氷のステップと盾の紋様
夜の光が丘公園は、街灯の届かない場所から順に、深い紺色の闇に塗り潰されていく。 かつての滑走路だった広大なアスファルトの端、一台の自販機が放つ無機質な光のそばで、彼女はうずくまっていた。
立花カルラ。 いつもは学校の廊下を弾むように歩いている彼女が、今は泥のついたスニーカーを抱えるようにして、スマホの暗い画面を見つめている。
「……晶、連れてきたよ。カルラ、もう練習やめるなんて言わないで」
幼馴染の朝倉優子が、僕の背中を軽く押した。 僕は藍色のフードを少し直し、師匠作のトランクケースを彼女たちの前で止めた。ガタ、と小さな振動と共に、琥珀色のLEDが『COFFEE』の灯をともす。
「……優子ちゃんから聞いて来たんだね。立花さん、だっけ? 僕、晶」
僕はベンチの端に腰を下ろし、トランクのサイドポケットから藍色の布袋を取り出した。
「ルーンで占うよ。……袋の中の石、触ってみて。少し、不思議な感触がするだろ」
僕が手渡した袋の中で、骨で作られたルーンたちが微かな音を立てる。 カルラはおそるおそる、震える指先を袋の中へ滑り込ませた。カチャ、カチ……。石同士がぶつかる音よりも少し低く、どこか生き物の体温を思い出させるような、不思議に落ち着いた響き。
彼女の指先に触れたのは、長い年月を経て磨かれ、吸い付くような滑らかさを帯びた骨の質感だった。
「……三つ、引いてみて。過去、現在、未来だ」
彼女が掌にこぼしたのは、三つの白い断片だった。 街灯のオレンジ色の光が、そこに刻まれた鋭い溝をくっきりと浮かび上がらせる。
「引いた石はこれ。過去に水、今は氷、未来に守護」
僕は石をカルラの前に丁寧に並べ、指先で一番左の石をなぞった。
「水……。君のダンスへの情熱は、本来は自由に流れる水だったはずだ。でも、今はこれ。氷が出てる」
僕は真ん中にある、一本の縦線が刻まれた石に触れた。骨特有の滑らかさの奥に、夜気よりも鋭い冷たさが伝わる。
氷は一時的な停止。けれど、その下では水が次の流れを待っているんだ。 今の彼女に必要なのは、無理に踊ることじゃなく、氷が溶けるのを待つ勇気なのかもしれない。
「今、君の心が凍ってるみたいだね。練習が上手くいかなかったり、自分に自信が持てなかったり……動けない氷の状態。でも、それは悪いことじゃない。氷は溶けるための準備時間なんだよ」
僕は右端の、エルクの角のような形をした石――守護を指し示した。
このルーンが逆位置じゃなく正位置で出たってことは、彼女の周りにはもう、本物の「盾」がある。
「未来にこれが出た。優子ちゃんとのペア練習……彼女が君を守ってくれてる。未来の守護は、君が一人で戦うんじゃなくて、守られながら強くなれるってサインだ。ダンスのステップ、最初はぎこちなくても……一緒に流れる水みたいに、いつか自然に繋がるよ」
「……守られてる、私が?」
カルラが初めて顔を上げた。その瞳には、街灯の光と、少しの戸惑いが混ざっていた。
「そう。この文字は、君の周りに本物の『盾』がもうあるって教えてくれてる。一人で完璧になろうとしなくていいんだ」
僕はトランクから保温ボトルを取り出し、真っ白な陶器のカップに琥珀色の液体を注いだ。 立ち上る湯気と共に、ベルガモットの爽やかな柑橘香が、冬の気配を残す夜気を一気に塗り替える。
「……アールグレイだよ。これ飲んで、少し溶かしてみて」
熱い紅茶が、凍りついた彼女の輪郭を優しく解かしていく。ベルガモットの強い香りが、隣に座る優子という存在を、確かな絆として彼女の身体に浸透させていく。
カルラは両手でカップを包み込み、その熱を確かめるように一口、ゆっくりと含んだ。 香りが鼻を抜け、こわばっていた彼女の肩が、ふっと頼りなく落ちる。
「……あったかい」
「氷が溶ければ、また水になる。君のダンスも、また流れ出すよ」
僕は自分のポケットの中で、自分用のルーンの袋に触れた。 指先に触れる、しっとりとした骨の感触。
「……僕も昔、似た氷を抱えてたよ。……師匠に占ってもらって、ようやく溶けたんだ」
独り言のように呟いた僕の言葉は、夜の静寂に吸い込まれていった。 カルラはもう一度紅茶を啜り、今度は隣に座る優子の肩に、そっと頭を預けた。
アスファルトに刻まれた滑走路の跡地。 かつて飛び立っていった者たちの記憶が眠るこの場所で、少女たちの新しい助走が、静かに始まろうとしていた。
翌日の放課後、放課後の視聴覚室前。練習用の鏡に映る自分の顔は、昨夜よりは少しだけ見られるものになっていた。
「カルラ、昨日より体、動いてるよ」 隣で汗を拭いながら、優子が笑う。 私は「そうかな」と短く返して、昨夜のあの不思議な少年の声を思い出していた。
氷は溶けるための準備時間。 あの日、掌に乗せられた骨のルーンは、夜の闇の中でも不思議と温かかった。
私は今まで、ダンスは一人で戦うものだと思い込んでいた。ペアを組む優子に迷惑をかけたくなくて、彼女の完璧なステップに追いつこうと必死で、自分の足元しか見ていなかった。だから、自分の心が凍りついていくことにも気づけなかったんだと思う。
でも、あの少年――晶くんが示した最後の石。守護の紋様。 彼はそれを「盾」だと言った。 私が優子を守らなきゃいけないんじゃなくて、私はもう、優子という盾に守られているんだ、と。
(……一人で完璧になろうとしなくていい)
その言葉を思い出すたびに、喉の奥に昨夜のアールグレイのベルガモットの香りが蘇る。 不思議な感覚だった。 守られていると認めることは、決して「甘え」じゃない。むしろ、背中を任せられる安心感があるからこそ、私はもっと自由に、もっと遠くへ足を伸ばせるんだ。
「ねえ、優子。さっきのステップ、もう一回合わせていい?」
私から声をかけると、優子は少し驚いたように、それから今日一番の笑顔で頷いた。
「もちろん。行こう、カルラ!」
音楽が鳴り出す。 まだ足元は完璧じゃない。ぎこちないところもある。 けれど、昨日のように「失敗したらどうしよう」という恐怖で指先が震えることはなかった。
鏡の中の私たちは、少しずつ、けれど確実に噛み合っていく。 それはまるで、春の陽光を受けて少しずつ溶け出した雪解け水が、ひとつの大きな流れになっていくような感覚だった。
夜の公園、琥珀色のライト、しっとりとした骨の感触。 晶くんがくれたあの「整理整頓」は、私の心の奥にあった澱みを、澄んだ水に変えてくれた。
練習の帰り道、私はカバンに付けたお守りをそっと握る。 彼にはもう会えないかもしれない。あるいは、また光が丘の暗がりに、あのトランクケースを見つける日が来るのかもしれない。
もし次に会えたら、今度は「ありがとう」と一緒に、私が一番好きなフレーバーの紅茶を差し入れよう。 そんなことを考えながら、私は夜風を切って、昨日よりもずっと軽い足取りで駅へと向かった。




