BLACKBIRD
BLACKBIRD
四月下旬。
公園の桜はすっかり散り、街灯に照らされた若葉が、重なり合って濃い影を落としている。夜の冷気も少しずつ和らぎ、代わりに湿り気を帯びた草木の匂いが、春の深まりを告げていた。
「ねえ晶、たまには母さんも外の空気を吸いたいわ。夜の公園で歌うなんて、なんだか映画のヒロインみたいじゃない?」
そう言って、夕飯の後片付けもそこそこに付いてきた母さんは、僕が運んできたポータブル電源にちゃっかり小型のキーボードを繋いでいた。
「……いいけど。あんまり騒ぎすぎないでよ。近所迷惑になったら即撤収だからね」
「分かってるって。晶の『整理屋』の営業妨害はしないわよ。BGM、BGM」
母さんはお気に入りの折り畳み椅子に深く腰掛け、鍵盤に指を置いた。
「Blackbird singing in the dead of night……」
奏で始めたのは、ビートルズの『ブラックバード』。
夜の闇の中で、折れた翼を広げて空へ飛び立とうとする、小さな黒い鳥の歌。
母さんの少し掠れた、けれど芯のある歌声が、葉桜の枝を揺らして夜の底へ溶けていく。僕はガスストーブの小さな火を見つめながら、その旋律に身を委ねていた。
曲が終わると、ベンチの影から足音を忍ばせて、一人の少女が近づいてきた。
僕より少し年上だろうか。柔らかな質感のカーディガンを羽織り、ギターケースを背負った彼女は、感極まったように小さく拍手をした。
「……すごく、素敵な歌声。今の曲、私の大好きな曲です」
「あら、嬉しい。聴いていてくれたの? あなたもギターを持ってるってことは、音楽をやるのね」
母さんが鍵盤から手を離し、同業者を見つけた子供のように目を輝かせる。
少女は小鳥遊唯駒と名乗った。新学期からこの公園の隅で、時々ギターを抱えて練習している女子大生だという。
「はい。でも、母さんの……あ、いえ、お姉さんの歌を聴いたら、自分がなんだか情けなくなっちゃって。私、自分で曲を作ろうとしているんですけど、歌詞がどうしても浮かばないんです。メロディはあるのに、言葉が喉の奥で渋滞しているみたいに……」
唯駒さんの瞳には、創作という名の出口のない迷路に迷い込んだような、静かな焦燥が宿っていた。
母さんは彼女の隣をポンポンと叩き、優しく微笑んだ。
「いい名前ね、唯駒ちゃん。音楽っていうのはね、時々言葉が『音』に追いつかなくなることがあるの。そういう時は、無理に言葉を引っ張り出そうとしても、翼が傷つくだけよ」
母さんが僕の方を振り返り、顎でトランクを指し示す。
「晶。この子の心の『目詰まり』、あなたの道具で少し見てあげてくれない?」
僕は頷き、トランクの底から、小さなベルのような形のケースを取り出した。
「……言葉が渋滞しているなら、一度、その『音』だけを聴いてみませんか?」
僕はケースを開け、街灯を反射して透明な光を放つ道具を、テーブルの上に静かに置いた。
ケースから取り出したのは、掌に収まるほど小さな水晶製のチャイムだった。
僕はテーブルの上の明るいLEDランタンのスイッチを切り、代わりに小さなオイル式のランタンに火を灯した。周囲の輪郭が淡い橙色に沈み込み、夜の静寂が一段と深く感じられるようになる。
「今日はこの水晶チャイムでみてみましょう。目に見える光じゃなくて、この小さなチャイムを叩く音で……君の歌詞の『振動』を聴いてみるんです」
唯駒さんは驚いたように目を丸くしたが、僕が差し出した小さなマレットを戸惑いながら受け取った。
「これを……叩けばいいの?」
「はい。チャイムを叩いてみてください。音が伸びる長さが、君の言葉が喉の奥でどれだけ待ってるかを教えてくれます」
唯駒さんが、おずおずと水晶の縁を叩いた。
キィィィィィン……。
澄み渡るような、けれどどこか張り詰めた高い音が夜の公園に響き渡る。
「音が少し詰まった……。今、言葉が詰まってるのと同じです。でも、微かに余韻が残ってる。喉の奥に、まだ歌いたい気持ちが眠ってるんですよ」
僕は彼女の隣で、消え入りそうな音の末端を指でなぞるように動かした。
「水晶の音は、君の心の鏡。毎回違う響きが出るのは、君の気持ちが毎日少しずつ変わってる証拠だから。……もう一度、今度は深く息を吐いてから叩いてみてください。音に身を任せるように」
唯駒さんは一度深く呼吸をし、今度は迷いなく音を鳴らした。
先ほどよりも太く、伸びやかな残響。それが葉桜のざわめきと混ざり合い、ゆっくりと闇に染み込んでいく。
「……この音が長く残ってる。君の歌詞も、まだ伸びようとしてるんです」
「音が……消えない。私の頭の中にある言葉も、こんなふうに震えているのかな」
唯駒さんが呟いた。その表情から、先ほどまでの硬さが少しだけ解けていく。
僕はカセットコンロにかけていたケトルが湯気を上げたのを確認して、用意していたカップに茶葉を躍らせた。
「母さんが『喉に優しいのがいい』って言ってたので、はちみつをたっぷり入れました。温かいうちに飲んでください。はちみつレモンティーです」
「あ……ありがとうございます」
唯駒さんは両手でカップを包み、立ち上る湯気を吸い込んだ。
「……喉が、ほっとする。歌詞が、少しだけ近づいてきた気がします。完璧な言葉を探そうとして、一番大事な『響き』を忘れていたのかもしれない」
隣で静かに見守っていた母さんが、キーボードの鍵盤を一音、優しく叩いた。
「それでいいのよ、唯駒ちゃん。言葉は後からついてくる。まずはその震えを大切にして」
「はい!」
唯駒さんは、はちみつレモンティーを飲み干すと、軽やかになった手つきでギターケースを背負い直した。
「私、もう一度向き合ってみます。……また、ここで歌ってもいいですか?」
「もちろん。次の時は、あなたの歌を聴かせてね」
母さんの言葉に背中を押されるように、唯駒さんは夜の街へと消えていった。
「……いい仕事したわね、晶」
「僕は音を鳴らしてもらっただけだよ」
僕は道具をトランクに仕舞い、ポータブル電源のスイッチを切った。
四月の夜風が、僕の頬を撫でて通り過ぎる。
新しい場所へ飛び立とうとする者、伝統を守ろうとする者、そして立ち止まったままの者。
この春、僕のトランクが開かれるたびに、誰かの「整理」が進んでいく。
葉桜の下、僕は静かに夜の公園を後にした。




