聖母の渇きと禁断の残響
PM 8:15 │聖母の渇きと禁断の残響《The Saint's Thirst》
「失礼します、ママ。……最後は、私ですね」
最後に現れた│銀波ニーヴは、いつものように穏やかな微笑みを湛えていた。
影の国の停戦地帯。荒ぶる戦士たちの傷を癒やし、リスナーの荒んだ心を溶かす彼女のASMRは、SRCという組織を繋ぎ止める「最後の鎖」だ。
だが、私の向かいに座った彼女の瞳には、薄暗い寂寥が混じっていた。
「……ママ。実は、少し疲れてしまったみたいで。日々、誰かを癒やすために言葉を紡いでいると、私自身の『癒やし』がどこにあるのか分からなくなってしまうんです」
私は彼女の指先が、微かに震えているのを見逃さなかった。
だが、彼女は不意にその震えを止め、小首をかしげて私を覗き込んできた。
「……先ほど、クーくんから聞きました。『お仕置き』、とても……情熱的だったとか。目隠しをされて、ママの腕の中で、何度も同じ言葉を囁かされて……」
「な、何よ。あの子、そんなことまで喋ったの?」
「でもいいんですか? 未成年にそんなことして」
「うぐ……何が言いたい」
図星を突かれ、私は思わず言葉に詰まる。そんな私を見つめるニーヴの瞳が、じっとりと熱を帯びて潤んだ。
「私もぜひ、その極上のひとときを体験したいです。……いいえ、させてください」
……断れる雰囲気ではなかった。
私は溜息をつき、クーにした時と同じように、ニーヴをソファへ促した。
彼女の視界を遮り、背後からその柔らかな身体を抱きしめる。クーの時とは違う、大人びた女性の香りと体温が肌に伝わる。私は彼女の耳元に唇を寄せ、至近距離から「命令」を吹き込んだ。
「……『私は……癒やし手です。でも、今だけはママに溺れてもいいですか』。……さあ、復唱して」
「……っ。……私は、癒やし手です……。でも、今だけは、ママに……溺れても……いいですか……」
ニーヴの声は、最初から「完成」されていた。
私の首筋に吐息をわざと吹きかけ、甘く、湿り気を帯びた声で、私の理性を直接削り取っていく。それは復唱という名の、逆ASMR攻撃だった。
数分後。
私はニーヴを解放し、お互いにソファの両端へと距離を取った。
「……やばいわ、コレ」
私が乱れた髪を掻き上げながら、乾いた声で呟く。
「……やばいね、コレ」
ニーヴもまた、上気した頬を両手で押さえ、うっとりとした、それでいて戦慄を覚えたような表情で吐息を漏らした。
プロとプロが、互いの「側」を脱ぎ捨てて情動をぶつけ合う。
それは癒やしを通り越し、もはや互いの魂を損壊させかねない禁断の領域だった。
「……今の、録音してないわよね?」
「……していたら、今夜中に私のリスナーが全員、再起不能になっていたでしょうね」
都会の世界樹。その深淵で、女王と聖母は互いの「業」の深さを噛み締め、ようやく重い沈黙を解いた。
PM 9:30│地下鉄の女王と光が丘の夜《Subway Queen & Hikarigaoka Night》
新宿の喧騒を背に、都営大江戸線の深い深いホームへと降りる。
この時間の地下鉄は、連休の浮かれた空気と、遊び疲れた人々の倦怠感が混ざり合っていた。
私はガタゴトと揺れる車内で、窓に映る自分の顔を眺める。
(……プロデューサー、ね。あの子たちの将来を背負うのも、そう悪い気分じゃないけれど)
終着駅、光が丘。
地上に出ると、西新宿の鋭利なビル群とは違う、どこか落ち着いた夜の空気が肌を撫でた。
私は慣れた足取りで、いつもの高架下――晶たちが溜まっているブースへと向かう。
「あ、紫さん。お疲れ様です」
ベンチでノートを広げていた晶が、私に気づいて軽く手を上げた。その隣では、優子がスマホをいじりながら「あ、紫さんだ! お疲れ様でーす!」と元気よく声を弾ませる。
「……元気ね、二人とも。彩は?」
「母さんなら、あっちの自販機で飲み物買ってますよ」
晶が指さした方から、缶コーヒーを手にした彩が歩いてくる。
「あら紫,お疲れ様。今日も西新宿の女王様は大忙しだったみたいね」
「女王様はやめて。……一本頂戴」
私は彩から手渡された冷たい無糖紅茶を喉に流し込む。
「世の中はGWだっていうのに、あんたたちは相変わらずね。……今日は少し、面白いものを見せてあげるわ」
「面白いもの? なになに、紫さんの新しいお仕事ですか!?」
春の会社見学以来、私の仕事に興味津々の優子が、待ってましたと言わんばかりに身を乗り出す。
「たまには私の│弟子たちの配信を、みんなで見るわよ。……晶、あんたもこっち来なさい」
「えっ、紫さんがプロデュースした子!? 見たいです! どんな可愛い子がいるんですか?」
「えぇ、師匠。今日はどうしたんですか? いつもは自分の仕事の話、あんまりしないのに」
晶が少し意外そうに、けれどどこか嬉しそうに私の隣へ寄ってくる。
「別に。……たまには、私の『自慢の家族』を紹介したくなっただけよ。……ほら、これが一番弟子のクー。こっちがアイフェ……」
スマホの小さな画面の中で、クーが元気に叫び、アイフェが毒を吐く。
教え子である晶や優子と、画面の中で戦うバーチャルの弟子たち。
私の大切な二つの「影の国」が、光が丘の夜の中で静かに重なり合っていった。
PM 10:15│夜風と影の継承者《Night Breeze & Heirs of Shadow》
スマホの画面が暗転し、数万人を熱狂させた「影の国」の門が閉じる。
優子は「クーくん、マジ推せる……!」と興奮冷めやらぬ様子で、晶は「……あのアバターの挙動、どうやって制御してるんだろう」と、それぞれの視点で余韻に浸っていた。
「さて、子供たちはそろそろ撤収の時間よ。晶,優子ちゃんをちゃんと送っていくのよ」
彩の促しに、二人は少し名残惜しそうにしながらも「おやすみなさい!」と夜の闇へ消えていった。
高架下に残されたのは、私と彩、二人の「親友」だけ。
街灯のオレンジ色が、アスファルトの上に二つの影を長く落としている。
「……どうだった? 私の弟子たちは」
「ええ、凄かったわ。紫が心血注いで『整理』しただけあって、あの子たち、ちゃんと自分の足で立ってる」
彩は手元の空き缶を揺らし、少しだけ真面目な顔で私を見た。
「でも、大変でしょ。あんな個性派揃いを育てるのは」
「……そうね。正直、自分が動いた方が何倍も速いのよ」
私は夜風に吹かれながら、今日一日の出来事を思い返す。
「寝落ちする子に、掛け合いに悩む子、野心剥き出しの子に、愛が重すぎる子……。一人一人の『側』を整えて、言葉を覚えさせて、時にはお仕置きまでして。……でもね、不思議と嫌じゃないのよ」
「へぇ、あの紫がねぇ」
「……彼らに教えているようで、実は私の方が教えられているのかもね。私が投げた言葉が、私の想像もしなかった形で彼らの中で芽吹いて、新しい物語を紡ぎ出す。その瞬間を見るのは、何物にも代えがたい快感だわ」
思い通りにいかないからこそ面白い。
こちらの意図を超えて、勝手に動き出す「弟子」たちの予測不能な輝き。
それは、ただのデータやマニュアルでは決して到達できない、生きた「表現」の醍醐味だった。
「育てるっていうのは、自分を少しずつ削って、相手に分け与える作業ね。……でも、削れたはずの場所には、いつの間にか新しい何かが満ちている。……不思議なものだわ」
私は空を見上げた。西新宿の夜空には見えなかった星が、光が丘の空には微かに瞬いている。
「さて、明日もまた、騒がしい『影の国』が始まるわ。……彩、あんたの息子も、せいぜいビシビシ鍛えてあげるから、覚悟しておきなさい」
「あら、お手柔らかに頼むわよ、師匠ママ?」
二人の笑い声が、静かな夜の公園に溶けていく。
新しい命を、新しい才能を、新しい「知」を育むということ。
その難しさと楽しさを噛み締めながら、私は心地よい疲労感と共に、今日という一日を静かに閉じた。




