滑走路の残響
滑走路の残響
かつての成増飛行場。今は光が丘公園と呼ばれるこの場所の地面には、今も巨大な滑走路の記憶が眠っている。
深夜の公園中央、広大なアスファルトの平原を、一筋の閃光が切り裂いた。
乾いたウィールの回転音が夜霧を震わせる。
「……来たか」
僕はトランクケースの天面に置いた時計に目を落とした。
闇の向こうから、一人の男が滑り込んでくる。陸堂 翔。この界隈のスケーターたちを束ねる、文字通りの「頭」だ。
彼は滑走路の跡地を文字通り駆け抜け、僕の拠点の数メートル手前で鮮やかにボードを跳ね上げた。
「よお。今日も怪しい商売やってんな、晶」
翔は捕まえたボードを脇に抱え、乱れた髪を無造作にかき上げた。
ガタイが良く、ぶっきらぼうな物言いだが、その声には不思議と人を安心させる重みがある。多少の揉め事なら拳一つで片付けてしまいそうな、そんな「兄貴」の風格を纏っていた。
「商売じゃなくて、整理整頓ですよ。……翔さん、今日は随分飛ばしてましたね」
「まあな。……少し、頭を冷やしたくてよ」
彼はベンチに深く腰掛けた。
いつもなら仲間に囲まれている彼が、一人でここに来る意味を僕は考える。
「……チームがデカくなると、余計なもんまで背負い込むことになる。俺がアイツらの先頭を滑り続けてやれるのか、時々足元がグラつくんだよ」
僕は何も言わず、師匠作の機械を動かした。
今夜の出し物は、泥のように濃いトルココーヒーだ。トランクのボイラーが唸りを上げ、濃厚な粉の香りが周囲の霧を塗り替えていく。
「……翔さんらしくない。あんたが止まったら、後ろの連中が玉突き事故を起こしますよ。……ほら、これ。とりあえず飲んで」
「おう。……相変わらず、泥みたいなコーヒーだな」
翔は苦笑しながら、小さなカップを受け取った。
彼は熱い液体を喉に流し込み、最後に残った沈殿物を一瞥して、僕の指示通りにカップを伏せた。
「……占い、だったな。俺の今の『ツラ』、どう映ってる」
「予言じゃないですよ。ただの現状確認です」
僕は数分待ってから、冷えたカップを手に取った。
白い陶器の内側に張り付いた、真っ黒な粉の文様。僕はそれを、街灯の微かな光に透かして読み解く。
「……出てますね。ほら、ここ。側面に盛り上がった大きな山がある」
「山ぁ?」
「挑戦とか、頂上とか。……要はリーダーシップの象徴です。これがカップの縁に近いってことは、翔さんはもうそこに行けるだけの力があるってことですよ。……それと、この横に走ってる鋭い直線。これ、剣に見えませんか?」
僕はマドラーの先で、粉の中に引かれた一本のラインをなぞった。
「決断力、あるいは武器。……あんたがみんなを引っ張るための『覚悟』が、ちゃんと形になってる。山の麓には点々と粉が散らばってるけど、これは翔さんを支えてる連中だ。あんた、一人で滑ってるつもりかもしれないけど、後ろはちゃんと付いてきてますよ」
翔はじっと、僕の手の中のカップを見つめた。
しばらくの沈黙。遠くで練習しているサックスの音が、今は少しだけ力強く響いた気がした。
「……フッ。お前に言われると、妙に腹に落ちるな。この粉の塊が、アイツらに見えてきたわ」
翔は立ち上がり、パン、と力強く僕の肩を叩いた。
その手のひらの厚みと熱は、彼が背負っているものの重さそのものだった。
「悪かったな、湿っぽい話しちまって。……二千円だったか。取っとけ、お前の『整理代』だ」
彼は多めに置こうとした小銭を僕に制止され、苦笑いしながら財布をしまった。
「……晶。お前も、この夜の仲間だ。なんかあったら言えよ。滑走路の端から端まで、俺らが守ってやるからよ」
「……心強いですね。また気が向いたら寄ってください」
翔はボードを地面に叩きつけ、片足で力強く地面を蹴った。
一気に加速し、夜霧の向こうへと消えていく彼の背中は、現れた時よりもずっと大きく、頼もしく見えた。
僕は一人になり、空になったカップをトランクへ片付けた。
「……さて、帰るか」
トランクのキャスターを引く音が、静かな公園に響く。
かつての滑走路。かつての戦士たちが飛び立ったこの場所で、僕らもまた、それぞれの明日という空へ向かって、不器用に助走を続けている。
僕は藍色のフードを深く被り、霧の奥に消えた轍を思い描きながら、団地へと続く道を歩き始めた。
光が丘公園の広大なアスファルト。
あの日、晶に占ってもらってから数日後。 俺はチームの連中を集めて、滑走路の跡地を貸し切り同然で滑っていた。
「翔さん、今のオーリー、ヤバくないっすか!」
年下のメンバーが興奮気味に声をかけてくる。 俺は軽く手を挙げて応えながら、ポケットの中で小銭と一緒に転がっている「感触」を思い出していた。
あいつ――晶がコーヒーの粉の中に見た「山」と「剣」。
正直、占術なんて信じちゃいねえ。 だが、あの真っ黒な泥のような粉の中に、自分の迷いが形になって浮き出ていたのは事実だ。
俺はこれまで、リーダーってのは「完璧でなきゃいけない」と思い込んでいた。 後ろを滑る連中に、一度だって情ねえ姿は見せられねえ。 そうやって肩肘張って、勝手に孤独になってたんだ。
(……剣みたいな線は、決断のサイン。あんたがみんなを引っ張るための、覚悟の形ですよ)
晶のあの、どこか冷めていながらも確信に満ちた声が耳に残っている。
あいつが見つけたあの線は、俺が握るべき「覚悟」だったんだ。 迷うことが悪いんじゃない。 迷った末に、どっちの方向にボードを蹴り出すか。 それを決めるのが、俺の役目なんだと腹に落ちた。
「おい、お前ら! ちょっと集まれ」
俺が声をかけると、散らばっていた連中が次々にデッキを止めて集まってくる。
以前の俺なら、一方的に命令を伝えて終わりだっただろう。 だが、今はあいつが言った「山の麓の点々」の意味がわかる。 こいつらは俺が踏みつける石ころじゃねえ。 一緒にこの「山」を登る仲間だ。
「次のコンテスト、俺たちのチームは攻めのスタイルで行く。……正直、俺一人じゃ見きれねえ部分もある。だから、セクションの構成はお前に任せたい。どうだ?」
名指しされたメンバーが、驚いたように目を丸くした。 それから、照れくさそうに、でも力強く頷いた。
「……任せてください。翔さんの背中、絶対外さない構成にしますよ」
周りの連中からも、熱のこもった声が上がる。 風が変わった。そう感じた。
滑走路を蹴る一歩一歩が、以前よりもずっと重く、同時に軽やかだ。 俺が剣を振るう場所は、こいつらが安心して滑れる「道」を切り拓くための場所なんだ。
練習の合間、俺は遠く、晶がいつも陣取っているあのベンチのあたりを眺めた。 昼間のそこには、ただの公園の風景が広がっているだけだ。
だが、夜になればまた、あの琥珀色の灯りがともる。 あいつは、ただの「占い師」じゃねえ。 夜の公園に停泊する、羅針盤みたいな奴だ。
「……また行くか」
俺は再びボードを蹴り、滑走路の先、まだ誰も滑っていない真っさらな闇へと加速した。




