冬至点:骨のささやき
練馬の住宅街、その袋小路の奥にひっそりと佇む実家の喫茶店。
閉店を告げる看板を下げてから三十分。店内の空気は、焙煎したての豆の香ばしい余韻と、少しばかりの生活臭が混ざり合い、ぬるい繭のように僕を包み込んでいた。
カウンターの奥では、父が使い込まれたネルフィルターを洗いながら、静かに片付けを進めている。その規則正しい水の音だけが、深夜の板橋へ続く静寂を等間隔に刻んでいた。
「……紫さん、今日も遅くまでありがとうございます。母さん、もう寝ちゃったみたいですけど」
僕はカウンターに肘をつき、目の前に座る女性――葵紫さんを見つめた。母の数少ない茶飲み友達であり、僕にとっては、この夜の帳を自由に歩ける数少ない「知恵者」に見える人。
「あの……さっき言ってた『ルーン』ってやつ、ちょっと見せてくれませんか?」
僕は少しだけ恥ずかしくなり、視線を伏せた。十六歳の僕にとって、そんな非日常な世界に首を突っ込むのは、少しだけ勇気のいることだったから。
紫さんはふふ、と喉の奥で笑い、使い込まれた藍色の小袋をカウンターに置いた。
「ふふ、晶くんが興味を持ってくれるなんて嬉しいわね。いいわよ、今日は特別に教えてあげる」
紫さんは袋の紐を解き、中から白い破片をいくつか掌に転がした。
「ルーンってのは、古い北欧の文字で、ただの文字じゃなくて『力』を持ってるの。原始の文字っていう二十四個の基本セットがあって、それぞれに深い意味があるのよ。……これ、何でできているか分かる?」
差し出された石のようなそれは、街灯の下で見るよりもずっと、有機的な滑らかさを帯びていた。
「……石、じゃないみたいだ」
「正解。これは動物の骨を削ったもの。昔の人は、命の欠片に未来を託したのね。はい、一つ引いてごらん。……そう。冷たくて少し重いでしょう?」
掌に乗った骨の感触は、僕の体温をじわりと吸い取っていくようだった。
「それが家畜だったら豊かさや新しい始まりを、雄牛なら力強さや健康を表すの。全部覚えなくていいわ。最初は直感で感じるだけでいいのよ。ルーンは『話しかけてくる』ものだから」
紫さんはそう言うと、丁寧に淹れ直した中深煎りのブレンドを、僕の前にそっと差し出した。地元ロースターが焼いたその豆は、今の僕の緊張を解きほぐすような、まろやかで優しい湯気を立てている。
「飲んで落ち着きなさい。……じゃあ、今日は晶くん自身を占ってみましょうか。まだ占いを知らない君に、ルーンが何を教えてくれるか」
紫さんは袋を僕の方へ押しやった。
「袋を振って、三つ引いてみて。過去・現在・未来の並びで。私が言葉を教えるから、怖がらないで」
僕は温かいカップを一度握りしめ、指先に熱を馴染ませてから、おそるおそる袋の中に手を伸ばした。
カチ、カチと、骨と骨がぶつかり合う乾いた音が、静かな店内に響く。
「……え、僕が引いたの……これ」
カウンターの上に並んだ三つの白い欠片。
「……旅? それと、伝達と……氷? 紫さん、これってどういう意味ですか?」
僕は目を丸くして紫さんを見た。文字というよりは、鋭い引っかき傷のような象形が、そこには刻まれていた。
「晶、コーヒー淹れ直すか?」
奥から父が優しく声をかけてきたが、僕は生返事しかできなかった。目の前の三つの骨が、まるで僕の知らない僕を指し示しているような、不思議な圧迫感を感じていたからだ。
「いい引きね、晶くん」
紫さんは満足げに頷い、最初の一つ――旅を指先でなぞった。
「旅は正しい道筋。君はこれから、占いやコーヒー、人の心を読む道を自然と歩き始めるわ。そして二つ目、伝達は『知恵』や『言葉の力』。君の静かな声が、いつか誰かを導くようになる」
紫さんの言葉が、熱いコーヒーと一緒に僕の胸に落ちていく。
「そして最後、氷……。一時的な停滞。今はまだ動けない、何者でもない自分にもどかしさを感じているかもしれない。でも、それは準備の時間よ。氷が溶けたとき、すごい流れが来るわ」
紫さんは僕の目を見つめ、静かに、けれど確信を持って告げた。
「晶くん。君は派手なリーダーじゃなく、『導く者』になるの。……これがルーンの答え。どう? 少し、未来が見えた気がする?」
僕は最後の一口、少し冷めたコーヒーを飲み干した。
骨の冷たさと、コーヒーの熱。その二つが僕の中で混ざり合い、背中を微かに震わせる。
まだ、自分が何者になるかなんて分からなかったけれど。
この夜の静寂が、以前よりも少しだけ、僕に味方をしているような気がした。
カウンターに並んだ三つの白い骨。 紫さんの解説を聞き終えた僕は、自分の内側に小さな火が灯ったような、形容しがたい高揚感を感じていた。
「……すごいな。ただの骨なのに、今の僕の気持ちを言い当てられたみたいだ」
僕は思わず、再び藍色の袋に手を伸ばした。 もっと知りたい。自分の将来のこと、学校のこと、まだ見ぬ明日がどうなるのか。
「紫さん、もう一回引いてもいいですか? 今度は、もっと先のことを――」
「駄目よ、晶くん」
紫さんの静かな、けれど通る声が僕の手を止めた。
彼女は僕の前に置かれた氷のルーンを指先で弾き、袋の中へ戻した。
「占いで一番難しいのはね、『自分を占うこと』なのよ」
「えっ、どうしてですか? 自分のことなら、一番よく分かってるのに」
僕は拍子抜けして、袋を握ったまま紫さんの顔を見返した。奥の流しでは、父が磨き終えたグラスを棚に戻す、澄んだ音が響いた。
「逆よ。人は自分のことになると、どうしても『見たい未来』や『避けたい不安』というフィルターをかけてしまう。鏡を覗き込んでも、自分の背中は見えないでしょう? それと同じ。心に主観という曇りが入ると、ルーンは本当の言葉を喋るのをやめてしまうの」
紫さんは僕の飲み干したカップをそっと引き寄せ、空になった底を見つめた。
「自分のために石を振れば、それはただの『願望』になる。けれど、誰かのために振るなら、それはその人のための『道標』になるわ。晶くん、あなたがもしこの道に触れたいなら、自分の心を真っ平らに保つことを覚えなさい。自分を占うのは、鏡の中の自分を捕まえようとするような、終わりのない迷路なのよ」
僕は、袋の中でジャラリと鳴った骨の重みを感じた。
自分がどうなりたいかではなく、道具が何を示しているかを、ただ静かに受け取るための器になること。
「鏡の中の……自分」
「そう。いつか君が、誰かのためにその手を差し出すとき。君の主観は邪魔なだけ。ルーンやコーヒーの粉が語ることを、余計な色をつけずに伝えてあげる……それが『導く者』としての、たった一つの、そして一番難しいルールなの」
紫さんは袋を優しく僕に手渡した。
「今日はこれくらいにしておきましょう。このルーンの冷たさを、忘れないでね」
僕は預かった袋を、宝物というよりは、何か鋭利なナイフでも入っているかのような緊張感で受け取った。 自分を占ってはいけない。その戒めは、十六歳の僕の胸に深く、氷のルーンのように冷たく刻まれた。
「……ありがとうございました。紫さん」
「いいわ。さあ、もう遅いわよ。明日の学校に響かないようにね」
紫さんはそう言って席を立った。 父が店内の明かりを一つ、また一つと落としていく。
薄暗くなった店内で、僕は自分の手のひらを見つめた。
自分の背中を見ることはできないけれど、いつか誰かの背中にある、本人すら気づいていない真意を、僕なら見つけることができるだろうか。
練馬の夜は、どこまでも静かだ。 住宅街の家々から漏れる灯りが、霧に滲んで、まるですべてがルーンの文字のように、何かの意味を持っているように見えた。
僕は小さな袋をポケットにしまい、まだ温もりの残るカウンターを拭き始めた。
いつか来る「すごい流れ」のために、今はまだ、この静かな時間を丁寧に過ごしておこうと思いながら。




