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第1章 降臨際 Ch09 灯台崩壊と最初の奇跡

 サマエルが動いた。舞台の東翼で、腕が上がった。あの男の目が灯台を見ていた。群衆が歓喜に酔っている間に、炎の異常を読んでいたのはオフィリアだけではなかった。


 演奏を始める時と同じ、指先が一度だけ空を切る動作だった。だが今度は止めていた。帝国の共振板が沈黙し、黒の楽団が一斉に弓を下ろした。白の楽師たちの手が止まる。ミレイユの声が途切れた。


 その急な静寂が、灯台上部のやぐらが軋む音を無常に響かせた。


 聖火が構造材に燃え移っていた。支柱が軋みながら折れかけている。やぐらの上部構造がゆっくりと傾いた。灯台の真下へ。アウローラの楽師たちがいる方へ。


 舞台の上で、ソフィが灯台の方を見た。浮いていた足が、石畳に降りた。


 足がつくと同時に、翼が開いた。歓喜に応えて少しずつ広がった先ほどとは違った。背中の膜が一息に、夜空へ咲くように広がった。ガス灯の橙でも聖火の青でもない光が翼そのものから溢れた。


 あの髪と同じ、一つの色に留まらない光。だが髪が周囲の光を映し返していたのに対して、翼は自分自身から光を生んでいた。


 その光が、動いた。


 翼の縁から溢れていた光が、あの子の腕を伝って指先へ流れていく。両手が前に出た。水をすくうように、小さな手のひらが灯台の方へ差し出された。何かを守ろうとする手つきだった。


 やぐらが軋む音が聞こえたのか、その下にいる人間が見えたのか、それとも何も分からないまま身体が先に動いたのか。オフィリアには分からなかった。だがあの手は、さっき群衆の中の泣いている男に伸ばしかけて届かなかった手と、同じ手だった。


 差し出されたソフィの手ひらに光が集まる。翼から腕へ、腕から指先へ、まるで血流のようにソフィの身体を通っているようだった。そして、白い光の球が大きく膨らむ。どんどん膨張している。灯台のやぐらが折れた。構造材がアウローラの楽師たちの上へ落ちていく。


 ネフィリムの腕がオフィリアの肩と頭を掴み、椅子ごと引き倒した。石畳に背が打たれた。ネフィリムの外套が覆いかぶさった。その瞬間。ソフィの手のひらの光球が閃光のように弾けた。オフィリアの視界が白く飛んだ。


 音が消えた。石畳の冷たさが消え、ネフィリムの外套の重みが消えた。何も見えない白い場所にいた。時間が抜けた。映写機のフィルムが一枚飛んだような、世界の連続が途切れる感覚だった。


 最初に戻ったのは匂いだった。焦げた木と、熱い金属と、血の鉄の匂いが一度に鼻を突いた。次に音。悲鳴と、木材が砕ける音と、石畳に何かが叩きつけられる音が耳の中に殺到した。最後に重さが戻った。石畳が背中を押している。ネフィリムの外套が肩にかかっている。自分がまだ生きていることを、身体の重さで知った。


 やぐらは落ちていた。


 ネフィリムの外套の隙間から広場を見た。灯台の足元に木材と金具が散乱している。燃える構造材の下にアウローラの楽師たちが挟まれ、砕けた共振板の破片で腕を切り、聖火の余炎で肌を焼かれた者がいた。


 折れた骨が皮膚の下で歪な角度を作り、裂けた傷口から血が石畳を赤く染めていた。悲鳴と嗚咽が灯台の足元を埋めている。


 天華の結晶がまだ降っていた。白い光の欠片が、血の上に積もっていく。だが死を感じなかった


 頭を直撃するはずだった梁が肩をかすめている。胸を貫くはずだった金具が腕の外側を裂いている。首に落ちるはずだった支柱が、あと一寸のところで石畳を砕いている。致命だけが抜けている。どれもほんの少しだけ、ずれていた。誰一人、死んでいなかった。あり得なかった。オフィリアの背筋に冷たいものが走った。恐怖ではなかった。理解の外にあるものを見た時の、身体の底からくる異様さだった。


 舞台の上で、ソフィが膝をついていた。翼がまだわずかに光を帯びている。目が霞んでいた。焦点が二つあるような、遠いものと近いものを同時に見ているような目だった。大司教はその傍らに立っていたが、光が弾けている間、老人は動けなかった。神に出会った者の目をしていた。光が消えて、ようやく老人の手が小さな肩に伸びた。


 オフィリアは我に返り、ネフィリムの腕を押しのけた。


「——離して」


 低い声だった。命令ではなく、身体が先に動いていた。外套の重みが外れた。石畳に手をついて身体を起こし、膝が震えるのを無視して立った。さっきの白い空白のせいか、足の裏が地面を掴めない。構わなかった。裾を掴んで走った。瓦礫に引っかかって裾が裂けた。構わず石畳を蹴り、倒れた天幕の支柱を跨ぎ、群衆の背中を肩で押し開けた。


 その喧騒の向こうで、大司教がソフィの肩を抱いて教会の扉へ向かっていくのが見えた。あの子の足取りは危うかった。大司教の腕がなければ歩けていない。白い髪が群衆の隙間に消えていく。追いたかった。だが今は走る先が違う。


 背後でヴェロンの紋章を胸につけた白衣の集団が、広場を割って入ってきた。コレギウムの医術師たちだった。先頭の男が携帯蒸気灯を掲げ、白い光で倒れた人間の顔を一人ずつ照らしていく。


 呼吸を見て、出血を見て、意識を見て、三つ数える間に指が赤か黄か黒かを示した。その指示だけで後続が動く。担架が滑り込み、小型の蒸気機関が唸り始め、処置台が石畳の上に並んだ。祭の裏側でこの瞬間をずっと待っていた人間たちの手が、一斉に動き始めていた。


 足元で蒸気管の弁が切り替わる音がした。今朝オフィリアが油を差せと言った、あの弁だった。灯台の足元まで辿り着いた。瓦礫を越えて、アウローラの展開位置に入る。金糸の刺繍が石の縁に擦れて、糸がほつれた。


 その向こうに、白が見えた。ミレイユだった。仰向けに倒れている。白い衣装の裾を、赤がじわじわと食い上がっていく。右の大腿部をやぐらの構造材がえぐっていた。ミレイユはそれを見ていた。自分の脚から石畳に広がっていく血を、痛みで顔を歪ませたまま、はっきりした目で見下ろしていた。


 オフィリアの足が止まった。一瞬だった。医術師の目が傷口を読んでいた。深い。筋膜の下まで裂けている。出血の速さが、表層の傷では説明がつかない。


 白衣がオフィリアの肩に落ちた。追いついたネフィリムが、後ろから被せていた。振り返らなかった。裂けた金糸の衣装の上から袖を通した。胸元にヴェロンの紋章がある。


 ネフィリムの手袋が外されていた。露わになった指の甲に、暗い痣が走っている。普段は誰にも見せない手だった。オフィリアはその手を見た。一瞬だった。痣の色と範囲を、医術師の目が勝手に読んだ。古い。だが広い。いつからあるのか、何なのか——今は訊かない。だが目は覚えていた。


 その素手が、左足の外套の裾から金属の筒を抜いた。軍人が佩刀を抜く手つきだった。筒が刃物のように伸びた。ステッキほどの長さになり、上部に二つの金属球体が現れる。それをネフィリムが杖を地面に突いた。低く、重い音が石畳を伝った。


 杖がミレイユの脚に掲げられた。素手の指先が球体を弾いた。球体が高速で弾き合い、硬質な衝突音が連続して走った。広場の喧騒とは別の神々しさを感じる甲高い音だった。衝突のたびに球体の隙間から青白い光が線になり、ミレイユの脚を包む薄い膜を形成した。聖火の赤でも天華の白でもない、骨と血管の向こう側まで届く冷たい光だった。膜の向こうに、裂けた筋膜と血管の走行が透けて見えた。


 オフィリアはその数秒を逃さなかった。薄れていく像の中に、裂けた筋膜の形、血管の走行、内膜が堪えている一点の位置を、目が全部拾って記憶に灼きつけた。像が薄れていく。その数秒を逃さなかった。裂けた筋膜の形、血管の走行、内膜が一枚だけ堪えている位置——目が全部拾って、灼きつけた。膜が霧散した。像は消えた。だが目の奥に、今見たものがそのまま残っている。


「大腿動脈の損傷。内膜一枚で繋がっています。体勢を変えれば裂けます。ここでは縫合できません」


「——動かすわ」


 ミレイユの目が揺れた。オフィリアは微笑まなかった。代わりに、ミレイユの手を一度だけ強く握った。


「ここからはあたしの仕事よ!」


 天華の最後の一粒が、オフィリアの手の甲に触れて、淡く弾けた。

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