第五章 最初の試練
翌朝、二人は早く起きて出発した。
廃墟を離れて北西に向かうと、森が深くなった。木々の間隔が狭まり、日光が地面まで届きにくくなる。足元には根が張り出していて、歩きにくい。
「何かを感じるか」エルネが後ろを歩きながら言った。
「感じるとは?」
「お前の血筋特有の感覚だ。光の感覚と呼ぶ者もいる。方向や危険を直感するような感覚だ」
ルードは立ち止まって、周囲に意識を向けた。石板を握ったときの感覚を思い出して、それに似た何かがないかを探す。
あった。
前方の、斜め左。何かがある。何かが「ある」という感覚だ。物ではなく、気配のようなもの。
「何かが左前にいる」ルードは言った。
「わかった。左に回り込む。右に動くな」
二人はゆっくりと右方向に迂回し始めた。左前の気配は動いていない。待っているのか、あるいは気づいていないのか。
十分ほどかけて気配から距離を置いた頃、後方から音がした。
振り向いた瞬間、茂みから何かが飛び出してきた。
大きかった。犬くらいの体格だが、形が違う。四本脚ではなく六本脚で、体の色は暗い緑だ。頭に角のような突起が二本ある。口から光る体液が滴っている。
エルネはすでに剣を抜いていた。ルードも短剣を引き抜いた。
生き物が跳んだ。エルネに向かって。エルネはそれを横にかわして、剣の柄でその体を叩いた。生き物は地面に転がって、素早く体勢を立て直した。
「魔導符を使え!」エルネが叫んだ。
ルードは石板を左手に握って、右手の短剣に意識を向けた。訓練でやったことだ。石板から短剣へ、何かを流し込む。
短剣の刃が薄く光った。
生き物が今度はルードに向かってきた。ルードはかわしながら、光った短剣で生き物の体を斬った。
生き物が大きな声を上げた。傷口から光の粒子が漏れ出した。そして生き物は足を止めて、ルードたちから距離を置いた。
「逃げる。通常の武器なら傷つけることができる程度だが、魔力を付与された武器は痛みが違うらしい。そいつにとっても予想外だったようだ」
生き物はじりじりと後退して、やがて森の中に消えた。
ルードは息を整えた。心臓が速く打っていた。
「今のが、向こう側の生き物か」
「ああ。中くらいの脅威のものだ。あれより大きいものもいる」
「名前は?」
「こちら側での記録では『緑爪』と呼ばれている。知性はなく、縄張りに入ってきたものを攻撃する習性がある」
ルードは光った短剣を見た。光はもう消えていた。
「魔力付与はいつまで持つ?」
「石板の質と使用者の力による。お前の場合、まだわからない。今回は十秒ほどだったが、慣れれば長くなる」
二人は歩き続けた。
午後になって、森が開けた。広い草原が広がっていた。草の色はこちら側のものより少し明るく、風に揺れると銀色に光る。
草原の中央に、人影があった。
一人だった。老いた人間の男のように見えた。地面に座って、何かをしている。
「近づくか」ルードは言った。
「観察する。少し待て」
二人は草の陰から観察した。老人は地面に何かを書いていた。棒を使って、地面に文字か図形を描いているようだった。
「人間か」
「見た目は。だが向こう側には、人間と見分けのつかない者もいる」
「どう判断する」
「話しかけてみるしかない場合もある。ただし……」エルネは少し間を置いた。「あの老人に見覚えがある。私が五年前に来たとき、この草原で会った」
「友好的だったのか」
「友好的だった。情報もくれた。名前はクリーネという」
エルネが立ち上がって、老人に向かって歩き始めた。ルードもついていった。
老人は二人が近づいても驚かなかった。振り向きもせず、地面に何かを書き続けている。
「クリーネ」エルネが声をかけた。
老人がゆっくりと振り向いた。白髪で、顔に深い皺が刻まれている。目は青い。老いているが、その目には知性の光があった。
「エルネか」老人は言った。聞き取れる言葉だったが、こちら側の言語とは微妙にイントネーションが違った。「また来たか。今度は連れがいる」
「この者はルード・アルヴェンという。今回の任務の核になる人物だ」
「アルヴェン」老人は繰り返した。目がルードを見た。じっと、長い間、見た。「アルヴェンの息子か」
「そうだ。父のクレントを知っているか」
「知っている」老人は立ち上がった。思ったより背が高かった。「七年前に会った。この草原で、お前と同じように歩いてきた。目の色がお前と同じだ」
「父は今どこにいる」
老人は首を横に振った。「わからない。七年前に会ったのが最後だ。だが噂は聞く。中央の塔に囚われているという噂だ」
「中央の塔」
「裂け目の中心部にある。大断絶の傷が最も深い場所だ。そこには昔から何かがいる。三百年前から。クレント・アルヴェンはそこに向かって行って、戻ってこなかった」
「そこに向かうにはどう行けばいい」
老人はしばらく考えた。それから地面に描いていた図を指して言った。「この地図を見ろ。今お前たちがいるのはここだ」
ルードは老人が描いた地図を見た。大まかな地形が描かれていて、中央に星のような印がついていた。
「中央の塔はここだ」老人が星の印を指した。「現在地からは二日歩けば着く。ただし、そこに向かうにはいくつかの場所を通過しなければならない。そのうちのひとつは、通行料が必要だ」
「通行料?」
「金ではない。『証明』だ。裂け目の守り手と呼ばれる者たちがいる。彼らは光を知覚できる者しか通さない。お前はその能力があるから問題はない。ただし、その能力を守り手に証明しなければならない」
「どうやって証明する?」
「守り手に会えばわかる。彼らが試してくる」
老人はルードをまた見た。「アルヴェンの息子よ、一つ聞いてもいいか」
「なんだ」
「お前の父は、中央の塔の秘密を解き明かそうとしていた。その秘密が何かを、お前は知っているか」
「知らない。父が何を調べていたかは、組織からあまり聞かされていない」
老人は少し考えた。「正直に言う。お前の父の調べていたことは、非常に危険なことだ。三百年前の大断絶の真実に関わる。それを知ってしまった者は、いなくなってしまう。クレント・アルヴェンだけではない。過去にも何人もそうなった」
「それでも父を見つけに行く」
「わかっている」老人は頷いた。「だから伝えた。気をつけろ、という意味だ。知識は力だが、知りすぎた知識は鎖になる」
ルードはその言葉を反芻した。知りすぎた知識は鎖になる。
「ありがとう、クリーネ」エルネが言った。「情報に感謝する」
「礼には及ばん」老人は再び地面に座り始めた。「またここを通ることがあれば、話を聞かせてくれ。私はいつもここにいる。向こう側に帰ることができなくなって、もう四十年になる」
二人は老人に別れを告げて、北西へと歩き続けた。
日が傾き始めた頃、ルードは老人の最後の言葉を思い出した。
「向こう側に帰ることができなくなった、と言っていた」
「そうだ」エルネは言った。「こちら側に閉じ込められた者がいる。渡り機がその者を認識しなくなる場合がある。理由は様々だが、こちら側に長くいすぎると、血の性質が変わることがあるらしい」
「クリーネもその一人なのか」
「そうだ。だから彼はここに住んでいる。こちら側で生きていくことを選んだ」
ルードは振り返った。草原の中央に、老人の小さな影が見えた。地面に何かを書き続けている。
四十年間、ここに一人でいる老人。その孤独はどれほどのものか、ルードには想像することしかできなかった。




