
あ、死んだわ私。
妙に冷静な結論が出た。
そして次の瞬間、冷静じゃなくなった。
「ちょっと待って待って待って——ファイナル!?ファイナル行けないじゃん!!」
白い空間に叫び声が響いた。
目の前の光の柱が、びくっとした気がした。
『……珍しいな。強い未練で此処まで来た人間は久々だ』
声は頭の中に直接響いた。
神様っぽい声だった。
疲れていそうな神様の声だった。
「すみませんすみません、一個聞いていいですか」珠里は捲し立てた。
「私、今日チケット発券しようとしてたんですよ。ツアーファイナルの。もう何年も活動止まってたバンドが復活して、そのファイナルで、抽選当たったのに——」
『……チケット』
「そうなんですよ!!マルチコピー機の前まで行ってたのに!!予約番号も控えてたのに!!なんで強盗が!!タイミングが悪すぎる!!」
光の柱がまた沈黙した。
長い沈黙だった。
『……未練の内容を聞いて少し後悔した』
「ひどくないですか」
『いや、まあ。特別に、一つだけ願いを叶えよう』
珠里は一瞬で真顔になった。
願い。一つ。
考えた。
五秒考えた。
本当はライブに行きたい。
でも死んでいる。
死人を現世に戻すのはさすがにルール違反な気がした。
そんな強引なことを言って神様に嫌われたくない。
ならせめて。
現世に帰れた時に備えて。
「15歳若返らせてください」
『……は?』
「最近ずっと体ガチガチで!!首も肩も腰も全部ヤバくて!!21歳の頃に戻してくれたら遠征も余裕になるし、モッシュもヘドバンも全部耐えられるんで!!」
『モッシュ……ヘドバン……』
「体一個あれば現世に帰ってからのことはなんとかします!!」
光の柱がまた黙った。
今度は違う種類の沈黙だった。
どう返せばいいか分からない沈黙。
『……現世に戻す、とは言っていないが』
「え」
『体を若返らせる、とは言えるが』
「あ」
『送る先は、こちらの都合もある』
「ちょっと待ってください話が——」
意識が、遠くなった。
* * *
気づいたら、草原だった。
空は見たことのない青さで、山脈が遠くに見えた。
風が気持ちよく、鳥みたいな声がどこかで鳴いていた。
珠里はゆっくりと起き上がり、自分の手を見た。
シミも節もかさつきもない。
21歳の、自分がよく知っている手だった。
願いは叶っていた。
問題は他の全部だった。
スマホを探した。ない。
財布を探した。ない。
マルチコピー機の予約番号を控えたメモを探した。
当然ない。
あるのはくたびれたパーカーとジーンズだけだった。
珠里は立ち上がり、360度を見渡した。
草原。草原。草原。
遠くにうっすら、街らしき建物の輪郭。
帰れない。帰る手段が何もない。
つまり——
「ファイナル、行けない……?」
一拍の間があった。
「行けないじゃん!!!!」
草原に叫び声が響いた。鳥が十数羽、一斉に飛び立った。
「神様ァアアアアーーー!!!話が違う!!!せめて一言くれ!!段取りってもんがあるでしょ!!前振りなしにいきなり草原はやめてくれ!!!」
誰も答えなかった。
風が吹いた。
草がそよいだ。
それだけだった。
五分くらい叫んだ。
気が済んだので、落ち着いた。
泣いても現状は変わらない。
チケット落選した時も、好きなバンドが解散を発表した夜も、遠征先で財布を忘れた時も、泣いてどうにかなったことは一度もなかった。
前田珠里という人間は、そういうふうにできていた。
「……とりあえず、街行くか」
立ち上がり、ジーンズの土を払い、歩き出した。
21歳の体は、思っていたより軽かった。
膝が笑わない。
腰が痛くない。
踏み出すたびに「お、マジか」という感動があった。
これは良い。これだけは神様に感謝する。
草を踏みしめながら、珠里は街を目指した。
三十分歩いたところで、街の全貌が見えてきた。
* * *
石造りの城壁。
中世ヨーロッパの挿絵から抜け出たような門。
荷物を担いだ人たちが列を作っている。
珠里は目を細めた。
列の中に、明らかに耳が長い人がいた。
頭に角が生えている人もいた。
人間と並んで普通に歩いていた。
……ファンタジーだ。
珠里は立ち止まり、頭の中で情報を整理した。
異世界転生。
そういうやつか。
バンギャとして生きた14年間、優先順位の上位95パーセントはライブと物販と遠征資金の確保だったのでそこまで詳しくないが、構造は分かる。
前世の記憶は……ある。
というかそれしかない。
帰る方法は……不明。
現状のリソースは……21歳の健康な体と、14年分のバンギャ経験と、財布もスマホもない文無し状態。
「……まあ、行くか」
深く考えるのをやめて、列の後ろに並んだ。
* * *
門番は二人いた。
一人は人間、一人は頭に角が生えていた。
珠里は動揺を顔に出さなかった。
長年の現場経験で、初見の状況に動じない耐性だけは鍛えられていた。
初めて行ったライブハウスで出待ちの作法が分からなくても平静を装えるやつだ。
順番が来た。
「冒険者か? ギルドカードは?」人間の門番が言った。
「落としました」
「ならギルドで再発行してもらえ、顔は覚えた」
あっさり通された。
珠里は内心でガッツポーズした。
街の中は活気があった。
石畳の道に露店が並び、怒鳴り合う商人と走り回る子供と、鎧を着た人間と耳の長い人間と角の生えた人間が混在していた。
においは、まあ、現代とは違った。
珠里は気にせず歩いた。
フェスの会場外周、地方遠征の早朝、冬コミの屋外待機列。
鼻が曲がりそうな環境には慣れていた。
これは誤差だった。
問題は腹が減っていることだった。
露店の食べ物の匂いが鼻をかすめるたびに、21歳の体が正直に反応した。金がないのに体だけ元気だった。
路地の角でしゃがんで考えた。
帰る方法を探したい→情報がいる→情報には金か信用がいる→金はない→信用もない→ゼロから作るしかない。
バイトか。
立ち上がった瞬間、近くの建物から音が漏れてきた。
音楽だった。
路地の奥に、地下へ続く階段があった。
看板に《黄昏亭》と書いてあった。
扉を開けると、薄暗い酒場だった。
昼間なのに客が数人いて、全員が黙って杯を傾けていた。笑い声はなく、会話もなく、漂う空気は重かった。
奥の小さなステージに、青年が一人立っていた。
リュートらしき楽器を抱えて、歌っていた。
珠里の足が止まった。
メロディは単調だった。
昔話を朗読するような起伏のないバラードで、詞は多分大昔の英雄譚か何かだった。
でも声が、良かった。
聞こえた瞬間に「待って」ってなる声だった。
待って待って待って——
珠里は黒パンを持ったまま固まった。
二音目で、口の中のものを飲み込んだ。
三音目で、身を乗り出した。
「ちょっと待って」思わず声が出た。
隣の客がびくっとした。
「え、何この人、声良くない!?」
マスターが迷惑そうにこちらを見た。
珠里は気にしなかった。
久しぶりにアドレナリンが出ていた。
青年の外見は、声に反して地味だった。
くすんだ茶色のシャツに、くたびれたズボン。
癖のある薄茶色の髪を雑に後ろで束ねていた。
肌は白く、手は細長い。そして耳が長かった。
エルフ。
エルフが、もったいない。
あの声で、あの曲で、あの見た目で。
珠里の中で何かが疼いた。
昔、まだ地下に潜っていた頃に感じた感覚と同じだった。
誰にも見つかっていない原石を、自分だけが見つけた時の感覚。
マスターに皿洗いで飯と交換してもらい、珠里はカウンターで黒パンをかじりながらステージを眺め続けた。
三十分後、青年はステージを降りた。
拍手はまばらだった。
数人が義務のように手を叩いて、また杯に戻った。
青年は深くお辞儀をして、珠里の二席隣に座り、水を一杯だけ頼んだ。
食事を頼まない。
それだけで現状が分かった。
珠里は黒パンを置き、青年の横顔を見た。
疲れていた。
肉体的な疲れじゃなくて、やる気とか希望みたいなものがじわじわ削られている類の疲れ方だった。
知っている顔だった。
好きな音楽を続けているのに、誰にも届かない時期の顔。
「ねえ」
気づいたら声をかけていた。
青年がこちらを向いた。目が合った。
近くで見ると、顔が良かった。
骨格が綺麗で、目の色が薄い琥珀色で、声と同じくらいかそれ以上だった。
珠里は二秒それを確認して、本題に入った。
「さっきの、自分の曲じゃないよね」
「……はい」
青年は少し驚いた顔をした。
「伝統的な叙事詩です。吟遊詩人なら誰でも歌う曲で」
「自分で作った曲は?」
「……あります、が」
「聞かせてほしい」
青年は珠里を見た。
「どうしてですか」
珠里は迷わず答えた。
「声がもったいなさすぎるから」
青年の表情が、かすかに変わった。
「……お客さんを喜ばせる曲じゃないと、ここでは弾けません」
「誰が決めたの」
「マスターが」
珠里はカウンター越しに振り返った。
太った男が面倒くさそうにこちらを見た。
「閉店後に一曲だけ聞かせてもらっていいですか。私が判断します」
「お前が?」
男は鼻で笑った。
「私が」
「……好きにしろ」
珠里は青年に向き直った。
「名前は?」
「……ルシアス、です」
「私は——愁」
言ってから、少し驚いた。
愁。
そう名乗ったのは、いつぶりだろう。
バンギャとして一番動いていた頃の、ライブハウスの中だけで使っていた名前。
会社に入ってからは完全に封印していたはずなのに、21歳の体に引っ張られたのか、勝手に出てきた。
……まあ、いっか。
今の自分には、珠里より愁の方が似合う気がした。
「愁、さん」
「うん。よろしく」
珠里は黒パンの残りをかじった。
脳みそが全力で動き始めていた。
閉店後の酒場で、ルシアスはリュートを抱えた。
客が全員出て行って、薄明かりだけが残った静かな空間で、珠里はカウンターに肘をつき、顎を手で支えた。
「じゃあ、弾いて」
ルシアスが弾き始めた。
最初の一音で、珠里は「あ」と声が出そうになって、口を押さえた。
さっきの叙事詩とは別物だった。メロディに起伏があって、感情が乗っていて、不安定で粗削りで、でも確かに何かを掴もうとしている曲だった。
声が乗った瞬間、空気が変わった。
ある。
これは、ある。
コンセプトがない。
見た目が死んでいる。
曲の構成も荒い。
でも声と音に芯があった。
曲が終わった。
ルシアスが珠里を見た。評価を聞くのが怖い人間の顔だった。
珠里は立ち上がった。
「ルシアス、明日時間ある?」
「……え、はい」
「街で買い物したい。付き合って」
「か、買い物……曲は、どうでしたか」
「良かったよ。だから買い物」
「……買い物と曲に何の関係が」
「全部関係ある」
珠里は言い切った。
「布と炭と細い紐買いたい」
「ぬ、布と炭と紐……?」
「あなたの衣装作るの」
ルシアスが固まった。
「……衣装」
「そう。あと髪と顔も変える。声と曲はあるんだから、あとは見た目だけの問題」
「み、見た目……?」
「絶対化けるから信じて」
ルシアスはしばらく珠里を見て、困ったように言った。
「……あなたは、何者ですか」
珠里は少し考えた。
「推しを作りに来た人間、かな」
意味は半分しか伝わらなかっただろうと思う。
でも珠里は気にしなかった。
宿に向かう夜道を歩きながら、珠里は空を見上げた。
星が多かった。
現代の都市では見えない類の星空だった。綺麗だった。
帰りたい。
ファイナル、絶対行く。
誓いを新たにして、珠里は歩いた。
「本当に衣装を作るんですか」
「作るよ」
「ちなみにどんな感じの……」
「うーん、かっこいいやつ」
「もっと具体的に……」
「着たら分かるから安心して」
ルシアスが黙った。
まだ何も始まっていないのに、珠里はもう楽しかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
補足説明
【モッシュ】
ライブ会場で観客同士がぶつかり合いながら動く行為です。
【ヘドバン】
頭を激しく上下や左右に振る行為です。
【咲き・手扇子】
推しに向かって行う特定のアクションです。
※諸説あり




