表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ミッドナイト・フォーチュンテラー  作者: 藍内 射尾
夜霧の停泊所

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/6

冬至点:骨のささやき

 練馬の住宅街、その袋小路の奥にひっそりと佇む実家の喫茶店。

 閉店を告げる看板を下げてから三十分。店内の空気は、焙煎したての豆の香ばしい余韻と、少しばかりの生活臭が混ざり合い、ぬるい繭のように僕を包み込んでいた。

 カウンターの奥では、父が使い込まれたネルフィルターを洗いながら、静かに片付けを進めている。その規則正しい水の音だけが、深夜の板橋へ続く静寂を等間隔に刻んでいた。

「……紫さん、今日も遅くまでありがとうございます。母さん、もう寝ちゃったみたいですけど」

 僕はカウンターに肘をつき、目の前に座る女性――葵紫さんを見つめた。母の数少ない茶飲み友達であり、僕にとっては、この夜の帳を自由に歩ける数少ない「知恵者」に見える人。

「あの……さっき言ってた『ルーン』ってやつ、ちょっと見せてくれませんか?」

 僕は少しだけ恥ずかしくなり、視線を伏せた。十六歳の僕にとって、そんな非日常な世界に首を突っ込むのは、少しだけ勇気のいることだったから。

 紫さんはふふ、と喉の奥で笑い、使い込まれた藍色の小袋をカウンターに置いた。

「ふふ、晶くんが興味を持ってくれるなんて嬉しいわね。いいわよ、今日は特別に教えてあげる」

 紫さんは袋の紐を解き、中から白い破片をいくつか掌に転がした。

「ルーンってのは、古い北欧の文字で、ただの文字じゃなくて『力』を持ってるの。原始の文字(エルダー・フサルク)っていう二十四個の基本セットがあって、それぞれに深い意味があるのよ。……これ、何でできているか分かる?」

 差し出された石のようなそれは、街灯の下で見るよりもずっと、有機的な滑らかさを帯びていた。

「……石、じゃないみたいだ」

「正解。これは動物の骨を削ったもの。昔の人は、命の欠片に未来を託したのね。はい、一つ引いてごらん。……そう。冷たくて少し重いでしょう?」

 掌に乗った骨の感触は、僕の体温をじわりと吸い取っていくようだった。

「それが家畜(フェフ)だったら豊かさや新しい始まりを、雄牛(ウルズ)なら力強さや健康を表すの。全部覚えなくていいわ。最初は直感で感じるだけでいいのよ。ルーンは『話しかけてくる』ものだから」

 紫さんはそう言うと、丁寧に淹れ直した中深煎りのブレンドを、僕の前にそっと差し出した。地元ロースターが焼いたその豆は、今の僕の緊張を解きほぐすような、まろやかで優しい湯気を立てている。

「飲んで落ち着きなさい。……じゃあ、今日は晶くん自身を占ってみましょうか。まだ占いを知らない君に、ルーンが何を教えてくれるか」

 紫さんは袋を僕の方へ押しやった。

「袋を振って、三つ引いてみて。過去・現在・未来の並び(スプレッド)で。私が言葉(なかみ)を教えるから、怖がらないで」

 僕は温かいカップを一度握りしめ、指先に熱を馴染ませてから、おそるおそる袋の中に手を伸ばした。

   カチ、カチと、骨と骨がぶつかり合う乾いた音が、静かな店内に響く。

「……え、僕が引いたの……これ」

 カウンターの上に並んだ三つの白い欠片。

「……(ライドー)? それと、伝達(アンスズ)と……(イサ)? 紫さん、これってどういう意味ですか?」

 僕は目を丸くして紫さんを見た。文字というよりは、鋭い引っかき傷のような象形が、そこには刻まれていた。

「晶、コーヒー淹れ直すか?」

 奥から父が優しく声をかけてきたが、僕は生返事しかできなかった。目の前の三つの骨が、まるで僕の知らない僕を指し示しているような、不思議な圧迫感を感じていたからだ。

「いい引きね、晶くん」

 紫さんは満足げに頷い、最初の一つ――(ライドー)を指先でなぞった。

(ライドー)は正しい道筋。君はこれから、占いやコーヒー、人の心を読む道を自然と歩き始めるわ。そして二つ目、伝達(アンスズ)は『知恵』や『言葉の力』。君の静かな声が、いつか誰かを導くようになる」

 紫さんの言葉が、熱いコーヒーと一緒に僕の胸に落ちていく。

「そして最後、(イサ)……。一時的な停滞。今はまだ動けない、何者でもない自分にもどかしさを感じているかもしれない。でも、それは準備の時間よ。氷が溶けたとき、すごい流れが来るわ」

 紫さんは僕の目を見つめ、静かに、けれど確信を持って告げた。

「晶くん。君は派手なリーダーじゃなく、『導く者』になるの。……これがルーンの答え。どう? 少し、未来が見えた気がする?」

 僕は最後の一口、少し冷めたコーヒーを飲み干した。

   骨の冷たさと、コーヒーの熱。その二つが僕の中で混ざり合い、背中を微かに震わせる。

 まだ、自分が何者になるかなんて分からなかったけれど。

   この夜の静寂が、以前よりも少しだけ、僕に味方をしているような気がした。

 カウンターに並んだ三つの白い骨。  紫さんの解説を聞き終えた僕は、自分の内側に小さな火が灯ったような、形容しがたい高揚感を感じていた。

「……すごいな。ただの骨なのに、今の僕の気持ちを言い当てられたみたいだ」

 僕は思わず、再び藍色の袋に手を伸ばした。  もっと知りたい。自分の将来のこと、学校のこと、まだ見ぬ明日がどうなるのか。

「紫さん、もう一回引いてもいいですか? 今度は、もっと先のことを――」

「駄目よ、晶くん」

 紫さんの静かな、けれど通る声が僕の手を止めた。

 彼女は僕の前に置かれた(イサ)のルーンを指先で弾き、袋の中へ戻した。

「占いで一番難しいのはね、『自分を占うこと』なのよ」

「えっ、どうしてですか? 自分のことなら、一番よく分かってるのに」

 僕は拍子抜けして、袋を握ったまま紫さんの顔を見返した。奥の流しでは、父が磨き終えたグラスを棚に戻す、澄んだ音が響いた。

「逆よ。人は自分のことになると、どうしても『見たい未来』や『避けたい不安』というフィルターをかけてしまう。鏡を覗き込んでも、自分の背中は見えないでしょう? それと同じ。心に主観という曇りが入ると、ルーンは本当の言葉を喋るのをやめてしまうの」

 紫さんは僕の飲み干したカップをそっと引き寄せ、空になった底を見つめた。

「自分のために石を振れば、それはただの『願望』になる。けれど、誰かのために振るなら、それはその人のための『道標』になるわ。晶くん、あなたがもしこの道に触れたいなら、自分の心を真っ平らに保つことを覚えなさい。自分を占うのは、鏡の中の自分を捕まえようとするような、終わりのない迷路なのよ」

 僕は、袋の中でジャラリと鳴った骨の重みを感じた。

 自分がどうなりたいかではなく、道具が何を示しているかを、ただ静かに受け取るための器になること。

「鏡の中の……自分」

「そう。いつか君が、誰かのためにその手を差し出すとき。君の主観は邪魔なだけ。ルーンやコーヒーの粉が語ることを、余計な色をつけずに伝えてあげる……それが『導く者』としての、たった一つの、そして一番難しいルールなの」

 紫さんは袋を優しく僕に手渡した。

「今日はこれくらいにしておきましょう。このルーンの冷たさを、忘れないでね」

 僕は預かった袋を、宝物というよりは、何か鋭利なナイフでも入っているかのような緊張感で受け取った。  自分を占ってはいけない。その戒めは、十六歳の僕の胸に深く、(イサ)のルーンのように冷たく刻まれた。

「……ありがとうございました。紫さん」

「いいわ。さあ、もう遅いわよ。明日の学校に響かないようにね」

 紫さんはそう言って席を立った。  父が店内の明かりを一つ、また一つと落としていく。

 薄暗くなった店内で、僕は自分の手のひらを見つめた。

 自分の背中を見ることはできないけれど、いつか誰かの背中にある、本人すら気づいていない真意(わけ)を、僕なら見つけることができるだろうか。

 練馬の夜は、どこまでも静かだ。  住宅街の家々から漏れる灯りが、霧に滲んで、まるですべてがルーンの文字のように、何かの意味を持っているように見えた。

 僕は小さな袋をポケットにしまい、まだ温もりの残るカウンターを拭き始めた。

 いつか来る「すごい流れ」のために、今はまだ、この静かな時間を丁寧に過ごしておこうと思いながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ