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第1章 降臨際 Ch04 歌姫ミレイユ

 ミレイユは教会の控え室の中央に立ち、声を出さずに口だけ動かしていた。


 唇が拍を刻み、指先が膝の横で小さく開閉する。今夜の白を身体に通している最中だった。声はまだ出さない。息を深く吸い、胸を開き、喉の奥を確かめる。器の方が先に整わなければ、声は鳴らない。鳴らなければ、クオリアも応えない。


 ふいに足が止まった。目を閉じたまま、指先で広場の方角を指した。石壁越しに、遠くの共振板の調律音がかすかに振動として届いている。ミレイユはその振動を拾って、自分の拍と合わせようとしていた。


 ふいに控室の簡素な扉が開いた。


「呼吸、整ってる?」


 ミレイユが振り返った。衣装の襟元を直しかけた手が止まる。


「オフィリア。来てくれたの」

「巡回のついで」


 ミレイユが黙って見た。オフィリアが目を逸らした。天井を見た。壁を見た。


「——嘘。顔見に来た」


 ミレイユが笑った。舞台用の笑顔ではなかった。唇の端が片方だけ上がる、素の顔だった。オフィリアの前でだけ出る顔。舞台の上では両方の口角が均等に上がる完璧な笑みを作れる。素では左だけ上がって、右がちょっと遅れてついてくる。オフィリアの前では直さない。


「緊張してる?」

「してない」


 少し間があった。


「——してるかも。今夜の予想人数、聞いちゃったから。ちょっとだけ」

「あんたが歌うんだから大丈夫よ。盛り上がりすぎたらあたしが止める」

「止めないで。お願いだから」


 ミレイユが両手を合わせて拝む真似をした。オフィリアが鼻で笑った。この二人の間には、片方が切り込んで片方が受け流す呼吸があった。やり方が正反対だからこそ一緒にいると楽だった。


 二人の間に短い沈黙が落ちた。控え室の石壁が、遠くの共振板の調律音を柔らかく反響させている。低い振動が床を伝い、足の裏にかすかに触れた。


「ねえ、シードの子。どんな子だろうね」

「さあ。報告書には翼があるとしか。あたしもまだ会ってない」

「翼かあ」


 ミレイユが天井を見上げた。ガス灯の光が瞳の中で揺れている。


「天使みたいなのかしら?歌、聞いてくれるかな」

「聞くでしょ。耳がついてれば」

「そういう意味じゃないの」


 声が少し低くなった。


「あたしが歌うと、みんな同じ方を向くでしょ。それは分かってる。技術だから。でもその後に、その子の中に何か残るかどうかは、技術じゃどうにもならない」


 オフィリアは次の言葉を選ばなかった。


「あんたの歌を聴いて何も残らない生き物がいたら、そっちが壊れてるわ」


 雑で、乱暴で、だからこそ本気だった。ミレイユがまた笑った。今度は両方の口角が上がっていた。


「行くね。あたしも準備が残ってる」

「うん。ありがとう」


 オフィリアは扉に手をかけ、振り返らずに言った。


「今夜、よろしく」


 扉の向こうに広場の喧騒が一瞬だけ流れ込み、すぐにまた閉じた。控え室にひんやりとした静寂が戻る。


 ガス灯の炎が揺れ、石壁の影がゆっくり動いた


 さっきより少しだけ、ミレイユの肩の力が抜けていた。

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