都会の世界樹
都会の世界樹
9:00│都会の世界樹《urban Yggdrasill》
西新宿の空は、夜の残り香を振り払うように白み始めていた。
高く聳え立つビル群は、まるでコンクリートで編まれた巨大なモノクロームの世界樹だ。日が昇るにつれ、その影は鋭利な刃物のようにアスファルトを刻み、今日という一日の中で繰り広げられる「生と死」のドラマを予感させる。
窓の外、グレイのスーツを纏った通勤客の奔流が、地下鉄の入り口へと吸い込まれていく。その規則正しい流れは、この都市という名の樹を維持するためだけに運ばれる、顔のない養分のようにも見えた。
人々が既にそれぞれの持ち場で「個」を消し、歯車としての活動を始めている中、私はようやく重い瞼を持ち上げた。
AM 9:00
「おはようございます、相談役」
枕元に届く声は、驚くほど冷静で、そして遠慮がない。
視界の端、部屋の調度に馴染むように立っていた秘書兼オペレーターの**鈴吹 凛音**が、私の覚醒を正確に捉えていた。
「おはよ。……平然と私室に入ってくることに、ツッコミを入れればいい?」
シーツの摩擦音を立てながら、私は身体を起こした。
指先で乱れた髪を掻き上げる。
「でしたら、平然と会社に私室を構えていることに突っ込めばいいですか?」
「……すみませんでした」
軽妙な、けれど決して一線を越えない皮肉に、私は短く降参の意を示した。
ここは西新宿、YDE(Y-Digital Enterprise)。
私は友人たちが立ち上げたこの会社の創業メンバーではあるけれど、経営という面倒な椅子は彼らに押し付けた。コンテンツ部門の「相談役」という、響きだけは立派な、しかし実態は「何でも屋のフィクサー」という今のポジションが一番居心地がいい。
「というか昨日モデレーターやってたんだから、これくらいはいいじゃない」
ベッドサイドに放り出していたタブレットを拾い上げる。
画面には、昨晩管理していたVTuberの配信アーカイブの残骸。私が「ママ(設計者)」として生み出した、あの二次元の皮を被った少女が画面の向こうで笑っている。時折、自分でもその「側」を纏って仮想世界に降りることもあるけれど、今の私にあるのは、ただのひどい頭痛と重い身体だけだ。
「代表たちが立ち上げたこの会社で、あなたが一番自由奔放なのは理解していますが……少しは自室の惨状を自覚してください。足の踏み場を確保するのも私の仕事に含まれているとお思いで?」
凛音が冷ややかな声と共に、床に散らばった資料や衣類を鮮やかな手つきで整理していく。私は人々の心やデータの混線を整理する仕事をしているが、自分の生活力だけは、この優秀な秘書に完全に依存していた。
「……雑誌の占いコラムの締め切りは、今日中。それから、先日届いた新曲のデモテープのチェックもお願いします。彩さんから『仮歌、いつでも入れられるよ』と伝言が入っています」
凛音がテキパキと一日のスケジュールを読み上げる。
データの海で星の巡りを計算し、文字に起こす作業。そして、親友である彩の歌声に乗せるための旋律を精査する作業。
私の仕事は、いつもアナログとデジタルの境界線にある。
「彩も相変わらず元気ね……。いいわ、午後に時間を作る」
ようやく立ち上がり、大きな窓に手を突く。
私は、自分の生活という整理しきれないカオスを凛音に委ねながら、鏡の中の自分を睨みつける。これから始まるのは、データの整合性を守り、欲望を交通整理する、デジタルな戦場の一日だ。
「凛音。コーヒー、もう一杯。それから、板橋から届いている例の『トランクの改造図面』、モニターに飛ばしておいて」
「了解しました。……晶さんのあのトランク、また一段と『重く』なりそうですね」
凛音の言葉に、私は口角をわずかに上げた。
「いいのよ。重いってことは、それだけ耐えられるってことなんだから」
戦装束に着替える時間は終わり。
相談役としての顔を作り、私はモノクロームの世界へと一歩を踏み出す。
AM10:30
ワシントンホテル最上階、『マンハッタンテーブル』。
天井の高い空間に、抑制されたカトラリーの音が響く。窓の外には、先ほどまで見上げていた西新宿のビル群が、今度は横並びの視線で広がっていた。
「相談役、私までご相伴にあずかりありがとうございます」
「後輩なんだから、たまには奢るくらいの甲斐性見せるわよ」
エッグベネディクトの黄身をナイフで突きながら、私は気だるげに応じる。
「でしたらば、ぜひ『上司』としてその甲斐性を見せていただきたいです」
「……すみませんでした」
凛音の事務的な正論に、今日二度目の敗北を喫する。彼女は私の「相談役」としての顔も、私生活の「だらしなさ」も等しくフラットに扱う。それが私にとっては、データの海に溺れないための命綱のようなものだった。
「ですが、良かったのですか? 朝からこんな贅沢……」
「硬いこと言わずに、たまにはブランチでも楽しみなさいな。まあ、昨夜│配信だったから朝ごはん買っておくのを忘れたのよ。役得だとでも思っておいて」
片手間でスマホを操作し、各種連絡を処理していく。通知の嵐をスワイプで捌く指先は、戦場を駆ける兵士のそれだ。
「あとは雑誌の│寄稿と仮歌ね。凛、そちらにもう一曲の方送ったから、│マスタリング《最終調整》の方に回しておいて」
「んんっ……いつの間に。……まあ、承知しました」
凛音が驚いたように目を瞬かせる。私がブランチの合間に「仕事」を済ませたことに、ようやく秘書としての対抗心が芽生えたらしい。
「さて、それじゃ社に帰るわよ」
11:00│旋律の設計図《Mabinogion》
YDE社内、防音完備の録音ブース。
外の喧騒を完全にシャットアウトしたこの空間だけは、デジタルな世界樹の深部にある、静かな空洞のようだ。私は愛用のギターを抱え、弦を爪弾く。
「彩さんに送る方の仮歌は、なぜいつも相談役が演奏してるんですか? 他の皆さんの分は│打ち込み《プログラム》ですよね」
ミキシングルーム側の凛音が、インターホン越しに尋ねてくる。
「仮歌でも、いわばお手本でしょ。│譜面っていう│設計図は渡してあるけど、それ通りに歌うだけなら│VOCALOIDなんかでも事足りちゃう。……まあ、彩の場合は、譜面と私の演奏の『差』を見て、この曲がどれくらい遊びが許されるか探ってるみたいね」
「そうなんですか……」
「私が最終判断を出す立場だから、『│プロデューサー《ゆかり》がこれを出してきたってことは、こんなイメージなんでしょ』って、彼女なりの解釈をぶつけてくるのよ。……まあ、生音でも一発で決めるから、そこまで時間はかからないしね」
「作曲もプロデュースも自分ですからね……。全権掌握の独裁者っぷりは相変わらずです」
「人聞きが悪いわね」
私は苦笑し、レコーディングの開始合図を送る。
ギターの弦が震え、空気を震わせる。この振動が、いつかストリートで誰かの耳に届く「歌」の骨組みになる。
彩に送る音には、嘘はつけない。
あいつは、私の指先が迷えばすぐに見抜く。そして、私が本気で鳴らせば、それ以上の熱量で返してくる。
(さて、晶。お前の師匠も、こうして現場で足掻いてるわよ)
一音入魂。
モノクロの世界樹の奥深くで、有機的な│旋律が息を吹き返した。




